逃げた女と、祭りの後で
『 逃げた女と、祭りの後で 』
人の運命はまことに分からない。
東日本大震災で犠牲となった人たちのことを思う度、そう思わざるを得ない。
千年に一度という大地震が起こり、一時間も経たない内に、信じられないような巨大津波に襲われて、自分が死ぬ、などということは、誰も思わなかったに違いない。
大地震を何とか乗りきり、ああ幸いだなあ、津波もここまでは来ないだろう、と思っていた人たちを凶暴な巨大津波があっという間に襲い、命を奪った。
死を除けば、どんなことにも救いの手立てはある、諦めることはない、という西洋の格言がある。
突然の死に、救いは無く、そこで全てが終わってしまう。
理不尽な死に見舞われた死者に救いなんて有りはしない。無念の死があるだけだ。
そして、残るのは、死者を悼む生者の追悼と追憶だけだ。
これは悪夢だ、悪い夢を見ているのだ、夢であって欲しい、と僕はテレビに映る大津波の映像を見ながら、繰り返し、繰り返し、何回もそう思った。
こんな残酷な現実があっていいはずが無い。
映像に映し出されている現実は圧倒的で、僕の想像力を遥かに越えていた。
悪夢の三月十一日から、二年が過ぎた。今は、二〇一三年、平成二五年の初夏。
余震はまだ全国的に続いている。
夜、昼、関係無く、余震は不意に襲ってくる。
原発問題も余震同様、長期化しており、原発関連ニュースはすっかり日常化している。
余震はいずれ収まるであろうが、原発関連はその終息までには、気が遠くなりそうな年月がかかるとさえ言われている。
原発に近いところに住んでいる僕は、日常のニュースとなってしまった原発関連情報にうんざりし、このままでは鬱になる、それならば、短期間でもいいから、日本を脱出して、どこか外国に行って気楽な旅をしてリフレッシュしよう、と思った。
今は無職の身で、金は無いが、時間だけはたっぷりある。
親のすねをかじって、家でごろごろしている三十歳の鬱気味の息子を親は呆れたような、そして、諦めたような顔でも見ている。
親に寄生して暮らしている独身者をパラサイト・シングルと言うのだそうだ。
今の僕は、まさにそのパラサイト・シングルという存在そのものだ。
この頃は、親も、とりたてて、何も言わなくなっているが、僕を見る視線は段々冷ややかなものとなっている。
その視線にも、僕は耐えられなくなり始めている。
とにかく、一週間程度でもいいから、気分転換をしたいと思った。
そこで、一週間程度のツアーで、何か魅力的な格安ツアーが無いか、インターネットで入念に調べてみた。
ツアー日程を調べ、料金を比較し、飛行機の発着時間をチェックすると共に、別料金とはなるが、安く魅力的な現地オプショナル・ツアーがあるかどうかも調べてみた。
一番、行きたかったのは何と言っても、情熱の国・スペインだった。
しかし、憧れのスペインには、魅力的な格安ツアーは無かった。
フランスならば、格安料金で四泊六日のパリ・ツアーがあった。
往復の飛行機と滞在中のホテルは勿論、朝食も四食確保されており、他は、自由行動とやらで、実質三日間、何の束縛も無かった。
僕には、お誂え向きだった。
無理矢理、見物させられ、免税店に連れていかれるツアーは真っ平御免だ。
そこで、今回はスペインを諦め、パリに行くこととした。花の都、パリ!
六月初旬、さくらんぼの季節の頃、僕は成田を発った。
「プロヴァンという発音は難しいですね」
僕は彼女に言った。
「えっ。ああ、そうですね。RとVの発音があるから」
僕の言葉を聞いて、頭の中で単語を確認した後、彼女は笑いながら言った。
「そうです。PROVINSという言葉の中のRとVの発音が日本人にはどうしても厄介な発音です。Vは下唇を噛んで発音しなければならないし、Rなんて、舌全体を下の口蓋にくっ付けなきゃならない。ロという発音はホになってしまいます。プホヴァン」
「プロヴァン、プホヴァンより、むしろ、プヴァンの方がフランス人には解かってもらえるかも」
「ああ、そうかも知れませんね。その点、スペイン語は楽ですよ。Rは巻き舌、Vなんて、Bの発音でOKなのですから」
僕は駅の切符売場で発音に苦労しながらも何とか買ってきた往復乗車券を彼女に渡した。
往復切符を買ったつもりだったが、一枚で通用する往復切符などという洒落たものは無く、片道切符二枚が往復切符として窓口で渡された。
そして、彼女から切符の代金、二十一ユーロを受け取った。
「昨日のモン・サン・ミシェルは良かったですね。バスに乗っている時間は五時間と、かなり長かったけれど」
「ええ、憧れのモン・サン・ミシェル。あそこだけでも、フランスに来た甲斐がありました。大きなふわふわオムレツも食べることができましたし」
「モン・サン・ミシェルはフランス第一の観光地というだけあって、まあ良かったですね。まさに、絵葉書通りの素晴らしい外観で、僕も満足しました。期待を裏切りませんでした。バスの正面に、モン・サン・ミシェルのあのお馴染みの姿が見えてきた時は、バスの中で歓声があがりましたね。でも、観光客が一杯で、細い路地を歩くのは大変でした」
「でも、丁度、干潮の時間帯で、渚というか、干潟というか、浜辺を歩くことが出来たのは幸いでした」
「僕は歩きながら、浜辺の砂に触ってみて、驚きました。だって、砂がとても細かく、少しねとねとしているような感じで、例えて言えば、そう、濡れたセメントを触っているような感じでした」
僕と彼女は昨日、パリからモン・サン・ミシェルに行くバスツアーに参加した。
僕は一昨日、成田を発って、四泊六日のパリ・ツアーで、パリに来た。
彼女もそうだった。でも、僕は気付かなかった。希薄な存在だったのだろう。
ツアーと言っても、格安ツアーで飛行機とホテル、そして朝食が組み込まれているだけのツアーであり、空港送迎を除けば、毎日が終日自由行動というツアーだった。
僕は着いたその日に、宿泊したホテルのコンシェルジュで日帰りのモン・サン・ミシェル・バスツアーを申し込んだ。
そして、昨日、集合場所として指定されたパレ・ロワイヤル広場に行き、モン・サン・ミシェル・オプショナル・ツアーのバスを待っていたら、大勢の参加者の中に彼女が居た。
ジーパン姿の彼女がぶっきらぼうな顔をして立っていた。
とっつきにくい女の子だと思った。
それが、彼女に対する僕の第一印象だった。
でも、バスの席が隣同士になったので、あれこれ、話している内に親しくなった。
年齢も三十歳ということで同じだったのも、親しくなった理由の一つかも知れない。
女も男も、三十歳という年齢は微妙な年齢だ。
結婚するには、少し遅い年齢のように思えるし、結婚を諦めるには早過ぎる年齢だ。
男の僕ですら、親が結構心配しているのだから、彼女の場合は、尚更だろう。
ただ、彼女には男を寄せつけないような何かがある。
きっと、人には言えない辛い過去、或いは、経験があったのかも知れない。
僕は漫然と、そう思った。
看護師ということだったが、看護系の大学も出ているし、知的な容貌をしており、スタイルだって悪くない。
フランス語だって、少しは話せるみたいだ。
白衣を着た彼女に看護されて、内心喜ぶ男性患者は多いかも、と僕は思った。
そして、僕たちは、いわゆる、馬が合ったというのか、バスの中で結構お喋りをした。
いろいろ話している内に、今回のプロヴァン旅行を彼女が提案した。
