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帝都メルヒェン探偵録  作者: 黒崎リク
エピローグ
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エピローグ


 細く開いた窓から、緑の葉の香りがする風が吹きこんでくる。少し湿った土の匂いが混じるのは、細く降る雨のせいだ。


 雨に濡れた緑に囲まれるサンルームは、私のお気に入りの場所の一つだ。

 芸術家を志す若者が度々出入りするものの、詩作や素描に耽る彼らは、たいてい寡黙である。

 時折聞こえてくる、詩のフレーズを呟く声や、紙を滑る鉛筆の音。私の中では心地よい音に当たるそれを聞きながら、微睡んだり読書に耽ったりするのが、ここに来た時の過ごし方だ。


 とはいえ、一週間以上同じ日々が続くと、少々飽きが来るものである。しかも、この屋敷の敷地から出してもらえないとなれば。

 以前なら、じっと閉じこもっていることは別に苦痛ではなく、むしろ安らぎであった。だのに今は、どことなく物足りないような、手持ち無沙汰のような、落ち着かない気分になるのだ。


「……三宅の珈琲が飲みたい」


 本を閉じ、もはや私の指定席になっている長椅子に寝転びながら呟いたときである。

 遠くから、カツカツと軽快なヒールの音が聞こえてきた。人波をかき分ける、いや、誰もが彼女のために道を開けるような、そんな堂々とした足取りの女性は、私の知る限り一人しかいない。

 菫の香りが近づく。頭のすぐ側で、カツ、と足音が止まった。


「やっぱりここにいたのね。ごきげんよう、馨子きょうこさん」


 私を見下ろすのは、紅唇に艶やかな笑みを浮かべた断髪の華やかな女性。このサロンの主であり、私の叔母である――乙木文子おとぎ ふみこだ。

 私は彼女を見上げて、寝ころんだまま棒読みの挨拶をする。


「ごきげんよう」

「あらあら、聞いてはいたけどご機嫌斜めねぇ。でも、ちゃんと起き上がって挨拶なさいな、みっともない。仮にも淑女レディなんだから」


 ぴしりと言う叔母を、私は不満げに見上げた。だが、言うことは素直に聞いていた方が賢明であると身をもって知っている。

 起き上がる私の頭を、叔母が「ぼさぼさよ」と撫でてきた。昔と変わらぬ子供のような扱いに、私は少し不貞腐れながら手を払う。


「三日ぶりですね。随分と仕事がお忙しいようで」

「あら、こちらもいろいろと大変だったのよ。あなたが怪我をしたせいで、兄さんや義姉さんからは叱られるし、慶介さんからは責められるし……引き続きカフェーの仕事ができるようにしてあげた私に、感謝の言葉はなくて?」

