第七話 いばら姫の秘密(1)
七月に入っても、雨は降り続く。
それでも時折、梅雨が日に日に遠ざかっていく気配があるのは、時折吹く風に熱気を感じるからだろうか。
神田區は神保町。
書店街の一角にある乙木ビルのカフェー・グリムに、理人は十日ぶりに顔を出した。
「三宅さん、おはようございます」
「おはようございます。理人君、怪我の具合はどうですか?」
「十分にお休みをもらったので。すっかり良くなりましたよ」
理人は軽く左腕を上げてみせた。
先日起こった青山家での事件の際、怪我を負った理人は、三宅からカフェーの出入りを禁じられていた。
怪我人にホールに立たれては困る、君が粗相をした場合の責任はとれませんよ――と、きっぱり言われてしまっては、理人も大人しく休むしかない。
おかげで昼間もだらだらと寝て過ごす……以前のような生活をしばしの間楽しむことになったが、どうも以前よりも楽しめなかった気もする。
この二か月で早起きがすっかり習慣づいてしまった理人は、午前中に書店街をふらついて古本を二、三冊見繕い、部屋に持ち込んで読書に耽っていた。
三宅はじっと理人の頭から爪先まで見て確認する。姿勢や動きに不自然な所は無いか見ているのであろう。
頬の傷は痕こそ残っているが、塞がって痛みはほとんど無い。腕の傷は動くと少し引きつれて痛むものの、日常生活に支障は無かった。
事件直後、淑乃と伸樹の適切な応急処置のおかげで破傷風になることも無く、順調に傷は治っていた。
「無理はしていませんね?」
「はい。これ以上部屋で大人しくしている方が無理ですよ」
「おやおや。君は本当に、意外と真面目ですよね。それでは働いてもらいましょうか。休んだ分、しっかりと」
にこりと笑った三宅は、理人をカウンターの中へと招き入れた。
久しぶりにカフェーに復帰した理人に、常連客達は次々に声を掛けてくる。
英語の詩作が趣味の大学教授からは、この十日で書き溜めた分の英詩を読まされ、添削をさせられた。留学を控えた学生二人には「会話の練習ができなかった」と冗談交じりに責められた。
理人は己が、意外にもこのカフェーで受け入れられていることを実感して、少し狼狽えたものだ。
「おお、ダビデ君! 久しぶりだ……なんだその顔の傷は! せっかくの造形に傷が……ん? うむ? いや、これはこれで趣があっていいかもしれんな。痕が消える前にスケッチを取らせてくれたまえ。顔と言わず、全身でも構わんぞ! さあ、脱ぎたまえ!」
「千崎さん、お久しぶりですね。顔の傷、どうされたんですか? それに腕も……大変な目に遭われたんですね。どうぞ無理はなさらないように」
乙木ビルの住人の花村と桐原から心配されつつ、理人はカフェーの給仕に励んだ。
午後になり、客足が落ち着いた頃、理人は三宅に尋ねる。
「――三宅さん、カホル君はどうしていますか?」
今日は、珈琲の味見を三宅自身が行っていた。
理人が店の奥にある地下の書斎を覗いてみれば、中は薄暗く、いつもソファーで眠っている小さな店主の姿は見当たらなかった。
三宅は珈琲豆をざらざらと袋に詰めながら答える。
「カホルさんは乙木サロンに滞在中ですよ。怪我が治るまで、カフェーには出入り禁止です」
どうやら、カホルも理人と同様の処置を取られていたようだ。店主に出入り禁止を言い渡す三宅。さすがカフェーをほとんど一人で切り盛りしてきた御仁である。
感心しつつも苦笑する理人に、三宅が珈琲豆の袋を差し出した。
「理人君、これを乙木サロンに届けて下さい。文子様から頼まれていまして」
「え?」
「ついでに、カホルさんのご機嫌取りをして頂ければ助かります。最近は暇を持て余して、機嫌が悪いようですので」
