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帝都メルヒェン探偵録  作者: 黒崎リク
番外編
76/77

毒りんごと硝子の棺



雪子姫とハーメルンの間での、カホルと理人の日常の一場面。




「……」


 珍しいものを見た。

 たぶん、彼と出会ってから、初めて見るものだ。

 膝に乗せた洋書をめくる手を止めて、思わずじっと見つめてしまう。


 カホルの見下ろす視線の先にあるのは、千崎理人の寝顔だった。

 今夜は月が綺麗だからと、乙木ビルの屋上庭園にふらりと現れた彼は、四阿に居たカホルの隣でなぜか眠っている。四阿の床に座ってベンチのクッションに頭を乗せ、小さく寝息を立てていた。


 ……そういえば、最近のカフェー・グリムは大いに繁盛していた。珍しく満席状態が続いていると三宅から聞いた。

 おまけに、先日はカフェーの裏の仕事である探偵家業で、店休日に理人と共に猫探しをしたものだから、相当疲れているはずだ。わざわざ屋上に来ずに、さっさと部屋で就寝した方がよかったろうに。


 呆れつつ起こそうとして、その手を止める。

 四阿のランプの明かりを反射するのは、栗色の髪。

 波打つ癖のある髪の下にあるのは、白皙の顔。

 通った鼻筋に、薄い唇。閉じた瞼の睫毛は濃く長く、頬に影を落としている。


 ……ああ、この人、睫毛も栗色をしていたのか。


 髪の色より少し濃い茶色。こんなところにまで、理人が持つ異国の血が現れていた。

 ドイツ人の母を持つという彼は、目を閉じていても、ひどく綺麗な顔をしている。

 彫りが深く、それぞれの部位はまるで女性のように繊細に整っているのに、すべてが顔に収まると不思議と男らしさが出てくるのは、骨格のせいか。背は高く、肩幅は広いし、細いように見える手足も意外とがっしりしている。


 綺麗だな、格好良いな、とぼんやりと思う。

 すぐ隣にいるけれど、理人の眠る姿はまるでスクリーンに映る、活動写真の一場面のように見えた。

 家族でもない男性の寝顔を見るなんて、と淑乃から叱りを受けそうだが、カホルは彼から目を離せない。

 何しろ、七年前に一目惚れ……とまではいかない(と思う)が、憧れの『王子様』に出会えたと浮かれたのは確かで。

 あの頃、憧憬の遠い存在であった彼と、今ではカフェーの店主と店員、そして探偵と助手という関係になったことが、未だに信じられない。再会を果たし(相手は気づいていないが)、こちらとしては偶に平静でいられないときもある。

 こんなに近くで彼の寝顔を見ることができるなんて、どんな奇跡だろうか。

 できればこの時間が長く続いてほしいが、そうはいくまい。カホルが持ち掛けた名前当ての期限まで、あと一か月と少ししかない。

 理人がカホルの名前を当てて正体を知るのと、名前を当てられず知ることもなく去っていくのと。一体どちらが良いのだろう。

 自分が賭けを持ちかけたものの、今、カホルは彼の答えを知るのを少し恐れていた。


 ……本当に、このまま時間が止まってくれれば、いっそ楽なのに。


 雪子姫やいばら姫のように。

 その美しい美貌のまま、長い長い間、眠り続けるように。


 そうだ。魔法は無理だから、毒のあるりんごを食べさせて。

 仮死状態にして、硝子の棺に納めて。

 そうして、いつまでも彼の美しい顔を側で眺めて――


「……」


 カホルは己の下らぬ妄想を中断して、がくりと項垂れた。

 何を考えているのだ、自分は。童話の読み過ぎだ。

 馬鹿な妄想はやめて読書に戻ろうとしたが、頭の片隅で思考がちらついて集中できない。


 ――人を仮死状態にできる毒薬はあるのか、仮死状態にできなくとも類似の状態になる薬はあるかもしれない。薬学の本がカフェーの書斎にある。そもそも仮死とは? 冬眠にも似た状態か。哺乳類でも冬眠する動物はいるから、人間でも可能か。生き返ることを前提としたら、その状態はどのくらいの期間保つのか。生命活動はどう維持する? 維持するための空間として、硝子の棺があるのだろうか。腐敗しないようにするにはどうすればいい? いっそ死体をホルマリンやグリセリンなどの防腐剤に漬けて……剥製や木乃伊という手もある。ああでも、人体をそのままの姿で保存するとしたら屍蝋が綺麗だろうか。剥製に関する本はあったはず……。