「……」

「それに、『先生ドクトル』の件に関しても調べてあげているのよ? あなたの素性を知っているのは一握りだし、いずれ見つかると思うから安心してちょうだいな」

「……ありがとうございます」


 渋々礼を言う私に、叔母はうふふと楽しそうに笑う。その余裕ぶりがまた腹が立つというものだ。

 私は彼女を睨み上げる。


「……文子さん、あなたの筋書きだったのですか?」

「あら、何のこと?」

「あなたがサロンにお遣いに来るよう言い出したのは一年前です。三宅や淑乃に頼めば済むような簡単なお遣いばかり、月に何度も」

「あら、だってあなた、そうでもしないと全く外に出ないじゃないの。あなたのためを思って……」

「では、なぜ遣いを頼んでおいて、あなたはいつも外出していたのですか? おかげで毎回、三時間もサロンで待つことになった」

「……」

「偶然を装って、私と千崎さんを会わせるためですか?」


 尋ねると、叔母はにっこりと笑って答えた。


「だって、あなたが言っていた『王子様』を見つけたんですもの――」




***




 大正十二年、七月末。

 小野村浩介の屋敷を訪れていた文子は、居間の洋室で寛いでいた。兄の妻、文子にとっては義姉にあたる昌子まさこと、外国土産の洋菓子をお供に歓談していたときである。

 ぱたぱたと廊下を駆ける足音がしたかと思えば、勢いよく扉が開く。

 ノックもせずに入ってきたのは、姪の馨子であった。おさげ髪に白いセーラー服姿のまま、息を切らして頬を紅潮させている。その胸には古い装丁の本が抱きかかえられていた。


「お母様!」

「まあ、馨子さん、お帰りなさい。部屋に入るときはちゃんとノックをして声を掛けなさい。文子さんにもご挨拶して」

「あ……し、失礼しました。叔母様、いらしていたのね」


 昌子におっとりと注意され、馨子は慌ててお辞儀をする。


「ただいま戻りました。ご無沙汰しております、叔母様」

「お帰りなさい。久しぶりね、馨子さん。今日も本屋に寄って来たのかしら? 慶介さんが嘆いていたわよ」


 文子に指摘され、馨子は抱えていた本を慌てて隠そうとするが、その背後に大きな人影が佇む。馨子が振り向く前に、小さな頭を大きな手がぽかりと叩いた。


「きゃっ」

「馨子、学校からはまっすぐ帰宅しろと言っているだろう。外出するなら、淑乃か伸樹を連れていけ」


 厳しく注意するのは、馨子の五つ年上の兄の慶介だ。慶介に叱られる馨子は、神妙な面持ちながらも「でも兄様」と反論する。


「一度家に帰ってから外出するのと、学校の帰りに寄るのとでは、効率が違うわ。それに、淑乃と伸樹には仕事があるから、私のために仕事を増やすのは勿体ないと思うの。私も十三になったのだし、一人で外出できるとしよ。行くのは神保町の書店街だけだもの。大きな通りだけを歩くようにしているし、十分に注意はしているわ」


 すらすらと述べる馨子に、慶介は苦い顔になる。

 おおよそ馨子の言動は、令嬢らしくない。供の者も付けずに外出し、裁縫や料理などの家政には目もくれず、難しい洋書を読み耽り、挙句に堂々と兄や父親にまで反論するのだ。

 もっとも父の浩介は、娘の振る舞いを注意することはほとんど無い。鷹揚に笑って、むしろ反論してきた馨子との議論を、英語ドイツ語を織り交ぜて楽しむくらいだ。最後には結局馨子が言い負かされて、浩介が得意な顔をしていることが多いと聞く。

 母の昌子も、馨子には礼儀作法などの躾に関しては厳しくしたそうだが、あとは浩介の教育方法を見守っている。

 おかげで、馨子を叱るのは兄の慶介の役割になっていた。可愛い妹を守るのは自分しかいないと自負しているらしく、最近特に口うるさくなったと聞く。

 しかしだな、と説教が始まる前に、文子は助け舟を出す。


「ところで馨子さん、今日は何の御本を買ってきたのかしら?」

「ああ、そう、そうなんですの、叔母様。今日、とても素敵なことがあって、早くお話ししたくて……」


 だから制服も着替えずに直接居間に来たようだ。本を抱きかかえて興奮した様子の姪を、文子は促した。


「あら、どんなこと?」

「『王子様』に会ったのです」

「……」


 馨子の発言に、文子と昌子、慶介は顔を見合わせる。

 本好きで、とくにグリム童話が大好きな子だ。近頃は語学の勉強も兼ねて原書や外国語訳のものまで読んでいるらしい。気になった箇所があれば、他の専門書まで広げて読み始めている始末である。

 ついに現実と虚構の区別がつかなくなったかと思いきや、皆の表情で考えを読み取ったのか、馨子が頬を膨らませる。


「『王子様』のような方に出会ったの! 夢や幻を見たわけじゃないわ」


 馨子がずいっと胸元の本を出す。『Kinder- und Hausmarchen』と金色に箔押しされた文字が光を反射する。


「洋書店で出会ったの。その方、背がとても高くて、六尺以上はあったわ。たぶん高等学校の生徒じゃないかしら。髪は栗色で、癖があって……そう、ミケランジェロのダビデみたいな巻毛よ。それに目の色は、緑がかった淡い茶色で、光が当たるととても綺麗だったわ。お国はどこかしら。日本語で話されていたけど、ドイツ語の発音が教師の方よりも上手だったから、ドイツの方かしら。もしかしたら混血の方かも……」


