(2)
玄関扉をノックすれば、間もなく家令の老翁が出迎える。
乙木夫人は不在であったが、中に通される。預かっていた珈琲豆の袋を渡すと「サンルームにいらっしゃいますよ」と家令から言われた。理人も「誰が」とは聞き返さずに廊下を進む。
建物の背面にある広いサンルームは静まり返っていた。
雨のために外の光は弱いが、白い壁のおかげで、灯りがなくとも明るく感じる。
焦げ茶色の板張りの床を踏みしめ、籐椅子の間を進んでサンルームの端に向かえば、いつかの光景がそこにあった。
一番の特等席である長椅子に、一人の子供が仰向けに横たわっている。
十代前半にしか見えない子供は、淡い灰色のベストとズボンを纏い、胸の上に読みかけの洋書を乗せている。桃色がかった薔薇色のリボンが、白いシャツに映えていた。
少し長めの黒髪に、あどけなさを残す白い頬。まるで少女と見紛うような、整った顔立ち。
まるで、三か月前に時が戻ったようで、現実と非現実の境が曖昧になる。
濡れた木々の緑を背景に、童話の世界に足を踏み入れたような感覚になった。
――本当に、この子供と知り合ってからというもの、童話に縁深くなった気がする。
理人が思わず忍び笑いを零せば、気配に気づいたらしく、長椅子の上で子供が身じろぎした。
瞼が開くその時を待って、理人は極上の笑みと共に声を掛ける。
「おはよう、カホル君。目覚めの接吻はご入り用かな?」
「……千崎さん」
カホルは小鹿のような黒い目を丸くし、やがて苦笑を見せる。
相変わらずですね、と理人の台詞をさらりと流すと起き上がった。
「何だい、少しは戯れに付き合ってくれてもいいじゃないか」
「そんな気分じゃないんですよ」
カホルは肩を竦める。三宅の言う通り機嫌が悪そうだ。
それを指摘すると、カホルは眉根を寄せた。
「あの親子は過保護すぎるんです。カフェーには出入り禁止、治るまでサロンから出るなと……」
「親子?」
理人が首を傾げれば、カホルは「三宅と淑乃と伸樹です」とあっさり答える。
「……苗字が違うじゃないか」
「いろいろとあるんですよ。気になるのなら、訳は本人達に聞いてみて下さい」
そんなこと聞けそうにもない。今度は理人が肩を竦める羽目になれば、カホルがふっと笑みを零した。少しは気分が紛れただろうか。
理人はカホルの向かいの、一人掛けの籐椅子に腰を掛ける。
「彼らの名前も気になるけれど……そろそろ、こちらの名前当ても期限が迫っていると思ってね」
「ええ」
「ルンペルシュティルツヒェンの、答え合わせに来たんだ」
「……ええ」
理人とカホルは向かい合う。
逸らされることのない黒い目を見つめながら、理人は口を開いた。
「君の名前は――『小野村馨子』だ」
***
怪我の静養でカフェーを休んでいた間、理人は友人の十和田と会っていた。
頼んでいた写真が手に入ったと連絡が入ったのだ。待ち合わせのカフェーで彼からもらった写真を見て、理人は思わず天を仰いだ。
驚いたからではない。
九割方確信していたことが、当たっていたからだ。。
元々、カホルが小野村家の親族ではないかと推測はしていた。
その推測は、青山家の事件で鞠子が言っていた台詞によって、ある意味裏付けられた。
『だってこの子、女の子ですもの』
『まるで、七年前から時が止まっているみたいじゃない』
――十和田が手に入れた小野村家の家族写真には、祖父母と両親と、三人の兄妹が映っていた。
その中の一人、セーラー服を着た十二、三歳くらいのおさげ髪の少女の顔は、理人がよく見知ったもの。
少女の名前は、『小野村馨子』。
小野村商会の社長、小野村浩介氏の長女であった。
「七、八年前のものだよ、役に立つのかい」と聞いてくる十和田に、理人は彼女について尋ねたのだった――
***
考えてみれば、『小野カホル』と言う名は『小野村馨子』をもじったものだ。
『馨子』の『馨』は『カホル』と読めるのだから。乙木夫人が付けた名前は、ほとんど答えを示していたのだ。
理人の答えに、カホルは目を閉じて、頷いた。
「……ええ、正解です。私は、小野村馨子です」
ゆっくりと目を開けたカホルが、にこりと微笑む。作ったような笑顔だった。
「おめでとうございます。これで、乙木ビルの部屋はあなたのものですよ。住み続けても構いませんし、売り払ってもらっても構いません。仕事の方はどうされますか? できれば続けてもらえると助かりますが、辞めてもらっても――」
「『カホル君』」
あらかじめ考えられていたようなカホルの台詞を、理人は強い口調で遮る。
「小野村馨子は、二十歳の女性だ。七年前の震災で大怪我を負って以来、鎌倉の方で静養を続けていると、知人から聞いたよ」
「……」
「なぜ君は、七年前と同じ姿をしているんだ? なぜ名前を偽ってカフェーの店主をしているんだい?」
理人の問いに、カホルは笑顔を消して、そっと目を逸らす。
「……聞いたところで、面白い話ではありませんよ」
「僕は面白い話が聞きたいんじゃないよ。君のことが知りたいだけだ。教えてもらうために交換するものが必要なら、あの部屋を返すよ。だから、どうか教えてくれないか?」
「……」
食い下がる理人に、カホルは大きな溜息を吐いた。
「……褒美を手に入れて、めでたしめでたし――で終わらせればいいのに。その褒美を返そうとするなんて、あなたは主人公として間違っていますよ」
苦い笑みを零した後、カホルは「昔の話です」と語り始めた。




