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「っ、うわぁぁぁぁぁ!!!!!」
婚約破棄を告げられた瞬間の、ぎゅうっと胸を絞られる切ない痛みと、目の前が真っ暗になるほどの絶望をふいに思い出してしまい、十六になったエリーはあの感覚を振り払うために叫び出す。
「うあぁぁぁぁぁぁぁ―――!!!!!」
新緑色の大きな瞳をぐわっと見開き。
しかし手元では寸分狂うこと無くハンカチへの刺繍を続けながら、嫌な気分を自分の中から追い出すかのごとく、腹の奥底から声を出す。
「んうおぉぉぉぉ――――!!!」
ザク! ザクザクッ!
「ふんぬうっ! このっ! とぉや!!」
ザクザクザクッ!!
まるで敵を刺し殺すかのように、彼女は白いハンカチにブッスブッスと針を繰り返し刺していく。
目にも止まらぬ超高速で、手を動かし続ける。
その姿は、知らない人が見れば速攻逃げ出したくなるだろう、緊迫感あふれる迫力だ。
そんなふうに叫んで叫んで叫びながら、一心不乱に針を刺して約十分。
「っ、………ふう!」
出来上がった小鳥の刺繍に、エリーはやっと叫びを止めて満足げな息を吐き、ハサミで糸を切った。
「―――うん。いい出来だわ。やっぱり色違いの青糸でグラデーションにしたの正解じゃない?」
両手で広げて眺めたハンカチに入れたのは、青い小鳥の刺繍。
小鳥の周りにはグリーンのリーフを刺している。
雄々しい叫び声と荒ぶっていた様子からは、想像も出来ない可愛さだ。
エリーは満足いくものを作った自分の腕前に、自画自賛で胸を張った。
口元が、自然とにんまりと弧を描く。
「やっぱりストレス発散には刺繍よねー。目に見えて柄が浮き上がっていく過程がたまんないっていうか」
「姉ちゃん! うっせぇよ!」
「あらブラン」
ひょっこりと顔をみせたのは、弟のブランだ。
エリーと同じ新緑色の目は、ずいぶん冷たく吊り上がっている。
姉のエリーを完全に馬鹿にしている態度だった。
「下の店の方まで奇声、聞こえてるんだけど? 母さんが注意してこいって」
「もう終わったわよ。それより見てこれ! 良くない!?」
「あっそ」
広げて自慢気に見せた刺繍の感想は、返ってこなかった。
弟なんてこんなものだ。
その弟はうろんげにエリーをみたあと、思い出したかのように何かを差し出した。
「あ、あと今、郵便屋が来た。姉ちゃん宛て」
「郵便屋? 私に?」
エリーは不思議に思いながら、ハンカチを脇において弟の差し出した手紙を受け取った。
「私宛ての手紙なんて珍しい。誰からだろ」
エリーの友だちはみんな近所に住んでいて、わざわざ手紙のやりとりをするほどの距離はない。
少し遠くに離れた親戚からの手紙なら、エリー宛てではなく一家宛てになっているはず。
「大事なものだから、すぐに本人に渡してくださいって、郵便屋の兄ちゃんが言ってた」
「へぇ?」
エリーは首を傾げながら、ひっくり返して差し出し人を確認する。
一番最初に目に入ったのは、封筒の閉じ口に押された封蝋の印だ。
「なんだか変わった蝋印ね? 普通は家紋とか押すのに……」
「これ何?」
「糸車の絵だと思う。糸をつくる道具よ」
「ふーん? だったら手芸屋からとかじゃねえの?」
「でも私が知ってるどの手芸屋の看板とも違うんだけど……ん?」
糸車の封蝋が押された斜め下、封筒の端っこに書かれている差出人の名前を見て、エリーは大きな緑色の瞳を瞬かせた。
思わず、声にだして読んでしまう。
「”フィメイル国王城、服飾部代表ディノス・ブリーク” えーと、つまり……この手紙は、お城の服飾部からってこと……? 王族とか、神龍の巫女様の衣装関係作ってるところよね? なんで私に手紙がくるの?」
ますますこれが届いた意味が分からなくて、エリーは首をひねりっぱなしだ。
……エリーはただの王都にある商店通りの、小さな食堂を営む家の娘。
趣味は手芸全般と、デザイン画を書くこと。
あまりにのめり込み過ぎて、たまに雄々しく叫びながら針を刺すことがあったりはする。