モン・サン・ミシェルを見物した後の帰りのバスの中だった。
「プロヴァンの中世祭りって、ご存じ?」
「いや、知りません」
「丁度、明日、明後日の土、日で開催されます。行ってみませんか。きっと、面白いと思います」
「中世祭りって、一体どんなお祭りなのですか?」
「日本で言えば、時代祭り、です。違うのは、プロヴァンという一つの町全体がその両日だけ、その当時、つまり、中世にタイム・スリップしてしまう、ということです。プロヴァンという町自体が中世の城壁、町並みが残っている世界遺産の町なのですが、その町の中で、騎士たちの馬上試合や、鷹狩りを観ることができるといった趣向で、中世という時代を再現する祭りが繰り広げられる。観光案内にはそのように書いてありました」
「何だか、面白そうですね。一緒に行ってみましょうか」
それが、僕たち二人の旅の始まりだった。
プロヴァンに行く列車は、パリ・東駅から出る。
治安は良くないという評判だったが、駅の構内に人が多いのには驚かされた。
混雑している中、僕たちは乗り場に向かって歩いた。
構内に、『ポール』というパン屋があり、かなり繁盛しているように見えた。
『ポール』という店はフランスで有名なパン屋のチェーン店で、観光案内の雑誌にも掲載されていた。
試し、とばかり、僕はその店に入り、パンを一つ買ってみた。
朝食はホテルのレストランで食べていたが、列車の中で食べようと思って、買ったのだ。
言わば、おやつ代りだった。
『パリジャン』という名前のシンプルなバゲット・サンドだった。
でも、パリは物価が高く、このバゲット・サンドでも五ユーロほどした。
貧乏旅行をしている身だ、節約しなければならない、という思いが脳裏をかすめた。
列車に持ち込み、車内で食べるつもりだったが、持っているのが面倒になって、駅のベンチに座って列車を待っている時、つい食べてしまった。
ハムとチーズだけのシンプルなバゲット・サンドだったが、結構、美味かった。
彼女は僕の食欲旺盛振りを微笑みながら見ていた。
列車はかなり混んでいたが、彼女と隣り合わせで座ることが出来た。
十時四十五分、列車はプロヴァンに向けて動き出した。
列車は快調に走りだした。
田舎の素朴な風景が車窓から後方に飛び去っていく。
六月初旬のフランスの風景は柔らかい。
淡く柔らかいタッチで描かれた水彩画のような風景が延々と続く。
パリも東京よりは緑の多いところであったが、この近郊の緑は格別だった。
淡く柔らかい緑のグラデーションが延々と広がり、過ぎ去って行く白色と褐色を基調とした家並みも沿線の緑と程良く調和して、温かく柔らかい印象を与えていた。
列車の窓は閉ざされているが、きっと、車窓の外の風も香しく、そして、心地良く吹いているのだろう。
現役の頃は、パリのアパルトマンで慎ましく暮らし、リタイアしたら、パリ近郊の町に一軒家を買って、庭の手入れをしながら余生を暮らす、というのがフランス人の理想だ、と昔聞いたことがある。
日本なら、若い頃は東京で暮らし、齢を取ったら、鎌倉か湘南で暮らす、ということになるのかも知れない。
しかし、そんな余裕のある暮らしなんて、今の僕の境遇から言えば、『夢のまた夢』に過ぎない。
親父は、若い頃の精進次第で、余裕のある暮らしはお前にも可能だから、頑張れ、とさかんに僕に言うが、僕たちはもう、親父のような団塊世代が送っているような、そんな優雅な暮らしは自分たちには無縁だと思っている。
それに、頑張れ、という言葉は嫌な言葉だ。
鬱になりかけている者にとって、頑張れ、という言葉は残酷な言葉でしかない。
死ね、頑張って死ね、という言葉と同義語となっているのだ。
頑張ろう、と頑張ってみても、結局は駄目だったのだ。
自分なりに頑張った結果で、鬱になっているのに、これ以上、何を頑張れと言うのだ。
また、親父は、将来の年金のことを考えろ、と言う。
しっかりと働いて、しっかりとした年金を貰ってこそ、老後は約束される、と言うのだ。
でも、年金だって、当てにはならないことは、今の若い連中なら、誰でも知っている。
少子高齢化の時代では、今の親父が貰っている年金というのは、もはや幻想でしかない。
言っちゃ悪いが、日本政府発行の壮大な空手形のようなものだ。
調子のいい言葉に騙されてはならない。
そして、今は、親父のような団塊世代が持てた甘い人生設計を持てる時代では無いのだ。
世の中は、日増しにどんどん悪くなっており、幻想なんてこれっぽっちも持てない時代になっているのだ。
親父も、そんなことは十分判っているくせに、息子の僕には自分が歩んだような堅実な人生を送ることを望んでいる。
堅実な人生! 堅実な人生!
地道で堅実な人生が最良だ、と親父は繰り返し言う。
何回も同じようなことを言われる僕は、最低の怠け者のように自分自身が思えてしまう。
憂鬱で堪らない。そして、どうにも、遣り切れない。鬱にならないほうが変だ。
「ほら、あそこの野原に見える花、紅い絨毯のように見える紅い花。あれって、モン・サン・ミシェルの道端で見かけた、コクリコですよ」
「そう、コクリコ、よ。ポピー、ひなげし、虞美人草。いろんな名前があるけど」
「スペイン語では、アマポーラと言います」
「アマポーラ? 良い響きを持つ名前ね」
「スペイン、メキシコでは、女の子の名前にもよく使われる言葉ですよ」
「スペイン語、知っていらっしゃるの?」
「ええ、大学の時、第二外国語として、少し勉強しましたから」
彼女は僕の話をもっと聴きたそうだった。
僕は久し振りに、少しお喋りになった。
嗚呼皐月、仏蘭西の野は火の色す、君も雛罌粟、われも雛罌粟、と与謝野晶子が詠った、初夏のフランスの風景に僕は少し酔っていたのかも知れない。
「大学で、面白そうな文芸サークルがあって。諺研究会、という名前のサークルでした。入学早々、そこに、入りました」
「文字通り、諺を研究するサークル?」
「ええ、そうです。日本のみならず、古今東西、地域を問わず、時代を問わず、あらゆる国の諺を研究するサークルでした。各人、それぞれ、担当する国を決めて、その国特有の諺を研究し、定期的に発表するというのがこのサークルの決まりでした」
彼女は興味を持ったようだった。
「僕は、第二外国語でスペイン語を取った関係で、とりあえず、スペインの諺を取り上げることとしました。そこで気付いたことは、ヨーロッパという地域は国境があって、無いような地域で、いろんな国に共通する諺が結構多いということに気づきました。それで、その国にしか無い諺を探すというのは結構至難の業なのだなと思いました。この諺はスペイン特有だろうと思って、ドイツとかフランス担当の人間に訊いてみると、いや、それはあるよ、同じような言い回しでこういう諺がある、という返事が往々に返って来て、がっかりさせられたものです。例えば、外見は穏やかで優しそうに見えるが、心の中は邪悪で恐ろしいという意味で使われる『外面如菩薩、内面如夜叉』という表現は、『十字架の背後に悪魔が潜む』という諺的表現となり、スペインでもフランスでも使われている、言わば欧州共通の諺となっています。キリスト教国家に共通する諺と言えますね」
彼女は少し微笑んだ。
その微笑みにつられて、僕はさらにお喋りになった。
「スペイン文学で、ドン・キホーテという小説は有名ですね。あまりにも有名で、世界的には聖書の次に多くの人に読まれている本だとも言われています。でも、聖書同様、完読した人は極端に少ない、と冗談めかして言われる小説ですが」