 すらすらと彼の特徴を述べていく馨子の頬は、淡く染まっている。うっとりとする馨子に、眉を顰めるのは慶介だ。


「お前、見ず知らずの男と何を――」

「私が棚から本を取れずに困っていたら、すかさず取って下さって、紳士的で……本当に、童話に出てくる王子様みたいな方だったの。とても素敵だったわ……」


 慶介の言葉など聞いていないようで、馨子はほうっと息を零す。ぎゅっと胸に本を抱きしめる馨子の姿は、まるで恋する乙女のようである。

 今まで一度も色恋に興味を示さなかった姪の珍しい姿に、文子も昌子も「あら」「まあ」と顔を見合わせる。対して慶介の眉間の皺は深くなるばかりだ。


「馨子! 外で気軽に男と話すなど、令嬢としてあるまじき――」

「こうしてはいられないわ。早く本を読んで、いばら姫の寝相の謎を調べなくては。もしあの方に会えたら、ぜひともお伝えしたいもの。それでは叔母様、どうぞゆっくりなさっていって。失礼いたします」


 来た時と同様に唐突に、しかし今度はきちんと一礼してから馨子は去っていった。



 その日以来、馨子はしばしば神保町の書店街に通うようになったそうだ。

 あの時の『王子様』が目当てだとすぐに知れて、慶介から叱られるも、書店通いは止めなかった。もっとも、再会することは叶わなかったらしいが。


 あの日……九月一日もそうだった。

 夏の休暇が終わり、学校が始まった日だ。早くに女学校の始業式が終わった馨子は、神保町に向かう途中で――震災に遭って、行方不明となった。

 神保町は大規模な火災が起こっていたし、火災は収まってもすでに五日も経っていた。もはや生存は絶望的だと言われ、小野村家が悲嘆に暮れていた最中に馨子が見つかった。

 ひどく衰弱して、生きているのが奇跡だと医者からも言われたが、確かに馨子は生きていたのだ。家族は泣いて喜び、彼女の治療に尽力した。

 しかし、震災での恐怖の体験は、馨子の身体に知らぬ間に異変を引き起こしていた。

 感覚が過敏になり身体の成長が止まった彼女は、外に出ることも叶わず、屋敷の奥で本を読み耽り、閉じこもっていた。


 これではいけないと、馨子を外へ連れ出したのは文子だ。

 カフェーの経営を教えたのは、馨子の気を紛らわすためと、彼女の才能を認めていたからだ。

 外国語を自在に操り、弁が立ち、博識で機転が利く。これを使わない手は無い、家の中で腐らせているのは勿体ない――と言うのが文子の本音だ。姪への愛情もあるが、それ以上に商売気質であった。

 馨子も、文子の誘いがただの同情でないことに気づいたのだろう。むしろそれが良かったらしく、素直に勉強を始めたものだ。


 そうして、小野村家の使用人であった三宅や淑乃の手を借りて、『カフェー・グリム』の経営が順調に行きだした頃。今から一年半ほど前に、文子はある人物の噂を聞く。

 カフェーに出入りする、異人のような容貌の美男子。ドイツ語を巧みに操る色男だと言う。試しに文子は、店の女給に彼を連れてくるよう頼み、見てみることにした。


 そして出会ったのだ。

 『千崎理人』に。


 栗色の巻毛と、緑がかった茶色の目を持ち、六尺越えの背の高い青年――。

 風貌は、馨子が語っていたそのままであり、歳の頃も合う。物腰柔らかく紳士的……ではあるが、どうもふらふらとその日暮らしをしているようである。

 女給や個人的な伝手から情報を集めながら、文子は彼をしばらく観察した。

 彼が御曹司であり、帝大卒業後に職に就かず、友人の下宿で居候していることも調べ上げた。そうして半年ほど経ってから、彼を乙木サロンに誘った。

 同時期に、馨子にも遣いを頼むようにした。

 目的はもちろん、二人の再会を果たすためである――




***




「でもまさか、出会うまでに一年近くかかるなんて思わなかったわ。運命の再会を作るのも大変なものね」


 うふふ、と悪戯っぽく笑う叔母を、私は呆れて見やった。


「どうしてそんなことを……」

「あら、呪いのかかった『お姫様』には、『王子様』が必要でしょう?」

「……現実と童話は違います。そんなに上手くいくわけがないでしょう。だいたい彼は、私のことなど覚えていません」


 そっぽを向く私に、叔母は言葉を続ける。


「でも、あなた、彼に期待していたんじゃなくて? 名前を当ててほしいなんて、まるで自分のことを知ってくれと言わんばかりじゃないの。そもそも、カフェーの給仕に千崎さんを誘ったのはあなた自身よ。私はそこまで仕組んではいないわ」

