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帝都メルヒェン探偵録  作者: 黒崎リク
番外編
77/77

珈琲豆の上のお姫様 【書下ろしおまけ付き】


帝都メルヒェン探偵録の特設サイトに載せていた短編を、こちらでもアップします。

後書きに、その後のおまけ付きです。




 神田區は神保町。

 市電の停車場から南に下った書店街の一角に、その店はある。

 銅板葺きやタイル仕上げの洋風意匠の書店が並ぶ中、ひときわ目を引くのは、石造りの三階建てのビルディングだ。白灰色の石壁に濃緑色の鎧戸が映える、モダンな洋風建築である。

 その一階部分、右から二番目。濃緑色の扉の上部にはめ込まれた窓硝子には、白い文字でこう書かれていた。


 『Café Grimm』――カフェー・グリム。


 『昭和の女男爵バロネス』と称される女性実業家・乙木文子が手掛ける店の一つだ。

 流行はやりの女給こそいないが、洋風の店内には落ち着いた意匠の調度品が置かれ、静かで居心地が良いと評判だ。

 もっとも、多くの客の目当ては、店内に置かれた本棚に並ぶ豊富な洋書であろう。年配の給仕が淹れる絶品の珈琲をお供に、読書に耽るのが常連客の楽しみだ。


 そんなカフェー・グリムに、近頃、新しい給仕が入った。

 六尺を超える高い背に、彫りの深い端正な顔と白い肌、栗色の波打つ髪と緑がかった淡褐色の目を持つ、若い青年だ。

 一目で西洋人の血を引くとわかる彼は、入っても間もないというのに、異国情緒溢れるカフェーにしっくりと馴染んでいた。

 洗練された物腰で接客し、穏やかな響きの良い声で日本語はもちろん、英語、ドイツ語を巧みに操る。どんな客にも機知に富んだ会話で朗らかに応対して、年配の給仕とも息の合った仕事ぶりだ。


 乙木夫人に誘われて、店で働くようになったという彼の素性は知れない。

 乙木夫人が仕事先の欧州から連れてきた若い愛人か、はたまた、育ちの良さを見ると、どこぞの欧州貴族のご落胤を預かっているのか――。

 もっとも、そんな野暮な質問をする者は、この風雅な店にはいない。


 珈琲の芳醇な香り、豊富な洋書。

 そして、西洋人の青年。


 まるで本当に異国のカフェーに来たようだと、店を訪れる客達の間で評判になっているという――。




***




 午前十時。

 カフェー・グリムの開店準備において、千崎理人の主な仕事は店の掃除だ。

 昨晩の閉店後に軽く掃除はしてあるが、埃というものはすぐに溜まる。本棚や壁の絵の埃を払い、床を掃く。テーブルの上に上げていた椅子を降ろして、固く絞った布巾でテーブルを丁寧に拭きあげていく。

 艶を帯びた焦げ茶色のカウンターの方も、同様に拭いていた時だ。

 ふと、理人の指先に何か当たった。カウンターの隅に何かが転がる。小さく丸い――珈琲豆が一粒、そこにあった。

 昨晩からあったのだろうか。気づかなかった。

 摘まみ上げて見ていると、カウンターの奥にある控室から、五十代ほどの痩身の男が出てくる。

 セルロイド縁の丸眼鏡をかけ、灰色の髪を撫でつけた老紳士といった風情の彼は、三宅という。カフェー・グリムの店員であり、理人の先輩だ。

 三宅は、珈琲をいれるサイフォンのフィルターを入れた容器を手にしていた。彼の主な仕事は、珈琲を淹れることである。

 ちなみに、理人は珈琲に関することはさせてもらえない。まあ、素人には任せられないのだろう。ましてや、理人はある『賭け』により、三か月という限定された期間で雇われているのだから。

 三宅に視線をやると、彼はすぐに気づく。


「理人君、どうかしましたか?」

「いえ、何でもありません」


 首を横に振って、理人はカウンターを拭く作業を再開した。

 手の中に隠した珈琲豆を、給仕服のポケットにこっそりとしまいながら――。





「三宅さん、書斎の方を掃除してきます」

 そう言って、理人は箒と布巾を手にして、蘇芳色のカーテンが掛かった店の奥へと向かった。

 天鵞絨ビロードのカーテンを片手で寄せて上げると、地下へと降りる階段がある。

 天井の高い広々とした半地下の空間は、窓からの光もあって明るい。緑色の絨毯の敷かれた室内の四方には本棚が配され、まさに『書斎』だ。

 中央には丸いテーブルとソファーのセットがあり、チェス盤や将棋盤が置かれている。壁際にある書斎机には、万年筆やインク壺、アルファベットと数字が羅列する紙の束が載っていた。