彼女は声を立てて笑った。
「このドン・キホーテという小説は実は、諺をいっぱい含む小説でもあるのです。滑稽小説、風刺小説であると同時に、教養小説でもあるのですよ。まあ、世の中には結構暇な人が居て、小説の中で使われている諺を数え上げた人がいまして、その人の話に依れば、四百は下らないという話です」
「まあ、四百以上もあるのですか」
「そうです。で、そのドン・キホーテを僕は諺研究の対象にしたのです。第二外国語として、スペイン語を取っていたのですが、古典スペイン語が氾濫している原書には到底歯が立たず、完訳本を片手に諺らしい表現を調べては、原書で該当する箇所を当たって確認する、という作業をしたのです。随分と覚えましたよ。今でも、覚えている諺としては、このような諺があります」
彼女はじっと耳を傾けていた。
こんな風に、素直に耳を傾けて聴いてくれる女性は初めてだ、と僕は思った。
また、彼女の前で、変な躊躇いも無く、話している自分が居る、ということも僕には初めての経験だった。
勇気が湧いてくるような感じもした。勇気が湧いてくる。何だか、嬉しかった。
「寄らば大樹の蔭、という有名な格言と同じ意味では、『立派な樹に身を寄せる人を良い蔭が被う』という諺もありました。元々は西洋の諺で、日本語化した諺かも知れません」
大学卒業後、就活で苦労して入った会社は東証一部に上場されている大きな会社だった。
正直、入社した時は嬉しかったし、両親も喜んでくれた。
まさに、寄らば大樹の蔭、といった会社だったが、その会社には結局五年ほどしか居なかった。
ぬるま湯的で、事なかれ主義がはびこる社風、職場風土が鼻につくようになり、また、職場の人間関係も嫌になり、三年ほど過ぎたあたりから、段々、辞めたくなってきた。
そして、本社勤務から地方の事業所に転勤を命じられた時、拒否する形で、退職してしまった。
それ以来、実家でぶらぶら、時々、気が向いたらアルバイトをする、といった暮らしをしている。
ハローワークにも顔を出し、求職案内を見て、何回か、就職活動をしてみたが、何か気が乗らず、うまく行かなかった。
地元の企業では自分が駄目になってしまう、という意識がどうにも抜けなかった。
贅沢を言える身分では無いことは十分承知しているつもりでいたが、自分に対する過大な幻想或いは錯覚が案外邪魔をしていたのかも知れない。それに、知らない世界に飛び込むという勇気も無かったのかも知れない。
僕は苦い思いを噛みしめながら、更に言葉を続けた。
「『自分の家の屋根もガラスなのに、隣人のガラス屋根に石を投げる』という諺もありましたね。自分のことは棚に上げて、他人のことをとやかく言う愚かさ、の意味で使われています。何だか、今の政治家みたいですねえ。言葉は悪いですが、目糞、鼻糞を笑うみたいな。報いは自分に返ってくるのに」
彼女は明るい顔で笑っていた。
案外、美人だな、と僕は思った。
初めて、彼女をパレ・ロワイヤル広場で見た時は、何だか暗い顔をした女性だな、と思ったが、今の彼女は明るく輝いている。
もっと、話をして、彼女を喜ばせたいと僕は思った。
「『裸で生まれた私は今も裸。失ったものも得たものもない』。ドン・キホーテの従者、好漢、サンチョ・パンサが或る公爵の気まぐれで、言わば、棚から牡丹餅で得た領地の領主職を潔く退く際に発した言葉です。領主になり、一生懸命、領主らしく務めたものの、臣下のとんでもない悪ふざけに遭い、結局は馬鹿にされている自分に気付き、自分から領主の職を下りる時に言った言葉です。生まれる時は勿論裸だし、死んで葬られる時も衣服は纏っているものの、財産はあの世には持っていけず、ほとんど裸同然の姿になるものです。何となく、分かるような気がしますね」
「仏教で言えば、『小欲知足』という言葉と似ているかも。財産は、あの世には持っていけない」
「でも、思い出は持っていけますよ。思い出というものは無形の財産のようなものですから。思い出だけは山ほどある、というのもいいですね。死に際して、心も安らぎます。まあ、持たざる者の心の平安、といったところでしょうか」
僕たちは思わず笑った。
持たざる者同士の笑い、だったかも知れない。
諺研究サークルでは、サークル・メンバー同士が持ち回りで、『一日一諺』というノルマにも似た随筆活動も行なった。
一人ずつ、順番に、一つの諺を題にして、それにまつわるエッセイを原稿用紙で二枚という制限を設けて書いて、皆に披露するのだ。
十人のメンバーが居たら、十日に一遍、エッセイ執筆の順番が来る。
一つの諺をテーマにして、原稿用紙二枚以内、つまり八百字以内にエッセイを纏める。
短いようで長く、長いようで短い。
どうせ、書くなら、皆が読んで、さすがだね、と言われるような気の利いたエッセイを書きたいものだ。
しかし、結構、気の利いた文章にするのは難しかった。
こんな諺を取り上げたことがある。
『お前を愛している者ほど、お前を泣かせるものだ』。
訳本によっては、『愛する人は、泣かせもする』、と訳されることもあるが、出典はやはり、その当時夢中になっていたドン・キホーテの中の一節である。
お前が(・)愛している者、では無く、お前を(・)愛している者、であることに注意しなければならない。
では、お前はその者を愛していないのか、と言えば、そうでも無く、やはり愛している、言わば、相思相愛の仲と解釈しても良いだろう。
片恋、つまり片想い、でも人は泣くのに、自分を真実愛してくれる人が居り、その人のために泣くことは一層切ないものだ。
相思相愛の恋人、或いは、両親とか肉親といった存在もこの事例に該当するだろう。
当時は、頭で理解していた諺であったが、その後、僕の人生で実際に起こった。
大学を卒業して、会社に入ったものの、その会社を辞めたいと言った時、僕の将来を案じた親は涙を流して、僕の翻意を求めた。
既に会社の上司に辞表を提出していた僕は、両親の真摯な言葉に切なくなり、自然と眼が潤んでしまった。
あの時は、この諺が本当に身に沁みた。
一時間二十分ほどで、列車はプロヴァンに着いた。
時計を見たら、十二時になっていた。
プロヴァンはパリの南東九十キロのところにある人口一万人ほどの小さな田舎町だが、六月の初旬か中旬頃に開かれる中世祭りでは、一大観光地になる。
町の人口の何倍かの観光客が訪れるのだ。
祭りは土、日の二日間開催され、例年二千人以上の住民が中世の服装を身に纏って、祭りに参加する。
駅に着いた僕たちは駅前の周囲を見渡した。
中世祭りの掲示とか案内を探したが、それらしい案内も無ければ、矢印と云った案内標識も見当たらなかった。
一瞬、僕たちは顔を見合わせ、戸惑ったが、別に心配することは何一つ無かった。
人が大勢歩いて行く方向に行けば良い、と過去の旅で得た経験が僕たちに教えていた。
案の定、大勢の人が同じ方向に歩き出していた。
僕たちはその集団にくっ付いて歩いた。
駅前の通りを十分ほど歩くと、少し急な坂道に出た。
その坂道を登る人は急に増えたように思われた。
坂道に続く路地という路地から、人が湧いて来るように現われていたのだ。
おそらく、坂道を登りきった頂上に、お目当ての祭りの会場があるのだろう、と思った。
「中世祭り、というのは日本で言えば、京都の時代祭りとか、相馬の野馬追いの武者行列のようなものですかねえ」