でもまぁ、ごく平凡な王都の民だ。
王城に知り合いなんていないし、何か連絡を貰うようなことをした覚えもない。
不思議に思いながらも、とりあえず手で封筒をちぎり開くと、中には一枚の手紙が入っていた。
右上がりのきつい文字で書かれた文章を読んでいくなり、エリーの新緑色の目は驚愕に見開かれていく。
隣から覗き込んで来て一緒に手紙を見ていたブランも「マジかよ……」と小さく呟いた。
それは王城の服飾部からの、就職案内書。
つまり城に住まうお偉い人々の着るものを作る部署へ、エリーをスカウトしたいということだった。
今まで何の功績も上げていなければ、特別な技術も何もない、本当にただ趣味で手芸をしているだけの町娘のエリーをだ。
「え? え? 何で?」
訳が分からなくて、怖い。
(悪戯か、詐欺? いやでも王城からの手紙を偽るとか、そんな大それた犯罪おかされるような身じゃないしな私……)
悪戯の可能性は限りなく低い。
でも城にあがれるような何か凄い功績を作った覚えもない。
なぜ、こんなものが来るのだと混乱するエリーを落ち着かせたのは、いつもは生意気ばかりな弟のブランの、痛くはないデコピンだった。
「っ」
ピンッっと額を弾かれたことに目を丸くして顔を上げると、そこに立っているブランは、エリーの手の中にある手紙の一文を指さした。
「姉ちゃん。ほら、続きに姉ちゃんが雑貨屋に卸してる刺繍のハンカチとかポーチを見たって書いてんじゃん」
「雑貨屋? あれを見て?」
よくよく読み進んでみると、確かにそう書いている。
「いや…いやいや……いやいやいや。でもお城の服飾部だよ!? お姫様や巫女様の着る超豪華なドレスとか作っちゃうとこだよ!? あんなハンカチ程度で判断しちゃうの!? それっていいの!?」
「服飾部の針子見習い、って書いてあんじゃん。下っ端だよ下っ端! 下っ端だから多少の腕があるならいいんじゃね?」
「えぇぇぇ? だって私、ただの町娘だし。見習いだろうが何だろうが、お城だよお城……雲の上の世界だよ」
「別にこういう技術職に身分とかは関係ないじゃん、特にうちの国は」
「うーん……」
――――エリーの住まうフィメイル国は『服飾の国』とも呼ばれるくらい、服飾分野に特化している国だ。
国内で生産された生地や糸は、質の良い一級品として世界中に有名だった。
更にそれらの材料を使って国の職人が作る衣服や装飾品は、海外の王侯貴族にとても人気があって、国の産業の要となっている。
人気、となればそれを作れる職人自身を欲しいという者も現れるもの。
長い年月をかけて培われた、国の職人の服飾技術を海外へ流出させない為に、特別に優秀な技術と知識をもった職人は、実力にふさわしい地位と権力が与えられることになっていた。
それこそ城で王族の服を作るくらいの職人ともなれば、貴族なみの好待遇なはず。
――――ただの一般庶民でも、針と糸と努力だけで成り上がれる服飾の国。
そんなフィメイル国で、職人たちが憧れ目指し、切磋琢磨して行きつく場所が、城の服飾部だ。
(どうして私に、お呼びがかかるの……?)
こういう国風だから、エリーも小さい頃から針を持っていた。
成長してそこそこの腕前になってからは、作ったものをお小遣い稼ぎとして雑貨屋に卸させて貰ってもいた。
でもそれは、本当にただの趣味うちだったのに。
小さな雑貨屋の隅っこに並んでいる、素人の手作り品を見て、どうしてお城の人が声をかけてくるのか。
(まったく全然、意味が分からない……! けど……!)
でもエリーも、この服飾の国で生まれ育った人間だ。
他の人たちと同じように、城の服飾部の人たちに憧れたりもする。
この国の自慢―――世界のファッション文化を引っ張る彼らの一員になれたらと、想像したことがないといえば嘘になる。
「……うーん。あっさり蹴るには、勿体なすぎる話なのよ。それに下っ端の見習いだと、もしかするとこういうスカウト的なのも有るものなのかも?」
唸っていたエリーは、そこではっと息を飲む。
(も、もしかして城に就職すれば、朝から晩まで家に居ない理由が出来るんじゃない?)
