(4)
馨子……カホルの告白に、理人は押し黙る。
何と言葉をかけていいのか、わからなかった。
そんな壮絶な過去を持っていたなんて、想像もしていなかった。
慰めたところで、何になるのだろう。彼女はずっと耐えてきた。地下に閉じ込められた恐怖も、成長が止まってしまった己への恐怖も。
知り合って数か月の理人に、何を言えると言うのだ。
雨足も弱くなり、サンルームに静寂が落ちる。しばらく経った後、カホルが静かに顔を上げた。いつもと変わらぬすまし顔で「以上で話は終わりです」とさらりと幕を引く。
「さて、どうしましょうか。本当にあの部屋、いらないんですか? 後悔しているのではありませんか?」
「……」
「仕事の方はどうします? 続けますか、辞めますか? 辞める代わりに、あの部屋を返してあげても――」
「辞めないよ」
カホルの言葉を遮り、理人はきっぱりと言った。
「カフェーの仕事も、探偵の仕事も辞めない。部屋はもらわなくていいけど、家賃は払うから、貸してくれたら嬉しい」
「……」
「君の怪我が治って、カフェーに戻るのを待っているよ、カホル君」
理人が言えば、カホルはぐっと歯を食いしばる。
貼り付けていた笑顔の仮面が剥がれたようだった。気の強い迷子のように、不安なくせに泣き出すのを堪える、そんな表情は初めて見るものだった。
どうして、とカホルの口からか細い声が漏れる。
「それはこっちの台詞だよ。どうして君は、僕を追い出そうとする? だいたい、名前を当てたら雇い続けると言ったのはそっちだろう。そんなに僕にいてほしくないのかい」
「……違います……いえ、そうです」
カホルは小さく首を横って、理人を見る。
「……今回の事件で、あなたは怪我をした」
理人の頬に走る傷跡を見て、黒い目が眇められる。
「この仕事を続けていれば、きっと、もっと……それこそ命に係わるような、危険な目に遭います。あなただって、早死にしたくは無いでしょう? もう辞めた方がいい」
「生きていれば、誰だって遅かれ早かれ死ぬさ。安穏と長く生きる退屈な人生より、少しはスリルのある方が楽しいだろう? だいたい、仕事を辞めた方が僕はきっと早死にしてしまうよ。一谷にどれだけ小言を言われるか、考えるだけで寿命が縮む」
「そっ……そんな冗談を言っているのではありません!」
「うん、僕も冗談は言っていないよ。このくらいの怪我で、怖くて仕事を辞めると思われる方が冗談じゃないよ。褒美をもらって自分だけ逃げるなんてまっぴらだ。僕をそんな意気地なしの男にするつもりかい、君は」
「いいえ、そういうわけでは……」
「だいたいねぇ、『助手』の君に助けてもらうばかりなのは、業腹というものなんだ。君が僕を庇って怪我をしてどうするんだい、面目丸つぶれじゃないか。僕はたしかに代理だけれど、これでも多少の矜持は持っているんだよ。そこまで僕が頼りないと言うのならおもしろい、君が僕を認めて敬服するまでは、しっかり雇ってもらおうじゃないか。代理じゃなくて、本当の探偵になってみせるさ」
立て板に水のごとくまくしたてる理人に、カホルは見るからにたじろぐ。反論できないカホルを見るのは初めてで、理人は少し胸の内がすっとした。
「さて、僕の安否に関して君が気にすることは無いということはわかっただろう? 他に何か問題はあるかい?」
「……」
理人が椅子から立ち上がり、カホルの方へと一歩近づけば、彼女は後ずさるように椅子の背に身体を押し付けた。
もはや表情は取り繕えないようで、両手で守るように顔を覆ってしまったカホルは、やがて震える声で吐き出す。
「あなたは……あなたは気味が悪くはないのですか。こんな、二十歳なのに……子供の姿のままなんて……」
子供の姿のままのカホル。
百年も眠り続けるいばら姫のように、一人だけ時が止まったままでいる。
だが――
理人は逆に問い返す。
「君は、僕の容姿を気味が悪いと思うかい?」
「……え?」
「僕だって、他の大勢の人たちとは、顔かたちも、髪の色も、肌の色も、違うだろう? よく気味が悪いと言われたものだよ」
栗色の髪も、ヘーゼル色の目も、白い肌も。異人の血を引く理人はずっと、皆の中で異質な存在であった。
カホルと理人の事情はだいぶ違うが、どちらも普通でない“異質”の部分を持っていることは確かだ。
カホルは首を横に振る。いいえ、と小さな声で答えが返ってくる。
「それならよかった。君がそう思うのと同じように、僕も君のことを気味が悪いだなんて思っていないんだよ」
理人は微笑み、カホルの前に跪いた。
両手に隠された顔を覗き込む。
「……ねえ、カホル君。僕にとっては、君の中身が『小野カホル』でも『小野村馨子』でも、『子供』でも『大人』でも、誰でも構わないんだ」
理人が、カホルの正体が小野村馨子であると知った時。
ああ、だからあの子はあんなに大人びているのか――と妙に納得しただけだった。気味が悪いなんて思いもしなかった。
「僕にとっては、君は童話が好きで、よく居眠りしていて、珈琲とお菓子ばかり食べていて。博識で礼儀正しいくせに生意気で、時々思いもよらぬ無茶をする、目の離せない子だよ。ただ、それだけなんだ」
「…………生意気は余計ですよ」
吐息のような苦笑を零して、カホルがようやく両手を離す。黒い目が潤んで、本当に小鹿みたいな目になっているのを、理人は指摘せずにおいた。
「……わかりました。あなたがそこまで言うなら、これまで通り働いてもらいましょう。部屋をあげるのは無しです。家賃を引き続きもらうことにします。よろしいですね?」
「そこは少しまけてくれると嬉しいのだけど」
「あなたが褒美を辞退したんですよ。このくらいの覚悟はなさって下さい」
「……厳しいなあ」
すっかりいつもの調子に戻ったカホルに、理人はやれやれと首を振ってみせる。
「まあいいさ。探偵になった暁には、昇給を所望するとしよう。それまで……よろしく頼むよ」
「……ええ、よろしくお願いします」
理人が手を伸べれば、カホルも手を差し出す。
小さな手をしっかりと握れば、少女は面映ゆそうに、頬を染めてはにかんだ。
その初めて見る無防備な笑顔に、ふと、理人は既視感を覚える。
小鹿のような目。白いセーラー服。
ドイツ語が得意で、童話が好きな、少し風変わりな少女。
どこかで、見たことが――
「……っ」
ああ、なんで気づかなかったんだ、自分は。
この子は、昔、洋書店で出会った、あの――
理人の胸に、じわりと不思議な熱がともる。
それは再会の歓喜か、不思議な巡り会わせへの驚嘆か。わからないままに、ただ、理人は声を掛けていた。
彼女がどんな顔をするだろうと、ひそやかに心を躍らせながら。
「ねえ、君。いばら姫の寝相の秘密は解けたのかい?」――と。
これで第七話は終了です。
もう一話、エピローグが最後のお話となります。
あと少し、お付き合い下さいますよう。