 今日はまだ、書斎の主は来ていないようである。

 理人は部屋の隅にある一人掛け用のソファーに近づき、座面に置かれていたクッションを持ち上げる。そうして、ポケットから珈琲豆を取り出すと、ソファーの座面に置いて、クッションを元の位置に戻した。

 軽く手を払って、「よし」とほくそ笑む。

 すると、カチャリと小さな音がした。理人は急いでソファーから離れ、階段の傍らに置いていた箒を手に取る。

 素知らぬ顔で床を掃いていれば、本棚の一部がまるで扉のように開いた。本棚に作られた隠し扉から現れたのは、一人の少年だった。

 さらりとした黒髪に、日に焼けたことなどなさそうな白い肌。小さな卵型の顔には小ぶりながらも形の良い鼻と薄紅色の唇が収まっている。

 造作の整った少年は、鼠色の上着に膝丈下のズボンと揃いのベストを纏い、襟には露草色のリボンタイを結んでいた。十二、三歳くらいの、いかにも両家の子息といった態である。

 すみれ色の風呂敷包みを手にした彼は、小鹿のような黒い目を瞬かせて挨拶する。


「おはようございます、千崎さん」

「やあ、おはよう……カホル君」


 理人は彼の方を向き、微笑んで挨拶を返した。

 少年の名は、『小野カホル』。このカフェー・グリムの雇われ店主である。


 ――もっとも、これは仮の名前だ。

 少年の本当の名も、その素性も、理人は知らない。

 彼の名を当てることこそ、理人が少年と交わした『賭け』なのだから。


 小野カホルと出会ったのは、一か月ほど前のことだ。

 帝大卒業後、職にも就かずにその日暮らしをしていた理人は、とうとう居候先から追い出されそうになっていた。仕方なく、乙木夫人に相談しようとサロンを訪れた時に、彼と出会ったのだ。

 カホルは、職と住居を求める理人に、ある『賭け』を持ち掛けてきた。


『願いを叶える代わりに、私の名前を当ててみて下さい』


 そうして、三か月間、カフェーの給仕として理人を住み込みで雇うと約束し、さらに三か月以内に名前を当てれば、その住み込みの部屋を無償でくれるという。モダンで豪華な乙木ビルの一室を、である。

 条件の良すぎる話だ。もっとも、この条件には裏があった。

 カフェーの店主の仕事の傍ら、カホルは乙木夫人に持ち込まれた相談事を解決する、いわば『探偵』の仕事を受け持っていた。

 しかしながら、優れた推理力で事件は解決できても、見た目は子供だ。相手が不安や不信を抱かぬよう、カホルは理人に『探偵』として表に立つことを頼んできた。つまり、彼の代理である。

 幾つかの事件を通し、理人は間近で、カホルの博識ぶりや優れた観察力を目の当たりにすることになった。

 そこで――


 理人は、先ほど、ある悪戯いたずらを仕掛けてみた。


 ……さて、彼は気づくだろうか。


 理人は床を掃きながら、横目でカホルを観察する。風呂敷包みをテーブルに置いた後、一人掛けのソファーに歩み寄ったカホルは、一歩手前で立ち止まった。


「……このソファーは、座り心地が悪そうですね。珈琲豆の痣ができてしまうかもしれませんよ――千崎さん」


 振り向いたカホルが、じっと理人を見てきた。

 何も知らぬ人にとっては、意味不明な台詞である。

 だが、悪戯を仕掛けた本人としては、珈琲豆を仕込んだことも、その意図もすべて見破られて、唖然とする。


「……君はお姫様よりも繊細だったのかい?」

「さあ、どうでしょう。むしろ『エンドウ豆』であったのなら、座ってもわからなかったかもしれませんよ」


 言いながらクッションを持ち上げて、珈琲豆を摘まみ上げたカホルは、にこりと微笑んだ。



 ――理人が仕掛けた悪戯は、ある童話を模したものだった。

 デンマークの童話作家、アンデルセンが書いた『エンドウ豆の上に寝たお姫様』の話である。

 童話の中では、お姫様が本物のお姫様かどうかを確かめるため、ベッドを用意する際、たくさん重ねた布団の下にエンドウ豆を仕込む場面がある。繊細なお姫様であれば、どれだけ柔らかい布団を重ねても、布団の下のエンドウ豆が身体に堪えるからだ。