「でも、観光客も参加するということですから、少し、日本とは違うと思いますよ」
僕の問い掛けに、額の汗を軽くハンカチで押さえながら、彼女が言った。
空は綺麗に晴れ、気温が上がり、暖かいというよりはむしろ暑く感じられた。
坂道から、町が一望出来た。
赤茶けた屋根がモザイクのように見えた。
遠くに、駅舎と鉄道の線路も見えていた。
柔らかな初夏の緑に満ちた風景を眺めながら、僕たちは坂道を登った。
坂道を登りきったところに、祭りの入場案内所があり、入場券が売られていた。
入場券と共に受け取った無料の案内書を見たら、今年は三十回目の祭りであることが分かった。
中世の衣装を着て入場すれば、入場料は半額でいいということだったが、僕たちは普段の格好をしていたので、正規の料金、十ユーロずつ払って、入場した。
入場口からすぐ、通りに出るが、驚いたことに、観光客を除いて、道の両側の売店の売り子、通行人の殆どが中世の服装を身に纏っていた。
剣を肩にかけた騎士、帽子からレースのベールを垂らした貴婦人、楽器を吹きならしながら楽しげに行進する楽士の一団、農民或いは商人に至るまで、ここの住民と思われる人々は全て、中世の人たちの格好をして通りを闊歩していた。
歩きながら、僕たちは徐々に中世にタイム・スリップしていくような感じにとらわれた。
ヨーロッパの中世は、ともすれば、魔女裁判とか宗教戦争が多く、暗黒の時代との印象が強いが、その反面、のんびりした、長閑な時代でもあったのだろう。
そして、楽しそうにしている人々を見ることは旅行者にとっても、とても快いものだ。
難しい顔をするのは、もう、止めよう。
僕たちも、徐々に、楽しく愉快な気分になっていった。
扮装の中には、日本の羽織、袴を着けた人も居た。
観光客のようだった。
日本人では無かったが、結構様になっており、僕たちは一瞬目を見張り、その後で、顔を見合わせて思わず笑った。
彼は、この格好で受付を通り、入場料を半額にまけてもらったに違いない。
入場口から入ってすぐ、右手のところに小高い丘があった。
何やら、子供たちのはしゃぐ、甲高い声が聞こえていた。
興味を惹かれた僕たちは丘に向かって登って行った。
そこは、いろんな遊具がある子供広場だった。
親子連れが沢山居た。
丘の周囲は鬱蒼とした樹木に囲まれており、中央には花壇もあり、コクリコの赤い花が頼りなげに、そよ風に揺れていた。
遊具は全て木製の素朴な造りの遊具ばかりで、いかにも、中世ならばこのような遊具があったのではないか、と思われるものばかりだった。
色とりどりのペンキで塗られた木の棒が茣蓙の上に並べられており、子供が木のボールを転がして倒していた。
これは、ボーリングであり、ボールには指穴がちゃんと三カ所開けられていた。
輪なげもあった。
太い木に三本ほど細い枝が挿されており、その枝を目掛けて、縄で拵えたリングを投げている子供が居た。
愉快だったのは、騎士の馬上試合だった。
大人の騎士では無く、子供が騎士の服を着て、布で拵えた馬の頭を前方に縫い合わせて作ったスカートを腰に巻いて、木の槍を持って、パカパカと走って、突進して行く。
突進して行く先には、楯を右手に構えた藁人形がある。
槍でその楯を上手に突くと、藁人形は綺麗に回転する。
藁人形を上手に回転させた子供は観客に向かって、どうだ、とばかり槍を掲げて自分の武勇、手柄を誇示する。
男の子も居たが、女の子の方が多かった。
しかも、男の子よりも上手に藁人形を回転させていた。
そして、槍を高々と掲げ、己の武勇を観客に派手に誇示していた。
フランスの女の子は勇ましい。
さすがは、ジャンヌ・ダルクを生んだ国だ、と僕は微笑ましく思った。
その他、竹馬、フラフープ、芝生の上を滑るスキー、弓の射場などがあり、子供たちが無邪気に遊んでいた。
一方、大人用の遊びもあった。
木陰の木のテーブルに直接、チェス盤が描かれ、オセロとかチェスに興じている年配のおじさんたちが居た。
チェスの駒も木製の手作りであったが、ナイトはナイトらしく、ビショップはビショップらしく、削られていた。
子供広場を出て、通りに戻った。
中世の人々の扮装を施した村人が集団を作って通行していた。
村人ばかりでは無く、観光客も思い思いの仮装をして悠然と歩いていた。
銀色に輝く鋼鉄の円柱兜を被った騎士が歩いていたし、その騎士の中には十字軍の旗を掲げて歩く騎士も居た。
白い服と赤い十字を染め抜いた白旗が陽光に映えていた。
ベールを顔の前に垂らした貴婦人とお供の女中、草で編んだ素朴な帽子を被った農婦、キラキラと輝く鎗を構えて歩く一揆農民の群れ、といった姿を観ながら、僕たちは混雑した通りを歩いた。
道の両側にしつらえたテントの売店では、中世の剣、短剣、兜、鎖帷子と云った武具の他、陶器、木工細工、革のバッグとか財布、パウンドケーキ、ガレット、田舎パン、赤ワイン、白ワイン、地元のビールなど多種多様の品物が売られていた。
どちらかと言えば、無愛想なフランスの売り子には珍しく、掛け声をかけて、客引きをしている売り子も居た。
「皆さん、帽子を被っているのですね」
彼女の言葉で、僕も周囲を見渡した。
なるほど、売店の売り子含め、中世の扮装をしている人は皆、例外なく何らかの帽子を被っていることに気が付いた。
騎士なら兜、貴婦人ならベール付きの帽子、商人、農婦、農夫など、大人は全て、それなりの身分に合った帽子を頭に被っていた。
「中世という時代のしきたり、なんですかねえ」
と、僕は答えた。
今は、帽子を被る人はめっきり減っているが、日本人だって、文明開化の明治から終戦までは男は帽子を被っていた、という話を昔聞いたことがある。
鳥打帽とか、山高帽、パナマ帽を被っていたはず、だ。
いつから、帽子を被らなくなったのだろう。
帽子が邪魔となる満員電車に乗るようになった頃からか、それとも、もはや戦後では無い、という文言で有名な経済白書が出た頃からかなあ、と思った。
親父の頃にはもう、帽子はすっかり廃れてしまっていたらしい。
それでも、この頃は、気に入った帽子があれば、結構買っているようだ。
親父も齢で、薄毛を気にしているのだろう。
ふと、こんなのんきなことを思っている自分に気付き、思わず、僕はニヤリとした。
そう言えば、このところ、こんなことを思うような自分では無かったな、とも思った。
何となく、自分が少しずつ、窮屈な束縛から解放されていくような気分を味わった。
それは、悪くない気分だった。
町の大広場と思われるところに出た。
喉が渇いていたし、少し、空腹も覚えた。
僕は彼女を誘い、ガレットの売店のテーブルに席を取り、地ビールを飲みながら、鱈のすり身とチーズ入りのガレットを食べて、昼食とした。
地元の白ワインも飲んだ。
僕は少し酔ったが、彼女は全然酔っていないように見えた。
酒に弱い僕は、酒に強い人を見ると、無条件にリスペクトしてしまう癖がある。
その時も、僕は彼女に尊敬の念を抱いた。
「モン・サン・ミシェルでは、名物の巨大オムレツと少し小振りなムール貝を食べましたが、ここのガレットも五ユーロと、少し値段は高いですが、美味しいですね。鱈のすり身とチーズという味の組み合わせが抜群。この地域の名物なのかなあ」
「ここの地元のビールも美味しいです。モン・サン・ミシェルでは、フランスの有名なビール、確か、一六六四という数字が書いてあるビールを飲んで美味しいと思ったけれど、ここの地ビールもなかなかの味です。私、気に入りました。もう一杯、飲むこととします」
