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帝都メルヒェン探偵録  作者: 黒崎リク
第七話 いばら姫の秘密
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(3)

 大正十二年、九月一日。午前十一時五十八分。

 突然、関東地方南部を激しい揺れが襲った。後に関東大震災と呼ばれる、未曽有の大地震である。


 当時、カホル――小野村馨子は十三歳になり、麹町區にある女学校に通っていた。そうして、始業式の帰りに神田區の書店街に寄ろうとしていたときのことだ。

 地面が波打ち、立っていられないほどの大きな揺れが馨子を襲った。

 倒れた馨子に、追い打ちをかけるよう、崩れてきた建物の瓦礫が降り注いだ。

 死んでいてもおかしくない状況だった。しかしながら、たまたま地下に水道管を作る工事でできた空間があり、瓦礫と共に崩れたそこに、馨子は落ちた。

 瓦礫の下敷きになりながらも、偶然にも空いた空間に馨子は閉じ込められることとなったのだ。



「今でも、それは幸運だったのか、不運だったのか……自分でもよくわかりません」



 同学年の中でもいっとう小柄な馨子ですら、身体を縮めていないといられない、狭い空間。近くから人の呻き声が聞こえて、血の臭いが漂ってくる。

 地上からは、風に乗って人の悲鳴や怒号が聞こえてくる。煙の臭いもした。地上では大きな火災が起こっていたと馨子が知るのは、だいぶ後のことであった。

 馨子は、最初こそ大声で助けを呼んだ。しかし、誰も助けには来なかった。馨子の声は、地上の悲鳴にかき消されていたのだ。


 地下の瓦礫の底はほとんど光も届かずに、余震で揺れる度に崩れそうになる。馨子は潰されぬよう、必死に身体を丸めて縮こまった。

 無暗に動いても危ないし、声を出し続けても体力が無くなるだけだ。

 いつ崩れて潰されてしまうのかという恐怖を堪えて、馨子は待つことを決めた。


 目を凝らし、耳を澄まし。

 匂いを嗅いで、指で触れ。

 五感を使って、馨子は辺りの様子を探った。


 時折瓦礫から垂れてくる、土混じりの水滴を舐めて、乾いた喉を癒した。

 空腹で痛んでいたはずの胃の痛みを感じなくなったのはいつだったか。何かが腐った臭いに吐き気がしても、吐き出すものも無い。

 疲れ果てて意識を無くしては、ふっと目が覚める。目が覚めても暗闇の中にいる絶望を味わいながらも、馨子は耐えた。



「無限にも思えた時間でした。朝になったのか、夜になったのか……何日経ったのか、もう、何もわからなかった」



 ひたすら、堪えて、耐えて。

 恐怖に狂いそうになる中で、馨子は強靭な理性で意識を繋ぎ止めた。

 やがて聞こえてきた外からの声に、馨子は目を覚ます。最後の力を振り絞って声を出した。


 そうして奇跡的に救出されたのは、震災から五日後のことであった。

 ひどく衰弱していたが大きな怪我は無く、馨子の無事を家族は咽び泣いて喜んだ。馨子の生存は絶望的だと言われていたのだそうだ。

 馨子は東京から離れて、軽井沢の別荘で療養することになった。衰弱していた身体も、徐々に回復していく。


 しかし、地下に閉じ込められた恐怖の体験は、馨子の身体と精神に異変を引き起こしていた。


 まず、馨子は夜に眠ることができなくなっていた。目が覚めたときに周りが暗いと、地下にいたときの記憶が蘇って、恐慌状態に陥るようになっていたのだ。

 目覚めては叫ぶ馨子を、家族や、使用人の淑乃や伸樹が必死に鎮めた。

 だが、次第に馨子は夜明け前にしか寝付けなくなっていた。そうすれば、目覚めても外は明るく、馨子は安心して起きることができたのだ。

 同じ理由で、暗く狭い場所が苦手になった。これも、当時の記憶が呼び起こされてしまうからだった。


 さらに、馨子の五感は通常よりも過敏になっていた。

 地下にいた頃にずっと神経を集中させて周囲の様子を探っていたことで、何かしらの制限が外れたのかもしれないと、カホルを診た大学の医学者は推測していた。


 そして、一番の変化を知るのは、その数年後だった。

 震災から一年、二年と経ち、十五歳になった馨子は、己の身体が少しも成長していないことに気づいた。

 成長期にあるはずなのに少しも背は伸びず、とうに来ていていいはずの初潮も来ない。

 三年目になれば、さすがに家族も気づいた。成長が遅いというだけでは説明が難しい。

 カホルの身体測定を行い、三年前とほとんど変わらないという結論を出した医学者は、ある推論を立てる。

 地下にいた頃、カオルは必死に小さく縮こまっていた。

 その時の恐怖と、小さくないと潰されるという精神的な負担が大きくかかって、身体的成長を止めているのではないかと――



「原因はまだはっきりとはわかっていません。治す方法もわかりません。……ただ、見ての通り、私の身体の成長が止まったことは確かです」



 成長の止まった馨子は、このまま普通には生活できない。

 感覚が過敏で夜も眠ることができず、そもそも普通に人の中で暮らすことができなかった。

 世間に知られれば、平穏には暮らせなくなるだろう。学者がこぞって推論を立てたり、雑誌や新聞で面白おかしく書き立てられたりすることになるのは目に見えていた。

 馨子の行く末を心配した家族は、鎌倉で静養していると偽って、馨子の身を隠した。馨子は叔母である乙木文子の持つ郊外の別邸で、身を隠して暮らすことになったのである。


 それからの日々は、無為に時が過ぎていくだけのものであった。

 毎日毎日、夜明けまで本を読み更けって、ようやう眠りにつく。起きたらまた本を読んで――ひたすらに暇を潰す日々であった。

 考え事をするのが怖くて、馨子は読書に没頭していた。本を読んでいる間だけは、すべてを忘れることができたからだ。



「……文子さんは、そんな私に声を掛けてくれました」



 来る日も来る日も書斎に閉じこもるカホルを、文子は外に連れ出した。

 連れていかれたのは、神保町に建設中の乙木ビルだった。その一階に、文子は新しくカフェーを開くのだといった。


 ――少し変わったカフェーにしたいの。本がいっぱいの、秘密の地下室を作るのよ。ねえ面白そうじゃない?

 ――馨子さん、あなた、暇でしょう? 経営を手伝ってみない?


 文子の誘いは、親族の中でも腫れもの扱いだった馨子にとっては、新鮮で、そして興味を惹かれるものだった。


 両親や兄からの反対はあったが、馨子は文子からカフェーの経営を教わり、一年後には『カフェー・グリム』の雇われ店主となった。

 小野村浩介の元秘書で、小野村家の家令を務めていた三宅の協力もあって、馨子はカフェーの店主として働けるようになったのだ。


 そうして気づけば、震災から七年の歳月が経っていて――



「……今でもまだ、私は自分が本当に生きているのか、わからなくなるときがあります。あれから七年も経ったなんて、信じられない。だって、私の時間はずっと、止まったままなんです」


 馨子が自分の両手を見下ろす。

 小さな手だ。七年前から変わらない。

 手だけではない。顔も体も、まるで時が止まったかのよう。


「私は……私は、何者なんでしょうね? 私の方こそ、じぶんのことが知りたいんですよ」


 くしゃりと泣き笑いのような表情を浮かべた馨子は、手を握りしめて俯いた。



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