Ⅰ.はじめての地球
650万年前、金星―――
「はあ?」
鏡に映ったその映像で、民族衣装に身を包んだ女がしくしくと泣いている。
「素戔嗚と、また喧嘩をしてしまったのです・・・・・・」
「また?」
同じく、民族衣装に身を包んだ男が溜息を吐く。肘を着いた時、手首に巻き付いた何重もの環がじゃらじゃらと鳴った。
「ええ・・・・・・」
女が涙を指で拭う。眉をハの字にして俯くが、顔を急にパッと上げて呻った。
「あの男、この星を乗っ取る心算です・・・・・・!!」
「あの男とは・・・自分の弟であらうに・・・少し決めつけが早いのでは?」
「私、岩戸に篭ろうと思います・・・・・・!!」
女がキッとした表情になる。ヒステリックになっている彼女に、男は慌てて立ち上がった。
「待たれよ。其、太陽の光を受け付けぬという事ぞ。万物、太陽が無ければ生きられぬ!」
「ええそうです。ですから、貴方に頼みたい事が有る」
女は画面の正面に向き直って、男に向かって深く礼をした。
「もう決めました!私は、貴方との通信を終え次第、天の岩屋戸に篭ります。私が岩戸に篭っている間に、人類が孵化しているかも知れない。その時には―――太陽の無いこの地球で、人類救済の為に、護法魔王尊、貴方に来て頂きたいのです―――!」
男は唖然とした。
「勝手な!我居らねば金星如何なる!加え、此方も技術、地球並・・・どれほど掛るか・・・・・・」
「貴方のサポート役として、倭という地の中ツ国に、毘沙門天と千手観音を派遣しております。ですから・・・」
「毘沙門天・・・千手観音・・・・・・!?宗教が違う!!」
頼みます、頼みますどうか・・・・・・そう言って、女の姿は鏡から消えた。取り残された男は、その場に佇んで、己の姿が映る鏡を只見つめていた―――
護 法 魔 王 尊 ~ サ ナ ト ・ ク ラ マ ~
依頼されてから、可也の年月が経ってしまった―――もう女も岩戸から出て来ている事だろう。男は最初にあの女に挨拶をしようと、天上へ続く永い階段を昇っていた。
地面に着きそうな、長く白い髪。西洋人の様に高い鼻。外に吊り上った灰緑の瞳。
その様な特徴を持つ、山伏の装束に身を包んだ男。彼の名は、サナト=クラマと云った。
錫杖が、段数を稼ぐ度にじゃらじゃらと音を鳴らす。その音は、彼が鏡で女との交信の際に身に付けていた腕環と、同じ音だった。
彼が階段を上り終えると、目の前には鳥居が建ててあり、其処には鳥居に丁度すっぽり填る形で、道の真中で男が腰を下ろしていた。男といってもこちらも嫋な黒髪を腰のところで結び、なかなかに高貴な衣装を着込んでいた。声を発さねば、男とは判らないだろう。
男が彼の存在に気づく。
「貴方は・・・?」
男が彼を手招きす。サナト=クラマは言われるが侭に男の元へ行き、しゃがみ込んで礼をする。
「・・・我、高天原の天照大神より呼ばれし金星の尊天。名を、サナト=クラマ」
「アマテラスから?」
男は素っ頓狂な声を出した。
「アマテラスからは、どういった用で御呼出を?」
男はすぐに落ち着いた声に戻り、クラマに問うた。
「人類救済・・・と」
「人類?」
叉も男は声のトーンを上げた。
「・・・・・・人類はまだ誕生していない筈ですが?」
男は首を傾げた。クラマは、地球に到着する迄に可也の時間が流れてしまったと思ったが、人類の誕生には間に合ったようだ。反面、何の為に遙々金星より降り立ったのかと、少し肩を落す。
「少し待ってください」
クラマが顔を上げて男の奥の風景を見る。と、其処には、崖の梳れた様にも見えるが、断面は非常に美しく、瑠璃色に光を放つ滑らかな磐が在った。
「アマテラスはその中に居ます」
男は立ち上がり、磐の許へ行ってその側面を叩く。
「姉上。尊天のサナト=クラマが入らせられましたよ。貴女が呼んだのでしょう」
