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御嬢さん

作者: 火野莠里

 浜風香る街に、ひとり、御嬢さんがおりました。白いワンピースに肩口までの髪を垂らした、いくぶん可愛らしい御嬢さんで、陽射しの強くなる頃になるとふいに現れるのです。齢は判りませんが、十くらいの幼子の様に見えます。

 御嬢さんは、何時も晴れた日の昼下りにコンクリートの海岸に来ては、唯々海のはるか遠くを眺めて、陽が沈むと帰ってゆきます。そのあいだ海では鼠色の艦がゆっくりと行き来したり、うみねこがニャアニャアと騒いだりしているだけで、幼子の見て喜ぶ、壮麗な客船が入ってくる様なことだとか、荷を詰めた貨物船が顔を出す様なことは、この港には無いのでした。


 港の近くに住む長門朔真君と云う少年は時折海を眺める御嬢さんの様子を見かけては不思議に思っておりました。朔真少年にとっては、港は美しいもののない、つまらない場所に違いなかったので、御嬢さんが夕暮れになる迄とどまって海を眺めるのは不自然に思えたのです。別段理由も有りませんが、なんだか気になって仕舞って、いっそ何故ここに留まるのかと訊ねてみたい気がしました。

 図らずも、朔真少年が御嬢さんと話す機会の出来たのは、夏休みに入った頃のことでした。御嬢さんは不断の通り海を眺めていましたが、ふいにかむっていた麦わら帽子が風に飛ばされて、はらり、と歩いていた少年の近くに来たのです。

「相すみません、そのお帽子を取って寄越してくださいませんか」

御嬢さんはよく通る綺麗な声で少年に声を掛けました。

「アア此れですか、どうぞ」

少年が拾い上げて丁寧に払ってから渡すと、御嬢さんは嬉しそうに「有難う御座います」とお辞儀をしました。そして、一言二言世間話をすると、またちらりと海を見遣りました。

「君は毎日、ここで何をしているのですか」

つられて同じ様に海に視線を遣ってから、少年はついに訊ねてみました。御嬢さんは小首を傾げて、

「海を見ているのですよ」

と答えました。

「ずうっと?」

「ええ、ずうっと」

「ただ眺むるだけなのですか?」

「他に為ることも御座いませんでしょう?」

こんどは少年が小首を傾げる番でした。

「僕はこの街に生れて育ちましたが、君の様な子供の喜ぶ船は一度も見たことがない。艦か、給油船しか来ない港ですよ、ここは」

「解っていますとも、だから見ているのです」

少年はますます困ってしまいました。

「ウーン、解らない。善かったら理由を教えてくださいませんか。実は君が如何して海を眺めるのか、ずうっと気になっていたのです」

御嬢さんはにこにこ笑って、

「ええ、かまいませんよ、でももう陽が落ちます。あなたは明日は空いていますか?」

と訊きました。もう夏休みで学校も無かったので、少年は直ぐに頷きました。

「善かった、明日またお会いしましょう」

御嬢さんはまたお辞儀をして歩き出しました。暫く少年がボンヤリ見送っていると、ふと御嬢さんが立ち止まって訊ねました。

「あなた、御名前はなんと云うんです」

「僕は長門朔真と云います」

御嬢さんはその名前を聞いて、何やらハッとした様な顔をしましたが、直ぐに礼を云って走ってゆきました。

 翌日、朔真少年はお昼御飯を食べて、いそいそ出かけてゆきました。実はあのあと、仕舞った、御嬢さんの名を訊くのを忘れた、と悩んだのですが、御嬢さんは不断わりあい早く来る様子だったので少年のほうは少し遅く出掛けたのです。

 果して御嬢さんはあのコンクリートの海岸におりました。やはり遠くを見つめて、何を為ることもなく、ただ見つめておりました。

「ヤア、来ましたよ」

ずいぶんと馴れ馴れしい言葉だったと少年は多少省みましたが、御嬢さんは気にすることもなく「ええ、こんにちは朔真さん」と、にっこり笑って呉れました。

「ところで、あの艦の名はご存じ?」

昨日の話の続きを聴こうと少年が口を開こうとした時、御嬢さんはふとそんな事を訊きました。

「あの?」

「あすこ、三つ並んでいるでしょう、その真ん中です」

御嬢さんが指差したのは、あかるい鼠色の、白い数字の入った艦でした。

「僕はああいうのに疎いので、判りません」

「では、奥の白い船や、手前の黒い潜水艦も?」

「エエ、ほんとうに疎いのですよ、君は判るんですか?」

少年は困って御嬢さんの顔を見つめました。

「人伝てに聞いただけですから、正しいかは確かめられないのですが、あれは『きりしま』、あれは『あかぎ』、あれは『そうりゅう』と云うのだそうですよ」

そう御嬢さんはハキハキと名前を答えました。

「驚いた、詳しいのですね」

少年はすっかり感心して、横にいる御嬢さんを思わず眺めました。

「いえ、そんなことありませんよ。それで、ええと、お話でしたね」

「そうだった、僕も危うく忘れて仕舞うところでした」

相すみません、と一言前を置いて、御嬢さんは話し始めました。

「今の問答が全く関さないことも無いのです。わたしはこの辺りの生れではありませんが、ずうっと前に越して来て、暮したことがありました。そう長くはありませんでしたが、善い日でした。然し父が呉にゆくと云うので、折角越してきたこの土地をまた離れて、わたしの家族は東京に戻りました」

「父は呉にゆき、わたしは母と、兄弟たちと、雇った女中さんとで暮しておりました。あまり贅沢をすれば怒られるので、慎ましく暮していたと思います。でもわるい暮しではありませんでした。暫くそうやって過しましたが、父が呉から離れると聞いてから全く音沙汰無くなりましたので、母はずいぶん苦労したと思います」

少年は暫く黙って御嬢さんの身の上話に耳を傾けておりました。初め、オヤ、なんだかへんだな、とは思いましたが、其れが海を見る理由に余程深いものがあるのだろう、と思って聞いておりました。

「或る春先に、わたしたちは家を焼け出されて、なんとか母とわたしと、女中さん、弟がひとり逃げ延びましたが、妹とふたりの弟は死にました。わたしはどうしてもこっちに戻りたくなって、母と弟は会津の方までゆきましたが、女中さんとここに戻ってきました」


 朔真少年は、そこまで聴いてようやく判然と御嬢さんの出自を了解しました。

「君は、そこで亡くなったのですね」


「君は曾祖父いさまと連れ立った艦を探しているんでしょう。あの艦はね、沈みました。持って行かれて、沈みました。だからモチロン、闘って沈んだわけじゃあないんです、僕等と同じ名前をしたあの艦は」

御嬢さんは寂しそうに頷きました。

「そうですか…では帰ってくることもないと云うんですね」

「今も海の底で眠っていますよ、遠く、南のほうで」



 御嬢さんが其の街の港に現れなくなったのは、あの日から数日経ってからでした。少年は毎日付き合ってやりましたが、御嬢さんはとても嬉しそうに過ごしました。或る日、海にあの麦わら帽子がはらり、と落ちていて、少年は御嬢さんがようやく眠れたのだと救われた思いをしました。

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