(2)
店名の白文字の下には、金色の鎖で白い札がかけられていた。札には黒い字で『準備中』と書かれてはいるが、そのまま入ってくれと雇い主からの伝言を受けている。
理人は真鍮製のノックを二度叩いてから扉を押し開いた。扉の内側に付けられていた呼び鈴が、静かな空間にカランと響く。
「失礼するよ」
声をかけつつ薄暗い室内に一歩踏み入れれば、まずは香ばしく豊かな珈琲の香りが鼻をくすぐった。
外の陽の明るさに慣れた目では、最初の内はぼんやりとした輪郭しか見えなかったが、徐々に室内が明らかになってくる。
外観と同様、内部もまた洋風であった。
黒く艶の消された板張りの床に、白い漆喰塗りの壁。白い天井には、焦げ茶色の太い格縁が格子模様を浮かび上がらせる。
昏い橙色のランプがぽつぽつと灯された店内は、縦に細長い。焦茶色の縦長のカウンターに、二人掛けの丸テーブルが二つ。濃緑色のクッションの付いた木の椅子が、それぞれに配されている。
また、店内の一角には理人の背丈ほどの本棚があり、中にはびっしりと本が詰まっていた。ほとんどが洋書であり、英語、ドイツ語、フランス語と多岐に渡った言語が背表紙を飾っている。
ことり、と物音がする方を見やれば、カウンター内に痩身の男が立っていた。
白い洋シャツに黒いベスト、蝶ネクタイという給仕の恰好をした男は、五十代の中ほどに見えた。白髪交じりの灰色の髪を綺麗に後ろに撫でつけ、細いセルロイド縁の丸眼鏡をかけた彼は、上品で知的な雰囲気を纏わせる。
男は、カウンターに並べられたガラス風船型のサイフォンの一つに向かっていた。
サイフォンの真下ではアルコールランプの火が揺れ、丸いフラスコの上部に取り付けられたロート内に、沸いた湯がゆっくりと上がっていく。ロートの中の珈琲豆と湯を、男がヘラで手早く撹拌すれば、辺りに漂う珈琲の香りがいっそう強くなった。
湯が上がりきって数十秒、アルコールランプの火が消されて、抽出された珈琲が下のフラスコへと落ちていく。
艶を含んだ褐色の液体が落ちる様を眺めていた男は、ようやく理人の方に静かな眼差しを向けてきた。
「お待たせして申し訳ありません」
準備中にも関わらず入ってきた、異人の容貌を持つ理人に特に驚くこともなく、会釈してくる。
「店主から伺っております。あちらへどうぞ」
「どうもありがとう」
手で示されたのは店の奥だ。壁の一部に蘇芳色のカーテンが下がっている。
男に会釈して奥へと向かおうとした理人であったが、途中で足を止めた。
「……ああ、そうだ、名乗りもせずにすみません。僕は千崎といいます。あなたのお名前を伺っても?」
「私は三宅と申します。こちらでは調理や給仕をしております」
もっとも従業員は一人しかおりませんが、と三宅と名乗った男は穏やかに微笑む。愛想の良い彼に、理人はついでというように問いかけてみた。
「そうですか。……そういえば、店主のお名前はご存知でしょうか?僕はまだ伺っていないもので」
「それでしたら、先日より『小野カホル』と呼ぶように聞いております。ですので『カホルさん』と、私は呼んでおりますが」
「……」
どうやら先手を打たれていたようだ。
理人の思惑に気づいているのかいないのか、三宅は微笑みを崩すことなく、再び珈琲へと向かってしまう。
理人は内心で肩を竦めた後、カーテンの方へと向かった。
厚い天鵞絨のカーテンを手で横に寄せれば、地下へと続く階段と広い空間がある。階段を五段降り、小さな踊り場で右に曲がって二段降りれば、そこには六畳程の部屋があった。
半地下の空間だが天井が高いため、広く感じる。高い天井につけられたシャンデリアの灯り、それに窓からの陽光もあって、地下にあるのに薄暗い店内よりも明るく感じるくらいだ。床には、亜麻色の生地に赤や紺のオリエンタルな花柄が織り込まれた絨毯が敷かれていた。
この部屋にもまた本棚が配されており、びっしりと本が詰まっている。こちらはカフェーと異なり、洋書以外にも日本語の和書が並んでいた。巷で流行りの文芸誌もあれば、医学書や歴史書といった専門書も揃っている。