 考え出すと止まらなくなって、うずうずと気になってしまう。

 カホルはとうとう洋書を閉じて、中央のテーブルに置いた。書斎から本を取って来よう。ランプを手に取り、立ち上がった時だった。


「……ん……」


 理人が小さく呻いて身動ぎする。

 長い睫毛が震えて、ゆっくりと瞼が上がる。

 現れたのは、緑がかった淡褐色の目。クッションから頭を持ち上げ、ぱちぱちと瞬きするたびに光を反射して、色が不思議に変わる。

 目覚めた理人はカホルを見上げると、ふっと表情を緩めた。白い頬にうっすらと朱色が走り、照れたように目を細めて柔らかな笑顔を見せる。


「すまない、眠ってしまっていたようだね」

「……」

「カホル君、どこかに行くのかい?」

「……」

「カホル君?」


 首を傾げ、クッションにこてりと頭をつける理人に、固まっていたカホルははっと我に返り答える。


「いえ、その、ちょっと、毒薬と剥製作りの本を取りに行こうとしていただけです」

「どく……剥製?」

「ホルマリン漬けや屍蝋や木乃伊でも構いません。どれが良いと思いますか。仮死状態はお好きですか」

「いや、どれも良い印象はないし、仮死状態って……いったい何をしようとしているんだ、君は」


 理人は呆れた顔で見上げてくる。

 カホルは「すみません、何でもありません」と、すとんとベンチに腰を下ろす。

 ……焦りのあまり、考えていたことをそのまま口走ってしまった。馬鹿か、自分は。

 内心で大いに狼狽え、しかし表情はできるだけ変えないままで、ランプをテーブルに置く。洋書を膝の上に乗せてページをめくるが、ドイツ語の羅列は当然頭の中に入ってこない。

 カホルの動揺を感じ取っているのかいないのか、理人はクッションに頭をつけたまま、くすくすと笑った。


「頼むから、犯罪は起こさないでくれたまえよ。僕の仕事も家も無くなってしまう」

「ご安心下さい。起こす気はありませんし、仮にするとしても完全犯罪を狙いますから」

「……本当にやってのけそうだから怖いな」

「それより、眠いのならそろそろ部屋に戻ってはいかがです? こんな所で寝てしまっては、風邪をひきますよ」

「うん、そうだね……」


 答えながらも、理人はクッションから頭を離す気配は無い。それどころか、またうとうとと目を閉じ始める。


「ちょっと、千崎さん」

「ごめん、もう少しだけ……」


 消え入る声と共に、深く息が吐き出される。それは静かに寝息へと変わっていって、カホルは起こそうとした手を再び止めることになった。

 目の前には、また雪子姫――もとい、眠りについた『王子様』がいる。


「……」


 カホルは溜息をつき、四阿のベンチの隅に置いていた毛布を取って、彼の身体に掛けた。そうしてベンチから降り、彼の隣の床に座って膝を抱え、横にある寝顔をじっと見る。


 ――本当に、硝子の棺に納めておきたいくらい、美しい人。

 王子様が雪子姫を連れて帰ろうとしたり、いばら姫に口づけをしたりした理由もわかる。

 でも――


 宝石のように光を反射する眼を。

 甘くやわらかな笑顔を。

 見られなくなるのは、嫌だな。


 眠ったままでは知ることのできない、彼のこと。

 知ってしまったから、寝顔だけではきっと物足りない。


 毒りんごも硝子の棺も必要ない。

 必要なのは、自分の覚悟だ。

 彼に自分のことを知ってもらいたいと願いながらも、知ってほしくもないとも思う、矛盾を抱える己の心。

 きっと彼は気づくだろうと予感はあるのに、その時の彼の反応を恐れている己の弱さ。


 膝を抱える腕にぎゅっと力を込める。

 ……まだ、もう少し、時間はある。それまでは、彼の側に居られるように。


 こんなに近いのに、どこか遠く感じる理人の寝顔を、カホルはただ静かに見つめた。



理人はカホルの寝顔をよく見るけれど、そういえばカホルは理人の寝顔を見たことないなと思って浮かんだお話です。

カホルは内心焦っているときに口数が多くなる傾向があります。頭の中でいろいろ考えているものがぽろぽろ零れてしまう癖。


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