「それは、ちょうど人手不足だったから……」

「だったら伸樹を誘ってもいいじゃないの。あなたのためだったら喜んで行くわよ、彼は。そうなったら、ハンスとエルゼが寂しがるけれど」

「……千崎さんが困っているようでしたから」

「それで、給仕の仕事と、住居まで提供したの? あの馬鹿高い家賃の半分を払ってまで? 随分な奉仕精神だこと」

「……」


 ぐっ、と言葉を詰まらせれば、文子は得意そうに目を細めた。反論すると容赦がない所は、父とそっくりで嫌になる。


「きっかけは私が作ったとしても、せっかく再会できたのよ。いい加減、素直になりなさいな」

「……できるわけがないでしょう」


 私は俯いて、拳を強く握った。



 ――憧れの人だった。

 初めて出会ったときに、その王子様のような風貌に見惚れた。本当に童話から抜け出てきたのかと思ったくらいだ。

 それは強い憧れではあっても、恋ではないと自覚している。きっと、童話の中の王子様に憧れるのと同じ感情だ。

 だが、実際に再会を果たしてからというもの、彼は本の中の人ではなく、現実の人間なのだと知った。


 私はいつも緊張していた。

 彼の前で冷静に振舞うのに、どれだけ苦労していただろうか。

 言葉を遊戯のように交わすときは楽しかったが、彼が不意に頭を撫でてきたり手を握ってきたりする度に、心臓が跳ね上がった。それを悟られぬよう、いつもすました顔で振舞っていたのだ。


 彼との距離が近づくたびに、嬉しくもあり、苦しくもあった。


 ――私のことを知ってほしい。私だと気づいてほしい。


 そう願う反面、知られたくないとも思うようになった。

 きっと知られたら、奇妙な目で見られることだろう。二十歳なのに、こんな子供の姿のままなんて――




「……」


 俯いたままの私の頭に、叔母の手が置かれた。そっと撫でる手は愛情に満ちている。


「……あなたの時を止めているのは、あなた自身よ。動きなさい。止まった時計の螺子ねじを巻くのは、王子様でも千崎さんでもなく、あなた自身なのだから」


 囁くような声が落とされた後、頭の上の手は離れ、ヒールの音が遠ざかる。

 静けさが落ちるサンルームに、雨の音が響いてくる。顔を上げ、ベストのポケットに入れていた銀時計を取り出した。

 ――千崎から、賭けの担保として預かっていたものだ。いつも、ポケットに潜ませていた。

 蓋を開けば、しばらく螺子を巻いていなかったせいか針が止まっていた。横の螺子を回せば、カチ、と手の中でゼンマイが動き出す振動を感じる。

 カチ、コチ、と動き出す針が、時を刻む。


 ……私の時も、いつか動き出すのだろうか。


 時計をポケットにしまえば、まるで心臓の鼓動のように、規則正しい律動が身体に伝わってくる。

 長椅子に再び横たわって何となく本の文字を目で追っていたが、眠気を覚えてきた。うとうとと微睡みながら、私は思う。


 いつか近いうちに、千崎がここを訪れるだろう。名前当ての答え合わせのために。

 彼は名前を当てられるだろうか。

 彼が名前を当てたら、私の呪いは解けるだろうか。


 ……いや、名前を当てなくてもいい。

 呪いも解けなくていい。


 ただ、彼と過ごしたカフェー・グリムでの三か月は、楽しくて、嬉しくて、苦しくて。


 生きているのだと、実感できたから。


 だから、もし叶うなら、もうしばらくの間このままでいられたら……



 目を閉じて眠りについた私を彼が起こすのは、その二時間後のことであった――





(完)




これにて「帝都メルヒェン探偵録」完結です。

今までお読みいただき、ありがとうございました!


とはいえ、これはひとまず区切りをつけるための完結です。

まだ残っている謎や、登場人物たちが抱える秘密が明らかにされていません。むしろ出てきていない登場人物がまだたくさんいます。

最終話では理人とカホルがようやく正式に相棒となりましたが、これからの二人の成長も書いていきたいところです。

願わくば、続編でまたお会いできますよう……。



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