部屋の中央には丸いテーブルとソファーのセットがあって、将棋盤や西洋式ボードゲームが置かれていた。端の方には長方形のキャビネットがあり、万年筆やインク壺、アルファベットや数字が書きなぐられた半紙が隅に寄せられている。
喫茶店の奥にある秘密の書斎、というところだろうか。
半地下の床に降り立った理人は部屋の中を見回し、そして窓とは反対側の奥のソファーの一つに座る小柄な人影に気づく。
「おっと……」
足を止めて、小さく吹き出してしまったのは、出会ったときと同じような状況だったからだ。
一人掛けのソファーに深く寄り掛かり、本を抱えて目を閉じているのは、理人の雇い主である。どうやら眠っているようで、小さな寝息が耳に届いた。
よくよく、眠るのが好きな子供のようだ。
やはり“ルンペルシュティルツヒェン”ではなく“いばら姫”と称した方がいいのだろうか。
それはともかく、どう起こそうか。考える前に、上方のカーテンが動いた。同時に、珈琲の香りが降りてくる。
すると、眠っていた雇い主――小野カホルが、前触れもなく目を開いた。
まさか狸寝入り……というわけでもなさそうだ。ぼんやりと視点の定まらぬ寝起きの目は、数度の瞬きで覚醒する。
「……ああ、千崎さん。来ていらっしゃったんですね」
理人の姿を見止めると、カホルは一つ息を吐いて、ソファーの背から身を起こした。
その傍らに、銀の盆が差し出される。盆を持つ手の主は、階段を降りてきた三宅であった。先ほど淹れていた珈琲が入っているのだろう、香りと湯気を漂わせる白い陶器のカップが乗っていた。
「カホルさん、どうぞ」
「ありがとう」
カホルは盆の上のカップを取ると、黒い水面の上で一度香りを嗅ぎ、そして小さな口に含む。
珈琲の味を確かめるカホルに、三宅が尋ねる。
「今日の豆は少し深煎りのようでしたので、いつもよりも粗い挽きにしました。どうでしょうか?」
「うん……香りは大丈夫です。味の方は、少しだけ酸味が強いです」
「かしこまりました。では、もう少し細かく挽くようにいたしましょう。もう一度淹れてお持ちしましょうか?」
「そうですね。お願いします」
カホルが言えば、三宅は彼に向かって一礼し、空になった盆を脇に抱えて去っていく。
一連の流れを見ていた理人に、カホルの声が掛かった。
「千崎さん、申し訳ありません。お呼びしたのはこちらなのに、寝てしまって」
「いや、気にしないでくれ……気にしないで下さい、と言った方がいいのかな?」
理人が口調を改めたのは、三宅がカホルに敬語を使っていたからだ。
この少年――カホルが喫茶店の店主だとは聞いていたが、理人は内心では(失礼なことではあるが)、単なるお飾りの店主だと思っていた。
子供に店主が務まるわけがないと思っていたのだが、先ほどテーブルの上で見た半紙にちらりと見えた殴り書きのアルファベットは、おそらく珈琲豆の種類や取引先を示している。散らばった数字の中には計算式も交じり、価格や売り上げを書いたものであるのだろう。
さらには、店の珈琲の味の確認を、三宅が完全にカホルに任せている様子から、子供であろうとちゃんと店主としての役割を果たしているのだと見て取れた。
そうなれば、さすがに雇われる身である理人が、馴れ馴れしい口調で話しかける訳にもいくまい。
そう思って尋ねたのだが、カホルは首を横に振った。
「敬語は使わなくて結構ですよ。あなたの方が年上ですし」
「だが、三宅さんは敬語を使っているようだけど」
「彼は以前からそうですから、お気になさらずに。あなたは私に対する口調を変える必要はありませんよ。その方が“仕事”には向いています」
「……どういうことだい?喫茶店の仕事では、君が店主だろう?」
首を傾げる理人に、カホルは唇に柔らかな弧を描く。
「給仕の仕事もしてもらいますが、あなたには別の仕事もありますから」
「別の仕事とは?」
「それは、道中に追い追い説明しますよ。……もうすぐ三宅が珈琲を持ってきますので、今は、我が店の自慢の珈琲と洋菓子を味わっていただきましょう」
そう言って、カホルはキャビネットの上にある四角い金属の缶を取ってきて、大きなバタークッキーを差し出してきたのだった。