彼女に対する尊敬の念は更に増した。
広場中央では、中世時代の服装を纏った子供たちが楽しげに踊っていた。
黄色、ピンク、緑、青、白のワンピースをふわふわと蝶のように翻しながら、軽やかに踊る子供たちはまるで、森の妖精のようにも、天使のようにも見えた。
ワンピースに隠れて見えないが、背中にはきっと、ちっちゃなエンゼルの羽が生えているに違いない。
かわいい、かわいい、と彼女は喜びながら、デジカメでさかんに写真を撮っていた。
子供たちが踊る背後には即席ではあるが、大きな舞台があり、そこで何やら寸劇が催されていた。
一生懸命演じているのはおそらく村人であり、この何ヶ月か、この日に備えて連日、稽古を積んできたのだろう。
僕たちは、中世の職人姿をした人が粘土を捏ねて壺を拵えている、陶器の実演販売の店などを覗きこみながら、ぶらぶらと広場を巡った。
広場を離れて、人の流れにまかせて暫く歩くと、古びた教会の前に出た。
教会の前では、楽隊が演奏し、十数人の男女が踊っていた。
楽隊はクラリネットのようなラッパ、バグパイプのような楽器を鳴らしていた。
奏でる旋律にはどこか郷愁を感じさせるものがあった。
陽気な中に、少し物悲しさも感じさせる旋律だった。
その音色に合わせて、赤、青、黄色の中世の衣装を纏った踊り手が舞い踊っていた。
観客はその周囲を取り囲み、時々、陽気な掛け声をかけては笑い興じていた。
暫く、立ち止り、僕たちは眺めた。
突然、彼女がキャッと声を発した。
驚いて見ると、そこに、恐ろしげな魔女が居た。
僕も一瞬、ギョッとした。
魔女が彼女の顔を覗きこみ、何事か、話しかけていた。
野太い男の声だった。
何のことは無かった。
魔女に扮装した年配のおじさんが笑いながら、話していたのだ。
意味は分からなかったが、どうだい、楽しんでいるかい、といったことを話していたのだろう。
少し、判る単語があった。
シノア(中国人)か、と訊いているようだった。
少し、警戒するような口調だった。
日本人だ、と答えると、そのおじさん魔女は安心したのか、ジャポネ、ジャポネと云いながら、大きくがっしりとした手で僕たちに握手を求めてきた。
そして、別れ際に、笑顔でボン・ヴォワイヤージュ(良い旅を)と言ってくれた。
空が急に暗くなったと思ったら、突然、強い雨が降って来た。
僕たちは大急ぎで教会の中に飛び込んだ。
朝は晴れていたが、昼頃から空模様がおかしくなっており、いつ降ってもおかしくない状況だったが、降る雨の強さには驚かされた。
半端じゃなく、土砂降りという表現がぴったりするほどの驟雨だった。
しかし、長くは続かず、雨はすぐ小降りになった。
もうすぐ、止むだろう、と僕は思った。
そのまま、教会に居た。
驚いたことに、神聖な教会の中にも、いろんな売店がぎっしりと並び、雨宿りをしたり、買い物をしたりする人でごった返していた。
「満員御礼、といった状況ですね」
僕は、木工細工の皿を見ている彼女に言った。
「本当に、そうですね。いろいろなものを売っているし、舞台では楽士が中世風な音楽を奏でているし、何か、ここは居心地が良いところです」
教会の建屋の正面には磔刑に処せられたキリスト像があり、その頭上には昇天したキリストを描いたステンド・グラスが美しく、飾られていた。
正面には祭壇が設置され、その前には舞台が置かれ、数人の楽士が楽器を奏でていた。
僕たちは、舞台に向かって並べられた木のベンチに座って、暫く音楽を聴くことにした。
「教会の中に、このような売店があるなんて、何か珍しいですねえ」
「ええ、私もそう思います。でも、今日、明日は年に一回のお祭りですから。許されているのでしょうね」
「お祭りの時は、言わば、無礼講なのでしょう」
無礼講、という僕の言葉を聞いて、彼女は思わず噴き出して笑った。
雨が完全に降りやんだところで、僕たちは教会の外に出た。
空は綺麗に晴れ渡り、小鳥も囀り始めていた。
爽やかな風が頬を軽やかに撫でて、過ぎていった。
僕たちは歩き始めた。
教会から少し歩いたところに、セザール塔という大きな塔がある。
プロヴァンで観光名所とされる三角屋根の塔である。
十二世紀に建造されたこの塔は小高い丘の上にあり、下から見上げると、空に向かって勢いよく屹立しているように見える。
戦においては、この塔はおそらく要塞になったことだろう。
頑強に造られており、下から攻め上がる敵方にとっては、難攻不落のようにも見えたに違いない。
上から矢を射られたら、ほとんど頭から突き刺さってくるようで逃れる術が無い。
しかし、その内、また空模様が変になって来た。
空は前のように黒い雲に覆われ、雷も聞こえてきた。
また、雨が降って来た。
今度も、土砂降りだった。
僕たちはまた、大急ぎで教会の中に走り込んだ。
今度も短時間で雨が止み、僕たちは教会を出て、人混みの中、歩き始めた。
道なりに歩いていたら、大きな通りに出た。
大きな通りと言っても、両側にテントの売店が並んでいるので、道幅はかなり狭くなっており、観光客で押し合いへし合いといった混雑振りだった。
中に、ひときわ、人だかりが出来ている売店があった。
覗いてみると、ワインの試飲があり、大勢の人が小さなグラスで売り子が勧めるワインを飲んでいた。
酒に強い彼女が試飲した。
微炭酸の薬草酒みたいだが結構甘くて、美味しいと言う。
僕もつられて試飲したが、このような赤ワインは今まで飲んだことが無く、面白いと思い、一瓶買った。
値段は結構高く、十三ユーロもした。
ラベルを見て、早速、持参した電子辞書で調べてみたら、『香料入りの甘いワイン・一角獣』という名前のワインだった。
中世の頃、よく飲まれた食前酒、という触れこみだった。
親父へのお土産にしよう、と思った。
ビールが好きで、いつも晩酌にビールを飲んでいるが、胃腸も大事だよ、たまにはこのような薬草ワインも飲まなきゃ、と思った。
団塊世代で、若い頃は学生運動に参加したそうだが、社会に出てからは猛烈社員となり、がむしゃらに働いて、退職後は田舎に引っ込んでのんびりしている親父が僕からの土産を照れ臭そうに受け取る様子が頭に浮かび、思わずニヤリとした。
たまには、親孝行も悪くない。
親孝行、したい時には親は無く、墓に蒲団はかけられぬ、だから、お前は後で後悔することが無いよう、常日頃、両親に孝行しなければならない、と親父はよく言っている。
雨があがって、空はすっきりと晴れあがり、雲一つない青空の中、太陽が燦々と辺りを照らし始めた。
強い陽射しの下、随分と歩いたせいか、僕は疲れを感じた。
彼女に訊くと、もう、帰りましょうか、という返事が返ってきた。
おそらく、歩いている内に、ビールとワインの酔いがまわってきていたのかも知れない。
僕たちは、来た道をゆっくり辿って、駅に戻った。
十七時四十五分、僕たちを乗せた列車はパリ・東駅に向けて動き出した。
日本なら夕方の時刻だったが、全然暗くならない。
昼間と変わらぬ、明るく柔らかな風景を車窓から僕たちは眺めた。
穏やかに微笑んでいる彼女を見ていたら、また、何か話したくなった。