 『何か固いものがあって、身体中に痣ができて眠れなかった』


 そう答えたお姫様を、王子様はお妃として迎える――という話である。

 


 童話好きのカホルなら、仕掛けた悪戯が何の童話を模しているか、わかるだろうとは思っていた。

 だが、ソファーに座る前からすべて見破られてしまうなんて。お姫様のように繊細……どころではない。

 ――何故わかったのだろう。

 理人が眉根を寄せていれば、カホルはクッションをソファーに戻しながら、まるで見透かしたかのように答える。


「私には、物を元の場所に戻すときに、ある決まりがありまして」


 そう言って、クッションをソファーの中央から少しずれた位置に置いた。


「例えばこのクッションは、中央から少し左側に寄せて置く。インク壺はラベルを正面ではなく右側になるように置く、チェス盤に駒を一つ置いておく……というように」


 だから、クッションの位置がずれていることがわかりました、とカホルは事も無げに言う。


「しかも、近づいたら珈琲の香りがしました。珈琲の香りは強くて特徴がありますから、わかりやすいのです。ところが、クッションやソファーに、珈琲で濡れた様子はありません。今の時間だとまだ、珈琲も淹れていないでしょうしね」


 たしかに、今頃は三宅がサイフォンの湯通しを終えて、珈琲豆を挽き始めていることだろう。


「珈琲が零れたわけではありません。では、珈琲の香りがする物を誰かが零した、あるいは置いたと考えられます。もしも挽いた粉であれば、痕跡もなく片付けることは大変でしょうから、豆のままではないかと。そして珈琲豆をソファーに忍ばせるような悪戯を、三宅がするはずはありません。……そうなると、犯人はあなたしかいません」

「……」

「横を通った時に、あなたから珈琲の香りがした時点でおかしいとは思いました。珈琲を淹れない、豆を挽くことも無いあなたが、開店前から珈琲の香りをさせているのですから。珈琲を持ってきている訳でもなく、掃除をしているだけなのに」