磐の内側からは何の反応も返って来ない。本当に居るのか疑問な位に。男は溜息を吐くと、今度は少し大きな声で言った。
「姉上。サナト=クラマも疑問に感じている事でしょうから、貴女が何故其処に居られるのか、言いますよ。よろしいですね?」
反応は、無い。姉上と言うので、この男が素戔嗚だろうか。
「姉弟喧嘩ですよ。くだらない話ですが、いつもの事です。ですが、今回ばかりは死者が出てしまい・・・アマテラスとは懇意にしていた服織女でしたので、悲しみの余り閉じ篭ってしまいました」
すみませんね・・・と申し訳無さそうに言う。男は叉、岩戸に顔を近づけると強い口調で言った。
「姉上。そんなにすねてばかりいると、こちらにも手が有りますよ。御客さまに対して失礼だと思いませんか」
其でも反応は無い。男は肩を落すと、此方へ。と言ってクラマを案内した。
「すみませんね、この様な出迎えで・・・」
まだ彼女は岩戸隠れを実行している。もう何十・何百という年月、あの穴蔵に引き篭っているというのだ。地球には未だ、年月というものが存在しないから、皆年を取らずにいるのだろう。男も彼女の弟であるというのに、まだ相当に若く見える。
八百万・・・というのに、碧々(あおあお)としたこの天上世界はとても静かで、男とクラマ以外に誰も居ない。人類は存在しないが、鳥類は既に誕生している様で、澄み切った水面に口づけをする。この世界に雑音というものは存在しない様で、踏みつける雑草の音も、鳥が啼き羽ばたく音も、求めぬ限りは聞えて来なかった。
(―――不思議な惑星―――)
時間の感覚が無く、身体の重さも感じぬ惑星。其なのに、大地を確りと踏みしめた力強さを感じられる。
(―――極楽浄土とは、この事を云うのか―――)
併し、男は云うのだった。
「―――もう夜ですね」
度々すみません、とクラマに頭を下げると、突如走り出す。クラマも後を追った。
行き着いた先には、とても一人では運べない大きな壷があり、その中にはいっぱいに張った水が入っていた。
「ツクを、招かねば―――」
男が、壷の傍に置いていた杖を掲げる。すると水面に月が映り込み、水が波打った。
クラマが天上を見上げる。
月が、限り無く近くクラマや男の居る高天原に迫っていた。其も、とどまるところを知らない。クラマの両眼に収まり切れない程にまで月は接近し、そのまま衝突するのではないかと思って彼は地面に腰を着けた。
男が、杖を持たぬ左掌を月に向ける。すると月は接近を止め、ぴた、とその場から動かなくなった。
「・・・・・・」
男は月を見、暫くの間杖を掲げたまま微動だにしなかった。やがて、すっと杖を下ろすと
「・・・本日は十日夜」
と呟いた。
「・・・お待たせ致しました。あと5日ほどで、望というとても美しいツクを見る事が出来ます。その日に、天ツ神総出で貴方の歓迎会を開きましょう」
男がにっこり笑って言った。クラマは未だ驚きが消えない様で、仰向けの姿勢から取り敢えず坐り
「・・・今のは」
と、半分興奮しながら訊いた。
「ツクを呼んでいたのです。ツクを呼び、夜の食国を知らせる事が私の役目ですから」
男は杖を元の位置に置く。月を再び見上げる男の後姿は、まさに夜を統べる者に相応しい、美しく神秘に包まれていた。
「太陽が姿を現さぬ今、日月を読み伝える事が出来るのは私だけですから―――」
否、やはり地球にも刻は在るのか。クラマは月が時刻を教える神秘に魅せられた。
「!うわ・・・」
突如壷の中の水がはね、水に触れた事の無いクラマの頬に掛る。冷たい。が、全くべたべたしない。併し、拭かねば浸み込んでゆく。
とても不思議な感覚だった。
だが、男は不都合そうな顔をして、未だ激しく揺れ続ける水面を覗き込む。
「禍の徴が大きくなっていっている・・・・・・」
男が水面に左掌を浸ける。すると、見る見る内に水は騒ぎ立てるのを止め、凪いでいった。