「『人は皆、墓の中で平等になる』、という格言があります。ドン・キホーテの中で、キホーテが言った言葉です。逆に言えば、生きている時は、平等では無い、ということですね。人は皆、生まれながらにして平等である、というのは単なる法律上の原則であり、実際は平等なんかじゃありませんよ。だって、裕福な家庭に生まれるのと、明日のご飯さえ無い貧困の家庭に生まれるのとは雲泥の差があり、とてもじゃないけど、平等であるとは言えません。また、頭脳明晰に生まれるのと、痴呆に近い状態で生まれるのだって、平等とは言えません。健康で生まれるのと、障害を持って生まれるのとはやはり大きな差があり、平等なんかじゃないですよ。生きている時は不平等でも、死ねば、全ての人は始めて平等になる。骨になって、そして、朽ちて、自然に帰っていく」
彼女は興味ありげな顔をして、僕を見た。
僕のお喋りを催促するような視線に思えた。
「また、人にはおそらく持って生まれた寿命というものもあります。夭折する人、百歳まで生きる人、人それぞれに寿命というものがあります。おぎゃあ、と生まれて、一、二、三、・・・、と人生が始まっていくのでは無く、例えば、寿命の数字で一万という持ち時間のある人は、生まれた瞬間から、一万、九千九百九十九、九千九百九十八、・・・、と数字を減らしていくのだと僕は思っています」
僕の話に耳を傾け、彼女は少し微笑んでいた。
「そして、三、二、一、と寿命が尽きていき、死を迎えます。でも、僕はそれでお終いだとは思っていないのです」
彼女は僕の言葉を待っていた。
「ゼロで死んでから、・・・、マイナス一、マイナス二、マイナス三、・・・、というふうに、マイナスの時間がその人の死から始まっていくのだと思っているのです。勿論、カウントするのは、生きている者の役割です。死んだ人はなにしろ死んでいるのですから、カウントなんか出来ません。死んだ人を悼む、生きている人間がカウントするのです。死んだ人を思い出す度に、それはカウントされていくのです。人は皆、墓の中で平等になり、思い出として追憶される度に、生き返るわけです。頻繁に追憶される人のカウントは増えていき、追憶されることの無い人のカウントは増えていかない。貧困家庭に生まれ、才能も無く、健康にも恵まれなくとも、死後、多くの人から追憶される人は、本当は幸せな人間かも知れませんね。まあ、その逆で、裕福な家庭に生まれ、天賦の才能にも恵まれ、頑健な肉体を持ち、人生に成功し、長寿に恵まれた人間であったとしても、死後、懐かしく思い出されることの無い人は、どうでしょう、寂しい人かも知れません」
「あなたの哲学?」
「哲学? そんな大それたことじゃありません。今回の大震災で亡くなった人のことを思っていたら、急に、このような考えが僕の脳裡を過ぎったのです」
「大震災で亡くなった人、で?」
「そうなんです」
僕は続けた。
「天地に仁なし、万物を以て芻狗と為す、という言葉があります。老子の言葉だそうで、意味は、天地には慈悲の心なんか無い、全てのものを供え物の藁人形の犬のように扱う、という意味です。高校の頃の漢文の授業で聞いた言葉で、その時は、そんなものかなあ、自然って人に優しいものじゃないかなあ、と正直思っていたのですが。今回の東日本大震災のことを思うと、僕はこの言葉を常に思い出します。自然、それ自体は人間含め、地上に存在している生き物に寄り添うものじゃない、ということを改めて認識しました。自然それ自身としては、自分に与えられる長期間の地殻ストレスに耐えかねて、少し、身振るいしただけで、巨大な海底地震が起こり、派生的に大津波も発生し、結果として、今回の大震災に繋がっただけですから。人は自然に寄り添わないと生きていけませんが、自然は人と寄り添う必要なんかさらさら無いわけです。そんな自然の営みの中で、今回、二万人の人命が失われ、その中で、今もって、何千人という人の遺体さえ見つかっていないという辛い状況が生まれました」
「亡くなった人。二万人、居ますけど、皆、それぞれの人生がありました。つまり、二万という人生が一瞬にして失われたわけですね。勿体ないとしか、言いようが」
と、彼女は呟くような口調で言った。
「人、それぞれの人生。一人の人には、一つの人生。それが、自然の気紛れによって、一瞬の内に消されてしまう。どうしようもない、遣り切れなさを感じます。僕が住んでいるところは、震度六強の地震には見舞われましたが、その後の津波からは幸い逃れることが出来ました。海岸から、十キロほど離れていましたので。でも、原発からは無縁ではありませんでした。原発から五十キロほど離れており、避難区域等にはならなかったのですが、いわゆる、風評被害とやらで、ガソリンは来なくなるし、スーパーに品物は来なくなるといった辛い状況は十分味わいました」
「原発に近いところに住んでいらっしゃるの」
「ええ。これから、何十年も、原発絡みで憂鬱な時間を過ごさなきゃなりません。まあ、原発はともかく、僕の家の周辺の海岸近くでは津波で亡くなった人も結構居ます。すぐ近くの港なんか、五メートルから八メートルの津波に襲来されていますから。津波の後、見つかった遺体の下着は全て、褐色というか、茶色だった、という生々しい話も聞いていますよ。押し寄せた津波の水の色がそんな色だったのでしょう。陸地の土を巻き込んで、そんな色になった津波の汚い水に呑まれて。そして、津波に巻き込まれ、突然の思いがけない死を迎えた人たち。そこで、寿命は終わったわけです。でも、死者は生者をして生かしめる、つまり、生きている者は死んだ者によって生かされているのだ、という言葉があるように、死者は死後も常に生者を見続けており、そのような死者を悼むのは生者の特権、義務であり、生者にとって死者は忘れられない存在となります。生きている者は死者を悼み、その人を何かにつけ、思い出します。つまり、その都度、死者は生きている者の心の中で甦る、ということになります。そんなことを考えていたら、三、二、一、ゼロで寿命が尽きた後、死者は生者が思い出す度に生き返る、つまり、ゼロの後ですから、マイナス一、マイナス二、マイナス三、というふうに、追悼寿命、或いは追憶寿命を獲得していくのではないか、と考えるようになったのです」
「それならば、追悼され、追憶される回数の多い人、つまり、追悼・追憶寿命の多い人ほど、ある意味では幸せな死者、となるかも」
彼女の口元が少し綻んだ。
「幸せな死者、ですか。すっかり、忘れられる死者よりも、時折思い出される死者のほうがいいですかねえ。まあ、幸せな死者を目指すことも人生では大切なことかも知れませんね。それと同時に、僕は、あの世はあって欲しい、とも思っているのです。願望と言ってもいいかも知れませんが、そう思った方が、何となく心は安らぎますね。死んだら、はい、それまでよ、ということより、死後の世界があったほうがいい、と思っていますよ。そのほうが、死、という恐ろしい現実が少しは、怖くなくなりますから。何か、救済されるような気がします。これは、もう、宗教の世界かも」
僕の言葉を聞いて、彼女は微笑んだ。
こんなに、他人に喋ったのは久しぶりだな、と僕は思った。
何だか知らないが、とにかく、彼女の前では素直な気持ちになれるのだ。
ひねくれている自分が、・・・。
なぜだろう、と僕は思った。
ふと、彼女が呟くように言った。
「私、・・・、今度の大震災から逃げ出した人、なんです。つまり、逃げた女」
僕は思わず、彼女の顔を見た。
真剣な顔をしていた。
思い詰めているような表情にも見えた。