 理人が持つ箒を示して、さらにカホルは言葉を続ける。


「それに、本棚の埃を掃う前に床を掃くのは、効率が悪いですよ。あなたらしくもない。何か考え事をしていたのですか? 悪戯が成功するかどうか、とか」


 ……図星である。

 押し黙る理人に、カホルはとどめを刺してくる


「もっとも、最初に気づくきっかけになったのは……あなたが、悪戯を企てる子供のような目をして、私を見ていたからですよ。ねえ、千崎さん」

「わかった、わかったよ。降参だ」


 理人は両手を上げてみせた。

 ――本当に、聡い子だ。

 ほんの悪戯心で、カホルの観察力を試そうとしただけなのに、ここまでやり込められるなんて予想外だった。理人の表情までしっかりと観察されていたようだ。

 子供カホルに子供扱いされてしまって、参ったな、と片手で首の後ろを掻く。


 一粒のエンドウ豆が、お姫様を証明したように。

 一粒の珈琲豆が、カホルを探偵――優れた観察力と推理力の持ち主だということを証明してみせた。


「悪戯をして悪かったよ。……しかし、よく珈琲豆の香りがわかったね」


 たった一粒だ。そこまで強い香りがあるわけではないだろう。珈琲豆を持った指先を鼻に近づけて気づく程度の香りだ。

 カホルは悪戯っぽく答える。


「おや、私はお姫様よりも『繊細』なんですよ」

「……」


 本当なのか、冗談なのか。

 判断しかねる理人に、カホルは薄く微笑む。


「もっとも、エンドウ豆よりは珈琲豆の方が、私の眠りを妨げることができますけれどね。珈琲は、眠気覚ましにぴったりですから」


 そう言って、理人の手に珈琲豆を乗せた。


「さて……そんなことよりもこれを見て下さい、千崎さん」


 カホルはテーブルに向かい、置いていた風呂敷包みを解き始めた。中には金属の缶があり、カホルがうきうきとした様子で蓋を開く。

 入っていたのは、卵色のカステラに黒いものが挟まった、三角形のサンドウィッチのような形の菓子だった。


「『シベリア』です。文子さんが経営するミルクホウルで出しているものを頂いたので、持ってきました」


 シベリアは、カステラの間に羊羹を挟み込んだ菓子だ。

 甘いカステラに甘い羊羹。甘いものが好きなカホルが好みそうな菓子だ。


「京橋區の洋菓子屋のもので、カステラがしっとりとしていて、餡子が柔らかくてなめらかで、とても美味しいんですよ。よかったら、千崎さんもいかがです?」

「……いや、僕はいいよ」

「そうですか、残念です」


 残念と言いながらも、カホルの表情にはそんな様子は欠片もない。理人に分けずに、独り占めできるからだろう。


「シベリアには珈琲が合います。ということで千崎さん、早く珈琲をお願いします。ああ、お皿とフォークも一緒に」

「……かしこまりました」


 理人は恭しく一礼してみせて、踵を返す。

 階段を上がる途中に見ると、蓋を閉めた金属の缶を大切そうに抱きかかえて、一人掛けのソファーに収まるカホルの姿があった。うっとりとした表情で目を閉じる姿は、幸せな夢の中、すやすやと眠っているかのようだ。

 理人の悪戯をすぐに見破った挙句、気にも留めない余裕の態度。

 渾身……とまではいかないが、せっかくの悪戯が、菓子シベリアに負けてしまったようにも思えて、なんだか妙に悔しい。


「……」


 ――とびっきり濃い、飲めばしっかり目が覚める珈琲を、三宅に入れてもらおう。

 いや、いつか、自分でも珈琲を淹れられるようになってやる。


 そう決意しながら、理人は階段を上がったのだった。





 三宅が珈琲を淹れた魔法瓶を手に書斎に入ると、いつもよりも機嫌の良いカホルがソファに座って膝を抱えていた。右手の指に持った小さなものを、天井のシャンデリアの明かりにかざしている。

 足は降ろしましょうね、と注意すると、カホルはいつになく素直に姿勢を正す。珍しい。


「どうかしましたか、カホルさん。ご機嫌ですね」

「そうかな」

「ええ。良いことでもありましたか」


 尋ねると、カホルは「うん、まあ」とはにかんで頷く。


「千崎さんが、なかなかに面白い悪戯を仕掛けてくれて」

「おや、そちらですか。てっきり文子様から頂いたシベリアのことかと思っていました」

「もちろんシベリアも良かったけどね」


 ふふ、と無防備に笑う顔はいつもの澄ました顔よりもずっと幼く見える。

 少女めいた風貌がより可愛らしく見える笑顔だ。こんな顔を見られるのは、長年仕えている三宅か、あるいは淑乃や伸樹くらいだ。

 カホルは指先に持ったものを丁寧にハンカチに包みながら言う。


「楽しいな、って思って」

「……それは、よかったです」


 自分が仕える主の数年前の姿を知っているだけに、三宅は感慨深く思う。

 あの頃のカホルは、見ている方が辛くなるほどの状態だった。それだけに、今こうして元気な姿を見られることに安堵して、こちらまで嬉しくなる。


 ――これも、千崎理人のおかげだろうか。


 事前にいろいろ仕入れた情報では、無職で居候、女性に貢がせる男……と、正直カホルと一緒にいさせるには非常に心配な青年だった。

 しかし実際に話して一緒に働くと、意外にも真面目で素直な青年であった。

 さらに仕事に関してはかなり有能、しかも負けず嫌いな所もあって、こちらも仕事を教えるのが楽しいくらいだ。

 今日なんて、やたら張り切って、時間が空いているときには三宅が珈琲を淹れるところをずっと観察していた。この様子では、いずれ珈琲の淹れ方も教えなくてはならなそうだ。

 カホルから雇う期間は三か月だと聞いてはいるが……。


 幼い頬を染めて嬉しそうなカホルの姿を三宅を見つめる。


 ……やはり、理人には近いうちに珈琲の淹れ方を教えよう。

 きっと三か月後も、彼はここに居るのだろうと、そんな予感がする。

 もっとも、自分の願望に過ぎないかもしれないが。


 三宅はいつものように穏やかに微笑み、魔法瓶をテーブルに置いた。



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