近ごろの悩みが解決出来てしまうかもしれないことに気が付いてしまった。
エリーは、手にしている手紙をもう一度見おろし、熟読しなおす。
そこには給料や休日、様々な待遇についても簡単に書いてあった。
注意としてはあくまで見習いとしての採用になることくらい。
功績によっては正規の職人となる可能性もあるらしい。
あとは何度読んでも、特にこちらが不利になるような事柄は書いてない。
(むしろ、さすが王城の仕事だけあって、かなり条件は良いじゃない? お給料もその辺の仕立屋で針子として働くよりずっと高い。そのうえご飯も出るし、休日もしっかりある。うん――なによりも、国で一番の場所に就職って、普通に考えて凄いビックチャンスよね!? このチャンス、手放していいの……? うん、駄目な気がする! ここはやるべき所な気がしてきた!)
エリーは混乱から戻って来るなり、鼻息荒く立ち上がり手紙を握り込んだ。
なんだか本当に、とってもいい話なのかもしれない。
いや、とてもいい話なのだと、一人勝手に納得した。
「そうよ! きっとたぶん、私がしたかったのはこれなんだわ! お城のお針子さんとして、成り上がるのよ! 服飾部のトップを目指すのよ!」
突然のスカウトに、ついさっきまで動揺しっぱなしだったのに、いきなり鼻息荒くやる気になった姉を見守る弟のブランは、たいへんあきれ顔だ。
「いやいや姉ちゃん。ちょっと待った。幾ら何でもホイホイ乗りすぎ!」
冷静な様子で、姉の勢い任せすぎる決定を思いとどまらせようとしてくる。
「いくら元婚約者に子供が出来たって知っちゃった直後だからって、やさぐれた勢いで城のトップ目指すとか馬鹿じゃね」
「はぁぁ?」
エリーの眉がピクピクと動く。
「あ、あのね、スカウトが来たから行く、それだけでしょ。あんな奴はどうでもいいのよ。関係ないの!」
「どうでもいいなら何であんなに荒れてたんだよ! ストレス発散の為に奇声上げながら刺繍するクセ、ほんと迷惑なんだけど!」
「あれはちょっと針の調子が乗って、乗りすぎてうっかり声にも出ちゃってただけ!」
「んなわけあるか。あーあ、だから一昨年に婚約破棄の話が出た時に意地張らねぇで、好きだから破棄したくないって言っとけば……」
「だから! 私が! ジョナサンを好きだなんて決めつけないでくれる!? あいつは兄弟みたいなものよ。親の決めた婚約者に、恋愛感情なんて最初からなかったの!! 婚約破棄されたって別に全然どうでもいいわよ! 気になんないわよ! あいつとこの就職は関係ない!」
封筒も手紙も一緒にぐしゃぐしゃに握り込み、声を上げながら力説する。
エリーがこんなに言ってるのに、ブランはまったく信じた様子はなく、溜め息を吐く。
「はぁ……あーもう、そんな勢いだけでいける甘い世界じゃないだろー」
「ふんっ!」
(……別に、私は婚約破棄された事なんて全然気にしていないわよ)
本当に、まったくどうだっていい。
結婚も子供も、たいへんめでたい事ではないか。
お隣同士で嫌でも話が筒抜けな場所から逃げて、城に行くわけじゃない。絶対違う。
時々聞こえてくる赤ん坊の泣き声に毎回打ちのめされてなんか全然ない。
『服飾の国』フィメイル国での王城の服飾部からのスカウトなんて、とてもとても良い話だし、自分の腕を高めたいだけなのだ! と、エリーはもう一度、ブランに高々と宣言した。
――――チクチクと痛む心臓を、今は見ないフリをして。
六歳も下の弟に、そんな弱さ見せられるわけが無いから。
エリーは違うと、頑なに言い張ってみせる。
「うん。私には、恋なんていらない。自分の腕でのし上がって生きていくのよっ。そう決めたの」
「そういうの……現実逃避っていうんンっ!?」
これ以上に弟の余計な突っ込みは聞きたくなくて、最近嫌がる様になったほっぺにチューで黙らせてやった。