(6)
まじまじと少年を見つめれば、幼い顔に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「とは言え、私も雇われ店主の身ですが」
例え雇われとはいえ、十代前半の子供が一つの店を任されていることがまず普通じゃない。
何だか本当に、妖精に化かされているような気がしてきた。理人は椅子に深くもたれて息を吐く。
「驚いたな……君は一体、何者なんだい?」
「おや、あなたは名前を教えて下さらなかったのに、私には聞くのですか?」
少年は小首を傾げて微笑んだ。
なるほどそう来るかと、理人もつられて苦笑する。名前当ての遊戯はまだ続いていたようだ。
「じゃあ、次は僕が君の正体を当てる番か」
「そうですね……それでは、あなたの願いを叶える代わりに、私の名前を当ててみるというのはどうですか?三日は短いので、あなたを雇う期間をとりあえず三か月としましょうか。その間にあなたが私の名を当てることができれば、引き続き雇います。以後の住み込みの家賃はこちらが持ちましょう。いかがですか?」
「……君はいばら姫じゃなくて、ルンペルシュティルツヒェン本人だったか」
願いを叶えてくれる小人――もとい、不思議な子供。
理人は微苦笑を零した。
「もちろん僕にとっては願ったり叶ったりだよ。しかしそれでは、僕に都合が良過ぎやしないかい?」
「もともと人手が欲しかったので、あなたがきちんと働いて下されば問題はありませんよ。家賃の方もこちらで所有している建物なのでさほど負担にはなりません。……ああ、そうだ。名前を当てられても、私は身体を自分で裂いたりはしませんので、ご安心下さい」
遊戯の続きとも取れる会話は、本気なのか冗談なのか。
少年と二人きりのサンルームは、正午の光で作られる濃い影と庭の緑の香りに包まれて、まるで森の中にいるような錯覚になる。
本当に、この少年は何者なのだろう。
不審に思いながらも、好奇心は膨れ上がる。
退屈な日常が、不可思議な非日常へと変わっていく。
わくわくするなんて何時ぶりだろうか。目的も無く怠惰に生きてきたこの二年の間で、今が一番楽しく思えるくらいだ。
理人はくすりと笑いを零し、さてどんな気の利いた答えを返そうかと考えていれば、かつかつと軽やかにヒールを鳴らす音が近づいてきた。
「――あら、ここにいらしたの?」
サンルームに現れたのは、洋装姿の美しい女性だった。
黒い断髪に淡い藤色のフェルトのクローシュ帽を被り、同系色である紫苑色のワンピースを細い肢体に纏っている。大きな白い襟と細い袖口にはレースの襞があしらわれ、パールの長い二重ネックレスと合わせて、上品ながらも華やかな装いをしていた。
細面の顔には薄く白粉が塗られて、眉は細くバランスよく整えられている。唇には鮮やかな紅を差していた。ふわりと漂ってくるのは菫の香りだ。
彼女こそサロンの主、乙木文子である。
理人は椅子から立ち上がって彼女の前に進み、恭しく一礼した。
「ご無沙汰いたしております、乙木夫人」
「ごきげんよう、千崎さん」
乙木夫人は紅唇に、艶やかな笑みを浮かべる。年齢は四十路を超えるはずだが、溌溂とした表情やしゃんと伸びた姿勢が、彼女をより若く美しく見せた。
「詩作の方は順調かしら?ああ、そうだわ。よろしければ、ご一緒に昼食はいかが……」
にこやかに言いかけた彼女の言葉が途中で止まる。乙木夫人の目線は理人の後ろ、長椅子に座ったままの少年に向けられていた。
「あら……あらあら、まあまあ」
口元に手を当てた夫人は理人と少年を見やり、どこか楽しそうな笑みを見せる。
「お二人とも、もう知り合ったのね。私、お邪魔だったかしら?」
「つい先刻知り合ったばかりですよ。しかし残念ながら、僕はまだあの子の名前すら教えてもらえないのです」
「まあ、そうなの」
じゃあ紹介するわと言いかけた夫人であったが、それを少年が遮る。
「文子さん、駄目ですよ。実は今、彼と賭けをしているんです。彼が私の名前を当てられるかどうかってね」
千崎さんズルはなさらないように、と少年は唇の前に人差し指を立ててみせる。理人は肩を竦めて、乙木夫人は目を輝かせた。
「あら、なぁに?ずいぶんと面白そうなことをしているのね」
楽し気に問うてくる夫人に、理人は簡単に賭けの説明をした。
カフェーの給仕の件を話すと、どうやら乙木夫人が少年の店のオーナー、つまりは雇い主であったようだ。理人を雇うことには、二つ返事で彼女からも了承が出た。
「そういうことね、わかったわ。でも、名が無いと不便ではなくて?」
確かに、これから先ずっと『君』と呼びかけるのも味気ない。「どう呼べばいいかな?」と理人が少年を見やれば、思わぬ問いかけだったのか戸惑いの色を見せる。
少年が答える前よりも早く、乙木夫人が提案した。
「『カホル』はどうかしら?」
「文子さん」
「あら、いいじゃないの。……そうね、『小野カホル』になさいな」
ほら呼びやすいわ、と乙木夫人が両手を合わせて同意を促した。
少年が少し眉を顰める様子を見ると、どうやら彼にとって何かしら意味がある名のようだ。名前を当てる示唆となるだろうか、と理人は頭の隅で考えながら尋ねる。
「それでは、カホル君と呼べばいいかな?」
「……どうぞ、好きに呼んで下さい」
少年――『小野カホル』は、小さな溜息をついて立ち上がった。
カホルの背は理人の胸の高さくらいまでしかなく、改めて子供であることを実感する。しかし見上げてくる眼差しは、子供とは思えないくらいの落ち着きと知性があった。
正体不明の子供の前に、理人は手を差し出す。
「これからよろしく、カホル君」
「ええ。どうぞよろしく」
大きな手にすっぽりと収まる小さな手を握る。
これからの駆け引きを楽しみにする理人は、自然な笑みを浮かべていた。その飾り気のない微笑みを見たカホルがさっと目を逸らしたことに理人は気づかなかったが、傍らの乙木夫人は何とも楽し気に笑んだのだった。
とりあえず第一章まで投稿しました。
第二章が書きあがり次第、まとめて投稿したいと思います。