ひとりぼっちの魔法使い (その6)
浮かんでいる。
水に浮かぶのとは少し違った、まるで雲の上に寝転がるよう。
重力が失われ、生暖かい自由に支配される。
景色は白から青へ、青から白へ、そしてまた白から青へと変わってゆく。
ゆらりゆらりと、
ぷかんぷかんと、
流れるように、流されるように。
そんなおかしな夢を見た。
目が覚めると、視界に飛び込んできたのは黄金の眼をした蒼い猫だった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・おはよう?」
寝ぼけたまま挨拶をすると、蒼猫はにゃあと鳴いて陽輝の身体から飛び降りる。
今度は真っ白な天井が目に入る。この天井を陽輝は知らない。
あれ、俺って何してたんだっけ?
眠る前の風景が思い出せない。
やけに足腰が痛いがどこかで重労働でもしていたのだろうか。
とりあえずここは何処なんだろう、と去った猫を目で追えば、
そこには、一人の少女が腰かけていた。
頭が真っ白になる。
何も考えられない。
こんなものが存在するのかと、
目の前の光景に心を奪われる。
それはまるで世界が許した唯一の奇跡。
肩で揃えられた髪は純粋な漆色。
肌は恐ろしいほど白く、薄い唇は優しい朱に染まり、長い睫毛が揺れる様子は精巧な人形のよう。
蒼猫が漆黒のワンピースの膝に飛び乗ると、少女は初めて陽輝に視線を投げた。
視線が交差する。
心臓が狂ったように加速し、すべてを飲み込むような眼差しに自分が誰であるかわからなくなる。
思考はとうに放棄されている。
針の音も聴こえない完全なる静寂が空間を伝播した。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
沈黙は刹那か永遠か。
先に口を開いたのは彼女だった。
「身体は大丈夫」
かき消されそうなガラスのように透明な声。
その声でようやく陽輝の頭が動き始めた。
「えっと、うん。大丈夫」
身体を起こし少女と向かい合うと、自分が小さな部屋にいることがわかる。
陽輝がいるベッドと少女が座る椅子以外には何もなく、部屋のほとんどのフローリングが剥き出しになっていた。窓の外は真っ暗で何も見えず、頭上のランプが二人を照らしている。
「・・・・・・ここは何処?」
「私の家よ。あなた、森で倒れていたの」
彼女の台詞で記憶と現実が結びつく。
「そうだ、俺は、迷子になって」
幾度となく繰り返した分かれ道が脳裏に蘇る。
走っても走っても抜けられなかったあの森で、自分は眠ってしまったのだった。
「君が助けてくれたのか」
「助けた、なんて言い方は大袈裟だけれど」
それだけ言って少女は口を閉ざす。どうやら自分は彼女に救われたらしい。
「ありがとう。助かったよ。大袈裟なんかじゃない」
「・・・・・・どういたしまして」
口調は厳しいが感謝の言葉を受け入れてくれたことに陽輝は安堵する。
少女は猫を撫でながら、
「・・・・・・どうして、森にいたの」
「人を探していたんだ」
「それはーーー」
少女が答えようとしたとき、陽輝の身体がぐるるるると空腹を告げた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・良かったら、ごはん、食べる?」
「いいのか?」
「夕飯、余ってるから」
少女が無表情のまま席を立つ。一匹と一人が小さな背中を追いかけた。
少女の家は、規格外に大きな、そして異常なほど豪華な洋館だった。
果てしなく続くと思われた廊下にはふかふかのレッドカーペット。
それぞれの部屋の間に並ぶ高そうな絵画や銅像。
螺旋階段を下りた先の広間には巨大なシャンデリア。
案内された食堂では、轟々と燃える暖炉と映画でしか見たことのないような長テーブルが陽輝を迎えた。
「適当に座ってて」
当惑する陽輝を置いて少女は食堂の奥へと消える。おそらく厨房があるのだろう。食器の擦れる音が聞こえてきた。
一人残された陽輝は自分の頬をつねってみた。
痛い。
つまり、夢じゃない。
これは紛れもなく現実だ。
長テーブルの周りをぐるぐると回る。蒼猫がてくてくと付いてくる。
自分は森の中で倒れて、ここは少女の家だという。
彼女が自分を助けてくれて、ここまで運んでくれたのだろう。いや、彼女一人では自分を運べない。きっと誰かの手助けがあったはずだ。
それにしては他の人の姿が見えないけれど・・・・・・
そこまで考えて陽輝は腕時計を確認する。もうすぐ日付が変わろうとしていた。
「うわ、まじか」
森に入ってからおよそ8時間も経っている。どれくらい森を彷徨ったかは記憶にないが、4時間以上は眠っていたのかもしれない。
この時間じゃあ他の住人は眠っているんだろうな。
恩人に感謝の言葉を述べられないことを悔やんだ陽輝は『あるもの』に目を奪われた。
食堂の扉の上に飾られた、一際大きな絵画。
そこには夜の草原を駆ける小さな少女が描かれている。
手を掲げ、空を撫でる跡には流れ星。
何よりも、笑顔なのに涙を零す少女から目が離せなかった。
「座っておいてと言ったのに」
振り返ると少女がお盆を持って陽輝を見つめていた。
「・・・・・・ごめん、つい」
少女はテーブルにお盆を降ろすと、陽輝の隣に並び、
「私、ここにある絵でそれが一番嫌い」
「どうして?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・私に似ているから、とても」
「似ているってどこが」
陽輝の問いに少女は口を閉ざす。俯いているので表情は伺えない。
「・・・・・・ごはん、冷めちゃうから」
「あ、そうだった」
「食べ終わる頃には戻ってくるから、何かあったらその子に言って」
「その子って、この猫?」
こくりと頷いて少女は部屋から出て行った。
食堂には迷子の訪問者と蒼い猫が取り残される。
やはり現実味のない出来事に頭がついていかない。
色々と考えなければならないことは多いが、腹が減っては戦は出来ぬ。
物事を整理するのは空腹を満たしてからにしようと席に着いた陽輝は己の目を疑った。
テーブルに置かれていたのは、この洋館に不釣り合いな伝統的和風料理、肉じゃがだった。
「お前のご主人様、なんか面白いな」
同意ともとれる鳴き声が食堂に響いた。