1プロローグ
「おおーい! エリー! エリーー!」
下の階から、やけに陽気な調子の父の声が聞こえる。
「エリーちゃぁーん!!」
ついで、良く知ってるお隣のおじさんの声も聞こえた。
……王都東部の商店通りにある、何の変哲もない小さな食堂。
一階が店舗、二階と三階が住宅という造りの木造住宅。
エリーの曽祖父の代からあるらしいこの古い建物は、男たちの声の響きにあきらかに揺れていた。
「ええええりいぃぃぃ!!」
「えーりーいーちゃーあーん!!」
「――うるっ……さぁい……」
ひたすら名前を連呼されている若干五歳の少女エリーは、唇を突き出してシーツから顔を出す。
ふわふわな桃色の髪は、寝癖であちこちに跳ねていたし、半分以上降りた瞼からのぞく新緑色の瞳の焦点は合ってない。
「んんー……」
ぼやけた視界に映った窓の外に昇る月は、頂上近く。
完全なる真夜中だ。
子供であるエリーは当然もう夢の中にいるべきなのに、止む気配のまったくない父らの叫び声に、起きないわけにはいかなかった。
母親の「やめなさい! エリーはもう寝ています!」と言う尖った声も一緒に聞こえたけど、きっと彼らはエリーが顔を見せに行くまで騒ぎ続けるだろうから。
父とお隣のおじさんが飲んだくれて酔っぱらって帰って来て夜中に騒ぐのは、月に一度か二度はあること。
エリーも慣れたものだった。
「んんー……。はいはい。はいはいはい……。ほんとーに、男ってどうしようもないのねぇ」
母の口癖を真似てみながらベッドの上から降り、花柄のスリッパに足を通す。
「んーんーんぅ……」
エリーは目元を手の甲でこすりながら、ふらりふらりと頼りない足つきで歩く。
部屋から出ると、さらにはっきりと聞こえるようになった繰り返し「エリー!」「エリちゃーん!」と繰り返す父たちの居る下の階へ行くため、手すりに捕まってゆっくと降りて行った。
一階は丸ごとが食堂になっている。
いくつもの机が置かれ、椅子もたくさんある。
そこに立つ父とお隣のおじさんは陽気に笑い、傍で鬼のような顔をした母が諌めていた。
「お父さん、おじさん、おかえりなさぁい……」
「おぉエリー! 可愛い俺の娘! 元気だったかぁ―!」
すかさず父が大股で近づいてきて、エリーを抱き上げ頬をこすり付けた。
筋肉質な父はもみあげから連なる濃いひげを生やしていて、すり寄せられるとエリ―の子どもながらのふっくらとした頬をちくちくと刺激した。
「おひげいたいよぉ。チクチクいやぁ」
うなりながら首を振ったリリーの身体がふいに浮いたかと思えば、次にお隣のおじさんに抱き上げられていた。
おじさんはひょろりと長くてやせ形。
人よりも白い肌が、今は飲酒の後で真っ赤に染まっている。
「エリーちゃあん! 大ニュースだよぉぉ!!」
「おじちゃん、おさけくさぁい」
赤い顔をしたおじさんが嬉しそうに言うけれど、鼻にかかる酒のにおいから逃げることの方が先決だ。
エリーはばたばたと足を動かして身をよじり、すぐ目の前の母へと手を伸ばして助けを求めた。
「もー!あんたたちは! 小さい子供起こすなって、何度言ったら…ってあぁもう全然耳に入ってないね! ほんと馬鹿! 今度こそ禁酒してもらうよ!」
「きんしゅー」
どうにか母の腕の中に納まったエリーは、やわらかい胸に顔をうずめ、また大きなあくびをする。
母の言葉通り、酔っ払いたちに言葉は通じない。
父と、父の親友であるお隣のおじさんは赤ら顔で大笑いし続けるのみだ。
「エリー! 喜べ! お前の嫁ぎ先が決まったぞ!」
「とつぎさき?」
母の胸から顔をはずし、首をかたむければ、父の隣にいるおじさんがとても嬉しそうに何度も頷き口を開く。
「そう! うちの息子のジョナサンとね、エリーちゃんを婚約させようと思うんだ!」
「そうすればエリーは嫁いでもお隣さんだから離れて行かないだろー? なんという名案! すばらしい!」
「うちのジョナサンはのんびり屋だからなぁ。しっかり者のエリーちゃんが嫁に来てくれれば安心だよ!」
「はっはっはっはっは!」
「うわっはっはっはっは!」
「……あんたたち、何を言ってんのよ」
「んんー? じょなさんと、こん、やく……?」
呆れた顔で溜息を吐く母と、大笑いしてハイタッチを交わし踊りだした父たちを交互に見比べながら、『婚約』という単語をまだ理解出来ないエリーは、また大きなあくびをする。
そうして騒がしい声を聞きながら、もう一度母の柔らかな胸に顔をうずめ、うとうとと眠り始めるのだった。
――――父親たちが酔っぱらった勢いで決まり、そのまま特に不満も無かったので変わることなく続いた、お隣の息子さんとの婚約関係。
彼ジョナサンとエリーは生まれてからずっと、ほとんど兄妹のように一緒に育った。
いつだって当たり前に隣にいる人だったから、気が付けばお隣に嫁ぐことに、何の疑問ももたないようになっていた。
口には出さなかったけれど、優しくおっとりとした性格に癒されてもいた。
成長するにつれ、たくましくなる腕や、伸びた背に少しだけ……ほんの少しだけ、ときめきもしていた。
――――でも。
婚約が決まってから、十年後のある日。
お隣の息子兼、幼馴染兼、婚約者の彼は、とてもとても申し訳なさそうな顔で、今にも泣きだしそうな震えた声で言うのだ。
「ごめん。好きな人が出来た。婚約を解消してほしいんだ」――――と。