忠義者はだれ?
注※本編のネタバレを含みます。
第六話と第七話の間の話になります。
池袋駅の西方にある長崎町に、『乙木サロン』と呼ばれる屋敷がある。
『昭和の女男爵』とも称される、帝都一有名な女性実業家・乙木文子が所有する別邸であり、芸術家の卵達が集う屋敷だ。
その乙木サロンの庭で、今宵、ある密会が行われていた。
乙木サロンの庭にある、西洋風の白い四阿の隅。ランプの明かりに照らされて、二つの影が揺らめく。
「……なに、難しいことじゃないよ。少しの間、大人しく見て見ぬふりをしてくれればいいだけだ。そうすれば、君が望むものをあげよう」
一つの影が、もう一つの影に向かって囁いた。
だが、影は頷くことはしない。沈黙が漂う中、誘惑するように、優しい声音で言葉が続けられる。
「そんなに悩まないでくれないかな。君の主を裏切ることが、そんなに怖いかい? ……大丈夫、君は知らないふりをしていれば良いだけだ。誰も君を咎めない」
「……」
「ああ、妹のことを心配しているのかな? 相変わらず、君は妹思いだね。安心するといい。君の妹にも、君と同じ待遇を約束するから――」
影は手を伸ばし、もう一つの影へと触れた。
艶やかな黒い頭を撫でる手に、もう一つの影は、とうとう目を伏せて頷いたのだった。
***
「――そんな所で、何をしているんです?」
「……」
昼下がりの乙木サロンの裏庭。
生垣と鉄柵の間を隠れながら進み、使用人が出入りする小さな門を今まさに開こうとしていたカホルは、ぎこちない動きで振り返った。
涼やかな声を掛けてきたのは、鳥打帽を被った青年――乙木サロンの庭師であり、カホルの目付け役である伸樹だ。
「もう一度聞きますけど、何をしているんです? ほら、答えて下さい、馨子お嬢さん」
腕を組んでにっこりと笑う彼の足元を、カホルは見る。
そこには、ぱたぱたと尻尾を振る――裏切り者が、いた。
シュッとした鼻筋に大きな三角の耳、凛々しい顔立ちに黒い艶やかな毛を持つのは、ジャーマンシェパードのハンスだ。
黒く澄んだ目を瞬かせ、桃色の舌を出して、呑気にこちらを見つめている。
「裏切ったなハンス……」
思わずカホルが呻くと、伸樹は心外だというように眉を顰める。
「人聞きの悪いことを言わないで下さい。ハンスは俺の忠実な部下なんですから。お嬢さんの『取引』に応じるとでも思いましたか?」
取引という言葉に、内心でぎくりとする。
――なぜ、気づかれたのだろう。
顔には出さずとも、幼い頃からの付き合いである彼には、こちらの考えていることなどお見通しのようだ。
ハンスの、艶のある黒い頭の毛を片手で梳きながら、伸樹は言う。
「ハンスやエルゼの毛並みの状態を俺が把握していないとでも? 手入れをしてくれるのはありがたいですが、お嬢さんは丁寧にやりすぎる」
伸樹に頭を撫でられるハンスは、嬉しそうに目を細めている。その大きな身体の毛並みは、つやつやと滑らかで、たしかに常よりも綺麗になっていることがわかる。
「人懐こいハンスだけじゃなく、人見知りのエルゼの毛まで綺麗になっているんですからね。さすがに気づきますよ。エルゼが触らせるのは、この屋敷じゃせいぜい、文子様と高水さんと、あなたくらいですから」
慎重で警戒心の強いエルゼは、乙木サロンに訪れる芸術家や画商には、一切近寄ろうとしない。
ちなみに高水は、乙木サロンの家令で、年配の男性だ。伸樹の上司にあたるため、主従関係を徹底的に叩き込まれているハンスもエルゼも、高水には従順な態度をとる。
もっとも、高水は二匹に優しく、たまに頭を撫でている姿を見る。しかし芸術家達が集うサロンを切り盛りする彼には、ハンス達の世話に手を掛ける時間はない。
「エルゼの手入れを俺以外にできるのは、現在、暇を持て余しているお嬢さんくらいです。すぐにあなたの仕業だとわかりました。しかしなぜ、急にそんなことをしたのか……まあ、見当は付きますね。ハンスやエルゼのご機嫌取りでしょう?」
さらさらと説明する伸樹は、カホルに反論する余地を与えない。
「ではなぜ、ハンス達の機嫌を取るのか? ……俺が、彼らに庭を見張らせているからだ。怪しい者がいたら駆けつけて吠えるように訓練していますからね」
言いながら、伸樹が近づいてくる。
そして、裏口の門の鉄柵に掛けていたカホルの手を、そっと外させた。
「……それが、例えお嬢さんであっても、ね。この裏口から、あなたが外に出ていくようなことがあってはなりませんから」
「……」
乙木サロンからの脱走を阻止されて、カホルは俯く。
昨晩、ハンスと交わした約束のため、皆が寝静まった後にハンスとエルゼの毛並みを丁寧に梳いたことが仇になってしまった。
二匹の兄妹はすっかり大人しくなって、カホルに従順になっているように見えたから、油断していた。脱走した後で毛を梳けばよかったと後悔する。
――先日の事件で犯人に監禁され、さらに肩を負傷して以来、カホルはこの乙木サロンから出してもらえていない。
それは、カホルの身を案じてのことだ。
事件の裏で糸を引いていた『先生』と呼ばれる謎の人物が、カホルの正体が『小野村馨子』であることを知っていたのだ。さらには、カホルのことを捕らえようとまでしていた。
伸樹達がカホルを外に出したくない理由は、よくわかる。
よくわかってはいるのだが――
「ハンス達を買収してまで、外に出ようとした理由は?」
「……店の様子が気になって」
「店の方は大丈夫です。淑乃からも連絡がありましたよ。だいたい、三宅さん一人でも十分回せることは、あなたもわかっているはずでは?」
「でも……」
「ああ、そうだ。千崎さんはまだ療養中です。怪我が完治するまでは、彼も店に出入り禁止になっているようですから、あなたも大人しくしていて下さい。人の見舞いに行っている場合じゃないでしょう?」
ほら、と伸樹に腕を軽く引かれると、肩に引き攣れた痛みが走る。
思わず顔を顰めたのは、痛みのせいだけじゃない。カホルが外に出ようとした理由まで、伸樹には見破られていた。
そうなると、もう反論も言い訳もできない。
そもそも、今から逃亡するのも無理であるし、無駄なことだ。
怪我をしていない方の腕を伸樹に取られて、屋敷の方へと引き返しながら、カホルは最後のあがきのように呟く。
「……伸樹の意地悪」
「意地悪で結構ですよ。俺は、あなたを守りたいだけです。……ああ、そうだ。意地悪ついでに、千崎さんをクビにして、俺を探偵代理に雇いませんか? 俺の推理力もなかなかのものでしょう」
にこにこと言う伸樹の言葉は、冗談なのか本気なのかわからない。
ただ、彼のこういうところが、意地が悪いと思う。
――『あなたを守りたいだけです』
その言葉一つで、カホルの逃亡の意欲を削いでしまう。彼の忠誠心には、カホルのわがままも時々敵わない。
「……」
忠義者にも困ったものだ、と溜息をつくカホルの足元で、もう一匹の忠義者ハンスは、慰めるかのように――あるいはまた手入れをしてくれとせがんでいるのか――、温かな身体を摺り寄せてきたのだった。