「大震災から逃げ出した? どういう意味です。地震とか、津波から逃げ出すのは当たり前じゃないですか」
「私、・・・、看護師、ということは前に話していますよね。でも、いくじなしの看護師なのです。大震災後の病院勤務から逃げたんです。患者さんを捨てて、逃げた看護師なのです。この一月に亡くなられた南相馬中央医院の高橋亨平さんというお医者さんは、余命半年という末期ガンを宣告されながら、亡くなる直前まで被災地の患者さんと向き合って、真摯に診察に当たられた、というのに。私は、被災地の病院勤務に耐えられなくなって、逃げた看護師なのです」
何と言っていいのか、分からなくなって、僕は彼女を見詰めたまま、黙り込んだ。
彼女はぽつり、ぽつりと自分の過去を語った。
彼女は震災で津波の被害を受けた被災地区の住民だった。
震災当日、彼女が働いていた病院は地震による倒壊も免れ、その後の津波の被害にも遭わなかった。
それは、幸いなことであったが、その後の勤務は苛酷なものだった。
交通機関が麻痺して、医薬品が底を尽く中で、被災を受けた他の病院の患者が次から次へと、彼女が勤務する病院に移送されて来た。
看護師の中には、津波で家を流され、家族を失い、自らも、公民館の中で避難生活を送らざるを得なくなった人も少なからず居た。
その人たちの多くは、病院を去った。
勤務医も例外では無く、疲れ果てて、ぽつりぽつりと病院を去っていった。
残った看護師、医者の勤務は人員減と共に苛酷さを増していった。
増え続ける患者の数と反比例して、病院のスタッフの数は減少していった。
彼女も、家は高台にあり、家族全員何とか無事だったが、電気も停まり、水道も出ないといった地域の状況からは免れることが出来なかった。
頑張ったが、力尽きた。
その病院を去り、被災地区を出て、他の病院に移った。
しかし、勤務は楽になったにもかかわらず、どうしようもない後ろめたさは解消出来ず、病院を転々と移った結果、一ヶ月前から実家に戻り、何もしない暮らしに埋没した。
「被災地の長年勤めた病院を去る時、退職する私を見る先生、同僚看護師、介護士さんたちの視線がどうしても忘れられないのです」
それっきり、彼女は黙り込んだ。
どういう視線であったか、僕にも容易に想像がつく。
軽蔑、侮蔑、蔑み、嘲り、哀れみ、憐憫、同情、羨望、憫笑、嘲笑、諦念、諦め、優しさ、励まし、激励、エール、悲しみ、悲哀、無関心、冷淡、等々、多様な感情が入り混じった視線だったのだろう。
僕は大学の頃の諺研究会で纏めた諺を思い出していた。
ドン・キホーテの中に出てきた諺の幾つかを思い出していた。
『いかなる記憶も時と共に失せぬものはなく、死によって消え失せぬ苦痛はない』。
『死人は墓へ、生きている者はパンへ』。
『死を除けば、どんなことにも救いの手立てはある』。
といった格言の数々だった。
しかし、これらの格言は今の彼女には慰めの言葉にもならない。
黙り込んで、車窓をぼんやり眺めている彼女におずおずとした視線を向けながら、彼女に贈ってやりたい格言を僕は遠い記憶の中から掘り起こしていた。
『時間ってのは、一番の名医だからね』と呟き、慰めるサンチョの言葉だった。
今、彼女は血の涙を流しているのだ、病院から逃げてしまった自分を責め、ずっと血の涙を流しているのだ、と思った。
『眼から出る涙じゃない、心から出る血の涙を流してだ』、というドン・キホーテの一節も脳裏によみがえってきた。
震災後の苛酷な医療現場から逃亡した看護師の心中を僕は察しようとしていた。
人に寄り添い、その人の心を察しようとする心の働きを、長年、僕は忘れていた。
と、同時に、彼女をとても大事な人のように思い始めている自分にも気が付いた。
ふと、車窓に目を向けたら、野原に群生している赤いアマポーラが目に入った。
アマポーラの花言葉を思い出した。
恋の予感、という花言葉だった。
話題を変えるべきだ、と思った。
明るく、無難な話題がいい。
「海外旅行にはよく行くんですか?」
「あっ、行きますよ」
僕の問いに、彼女は陽気な口調で答えた。
努めて、陽気に振る舞おうとしていたのだろう。
「看護師って、結構海外旅行が好きなのです。私も仲間と連れ立って、年に一度は外国に行っていました。グァム、サイパン、韓国、台湾とか。一昨年は、ハワイにも」
彼女は少し饒舌になっていた。僕は黙って、彼女の話に耳を傾けた。
「でも、仕事柄、それほど長い休暇は取れなくって。精々、四、五日から、長くても、一週間程度の海外旅行でした」
「ハワイなら、僕も行きました。三年ほど前になるかな。ワイキキ・ビーチを初めて、目にした時、何だか、初めて見る光景のような気がしなくって。おかしなものでした」
「それって、フランス語で、デジャ・ビュ、と言うのです。既視感、という意味」
「ああ、知っています。初めての風景なのに、以前に、何処かで見たことがあるような感覚に陥ることでしょう。でも、僕の場合は極めて単純なのです。透き通る青い空、水平線まで広がる青い海、椰子の実を付けた高い椰子の樹、白い砂浜と波と砕け散る波飛沫。いかにも、ハワイそのものでしょう。でも、この風景って、実は、学生の頃、通った銭湯の壁に描かれた風景画なのです。おそらく、ハワイそのもののイメージで描かれた。それと同じ風景が実際に目の前に広がっていただけなのです。僕のアパートにもお風呂は付いていましたが、小さくて、窮屈で、時々は近くの銭湯に出掛けていたのです。その銭湯の壁の画とほとんど一緒の景色でした」
彼女は笑った。
「デジャ・ビュどころか、いつも見ていた、見慣れた景色だったのですね。でも、浜辺って、素敵ですよね。モン・サン・ミシェルで眺めた浜辺も素敵だったけど、私が看護師となって初めて勤めた横浜の病院の婦長さんなんか、三十年前に観た、メキシコのイスラ・ムヘーレスという島の浜辺とか、カンクンの浜辺の美しさ、カリブ海の美しさなんか、今でも目に浮かぶって、いつも話されていましたもの」
「その婦長さん、そんな昔に、メキシコ旅行されたのですか?」
「旅行じゃなく、日本とメキシコの交換研修制度の研修生として一年ばかり、メキシコシティに滞在したとおっしゃっていました。新人看護師の私をつかまえて、チャンスがあるなら、外国の病院に研修に行きなさいよ、とおっしゃっていました。でも、そんなチャンスは、昔はともかく、今はほとんど無いですねえ」
「日本に居る時よりは、視野が広がるかも知れませんね」
「ええ、無駄にはならないと思います。貴重な経験になると思います。その婦長さんだって、メキシコシティの病院研修で、白人系の医者がインディオ系の貧しい人たちを懸命に治療する姿を眼の前にして、ヒューマニズムとはこういうことか、人間という存在の尊厳を大事にするということはこういうことか、といったものを膚で感じ、とても感動したわ、とおっしゃっていました。大震災で、より鮮明になった、人と人との絆の大切さをこの婦長さんは三十年前の異国での病院研修で学ばれていたのです。そのお話を伺った時、私、何だか、この婦長さんにジェラシーすら感じました。新米看護師の私には到底得られない貴重な経験を難なく積まれていらしたのですもの。本当に羨ましい経験。でも、私には今回の被災地の病院勤務で得られた貴重な経験があります。逃げてしまったという負い目もあります。この二年間、私は自分自身を見詰め直しました。その結果、私は私なりに、心に決めたことがあります。また、看護師に復職したら、今度は、私、逃げません。もう、逃げるのは嫌。逃げるのは一度でたくさん。一度でたくさん。折角、人のお世話をするという、いわば、天国に一番近い職業に携わっているのですもの。続けなくては」
僕は、強い調子で語る彼女の顔を思わず見詰めた。
少し、上気した顔が僕にはとても眩しかった。
目頭が熱くなると同時に、心の奥底から湧き上ってくるものがあった。
お前も頑張れ、と僕は心の中で僕自身に言っていた。
頑張るという言葉が大嫌いだった僕が少しずつ変わっていくのを感じていた。
十九時、列車はパリ・東駅に着いた。
東駅は朝同様、人で混雑していた。
僕たちはホテルのあるオペラ地区に向かう地下鉄のホームに足を運んだ。
ホームのベンチに腰を下ろして、電車を待った。
「明日はツアーの実質的な最終日です。また、どこかに行きましょうか?」
僕は、手持無沙汰にホームの壁に貼られたポスターを眺めている彼女に話し掛けた。
「四泊六日のツアーですものね。明後日は昼の飛行機で日本に帰るから、実質的には、ほんと、明日が最終日ですわねえ。さあて、どうしましょうか」
「折角、オペラ地区に居るのですから、オペラ座見物もいいですね。シャンゼリゼ通りを歩いて、凱旋門を見物してから、エッフェル塔見物と、一般的な名所見物としましょうか」
「それが無難なところかも」
彼女は無邪気な笑い顔を僕に向けてきた。
やがて、電車が来て、僕たちは乗り込んだ。
「日本に帰って、この後、病院かどこか、就職を考えているのですか?」
「働かざる者、喰うべからず、ですから、どこか就職口を探すつもりでいます。あなたは?」
「僕も、そうです。どこか、探しますよ。地元で無理ならば、東京に出ることとします。東京なら、仕事は結構ありますから。どうしても見つからなかったら、三鷹にある友達の実家のスーパーでも手伝いますよ。人手が欲しい、といつも言っていますから」
「看護師は結構就職口には困らないけど、一般的には、今の日本、就職難で大変な状況なのですね」
ワーキング・プアという言葉がある。
『働く貧者』、或いは、『働く貧困層』。
嫌な言葉だ。
年収で言えば、二百万円程度の年収しかない人、世帯を一般的にこのように呼ぶ。
何でも、生活保護を受けている世帯より、年収が少ないのだそうだ。
健気に一生懸命働いても、人並みの暮らしが出来ないなんていうことは、あってはならないことだ。
増大する格差社会の中では、このワーキング・プアという存在も全世界共通の問題となっており、皮肉な言い方で言えば、一種のグローバル・スタンダードとなってしまっている。一度、この階層に落ちたら、再浮上することは不可能に近い、と断言する人も居る。
でも、それだからと言って、ふてくされて、働くことを拒否してはいけない。
働いて、生活するお金を得る、という行為は人として当たり前のことだから。
働いてもいない僕は、ワーキング・プアにも値しない存在となっている。
このままでは、僕は文字通り、人生の敗北者、になってしまう。
親に食べさせてもらっているという今の状況から、とにかく抜け出そう。
自立しよう。そうしなければ、僕という人間が本当に駄目になってしまう。
衣食足りて、礼節を知る、という言葉もある。
衣食ばかりでは無く、今の都会では、住の方がより重要さを増している。
都会では、住のお金を払えば、食を可能な限り、切り詰めなければならないという辛い状況があるからだ。
衣食住という慣用句もあるが、重要さの順番から言えば、住食衣という逆の順になる。
まあ、それはともかく、ドン・キホーテでは、『苦労だってパンがありゃ、耐えられるもの』、と現実的な男、サンチョ・パンサも言っていた。
夢があれば、愛があれば、というのは無責任な幻想でしかなく、最低限のお金はやはり必要だ。働き口を見つけ、少し安定したら、彼女に交際を申し込もう。
それが、順番だ、と僕は思った。
地下鉄を出て、僕たちはホテルに向かって歩き始めた。
夜の八時を過ぎていたが、夕暮れにもなっておらず、空はまだ明るかった。
通りは人で混雑しており、僕たちは並んで歩くことを諦め、いつの間にか、彼女は僕の前を歩いていた。
歩きながら、僕は一つの言葉を考えていた。
勇気、という言葉が僕の頭の中を駆け巡っていた。
勇気。大分長いこと、忘れていた言葉だった。
『恋に躊躇は禁物、躊躇うな』。
『チャンスの女神は禿げとして描かれるが、前髪が一房だけついている。それを掴め』。
『臆病と向う見ずの両端の真ん中に本物の勇気がある』。
僕の頭の中を、ドン・キホーテの中に記されている格言が飛び交った。
今が行動の時だ、さあ、勇気を奮って彼女に今の素直な気持ちを話せ、と僕は考えながら、すたすたと歩く彼女の後ろを歩いていた。
少し、猫背になっている自分に気付いた。
僕は自分自身を励ました。
さあ、胸を張れ、そして、勇気を出せ!
思いきって、声をかけようとした瞬間だった。
彼女が急に振り返った。
少し、悪戯っぽい目をしていた。
「ねえ、私から提案があります。聞いてくれます?」
僕は少し、どぎまぎしながら言った。
「はあ、いいですよ。何でしょうか?」
「携帯電話の番号を教えて下さい。日本に帰ってからも、時々、お会いしたいから」
『わたしは遠くで燃える火であり、彼方に置かれた剣なのです』。
これは、ドン・キホーテの中に6出てくる一節で、愛された者は愛された分、愛した者を愛さなければいけないとする、一方的で身勝手な愛を断固として拒否する美女・マルセーラの言葉であるが、今回の旅で知り合った彼女が言いそうな言葉だ、と僕は思っていた。
今、僕は勇気を奮って、彼女に、交際して下さい、と言うつもりだった。
しかし、その必要は無くなってしまった。
女性に無縁、恋に無縁だと思っていたが、実際はそうでも無かったようだ。
『陽はまだ土塀の上にある』。
人生の、或いは、青春の『日没』までは、まだ間がある。
物事、最後まで諦めてはいけない、というドン・キホーテの作者、ミゲル・デ・セルバンテスからの真摯なメッセージだ。
セルバンテスほど、不運続きの人生を送った人も珍しい。
でも、セルバンテスは不運続きの人生の中で、何度も投獄され、獄中で呻きながら、不朽の名作、ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャを書いた。
陽はまだ土塀の上にある、と何度も呟きながら、悲嘆に喘ぎ、ともすれば、挫けそうになる自分自身を励まし続けたに違いない。
僕の人生。
どんな人生になるか知らないが、彼女と一緒に、同じ人生を暮らしてみたい。
彼女は大震災の後、苛酷な病院勤務から逃げた女だった。
でも、もう、逃げないと心に決めている。女の面子にかけて。
僕も彼女同様、逃げている男であるが、彼女と知り合うことによって、今一度、自分の人生と向き合うという気になった。
彼女に寄り添いながら、人生をやり直す気になった。
そして、彼女が許すなら、同じ人生をおくってみたい。
彼女はおそらく、今の僕にとって、チャンスの女神だ。
彼女を逃がしてはならない。
同時に、彼女を逃げる女にしてはならない。
一度、逃げた彼女を再び、逃げる女、にしてはならない。
男の面子にかけて。
そう思った。
祭りの後で、僕が見つけたもの。
人生に真正面から向き合うこと。
それに、少し気恥ずかしいが、勇気。
そして、恋、だった。
完