「……」
「お遣い、お願いできますか?」
「……わかりました」
断る気も理由も無い。理人は袋を受け取って、素直に頷いた。
理人は一度自室に戻って、私服に着替えた。
一張羅の、利休鼠色のスーツ。それに中折れ帽を被って、部屋を出る。
一階のエントランスに降り立てば、ちょうど外から淑乃が帰ってきたところであった。雨に濡れた傘を畳む彼女はこちらに気づき、一瞬動きを止めた後、いつものように目礼してくる。
やあ、と理人は片手をあげて挨拶した。
「今から少し出てくるよ」
「左様でございますか」
いつもならそこで目を逸らし、理人など眼中にないという態度を示す淑乃だったが、今日は違うようだ。じっとこちらを見た後、「怪我の具合は」と問うてくる。
まさか淑乃に心配されるとは思っていなかったので、理人は内心で驚いた。
「あ、ああ……おかげさまで良くなったよ。どうもありがとう。心配をかけたね」
「……別にあなたの心配はしておりません。あなたが無茶をすれば、カオル様も無茶をなさるので、その点は十分にご留意下さいますよう」
淑乃は素っ気なく言って一礼し、管理人室に戻る。しかしすぐに引き返してきて、男物の大きな傘を差し出して渡してきた。
雨が降っておりますので――。
そう言う彼女の表情からは、冷たさが少し消えていたように思えた。
***
神保町の停車場から、市電を乗り継いで雑司ヶ谷の停車場で降りる。小雨の降る中、傘と珈琲豆の袋を手に、理人は池袋駅の西方にある長崎町へと向かった。
目指すは長崎町の外れにある乙木夫人の別邸、通称『乙木サロン』だ。
長崎町に来るのは、ちょうど三か月ぶりである。こんなに間を空けてくるのは、初めてと言っていいだろう。以前は、ひと月に一度は訪れていた。
職無し家無しの理人にとって、若い貧乏芸術家を支援する乙木サロンは、金欠の折の良い逃げ場所であったのだ。三か月前は、それこそ職と住居の無心にやってきたくらいだ。
「……」
あっという間の三か月であった。
そしておそらくは、一番充実していた三か月。時が過ぎるのは早いものである。
感慨深く思うのは、しとしとと降る雨のせいか。少し感傷的になっているのかもしれない。
ひとり苦笑を零し、理人は乙木サロンへの道を進んだ。
乙木サロンの門扉は、いつも通り開いていた。
鉄柵と緑の生垣に囲まれた敷地は雨に濡れて、より緑を鮮やかに浮かばせる。咲き残った紫陽花の、青や紫の花が前庭を彩っていた。
敷地に入れば、小雨の中、前庭の花壇の手入れをしている青年の姿が目に入った。理人は正面の玄関に向かう前に、そちらに足を運ぶ。
「やあ」
「……ああ、どうも、千崎さん」
雨の中、いつもの鳥打帽ではなく雨合羽を着た伸樹は、立ち上がって目礼する。「怪我の具合はいかがです?」とすぐに聞いてくるものだから、思わず頬が緩んでしまった。
にやける理人に、伸樹は眉を顰めた。
「どうしたんですか、気持ち悪い」
「ああ、いや。淑乃嬢からも、そう尋ねられたものだから……やっぱり兄妹なんだと思ったまでだよ」
伸樹の歯に衣着せぬ言い方も何だかおかしくて、理人はくすくすと笑ってしまう。伸樹は少し嫌そうな顔で、「ご機嫌で何よりですね」と返してきた。
立ち話に時間を割く気は無いようで、伸樹は背を向けて花壇の方へとしゃがみ込む。理人はその背に話しかけた。
「伸樹君。カホル君を危ない目に遭わせたのは、僕のせいだ。本当に申し訳ない。君達兄妹が来てくれたおかげで助かったよ。ありがとう」
「……随分と殊勝な態度ですね。謝って、それで終わりですか」
「いいや。終わりにはしないから、一度ちゃんと言っておきたかったんだ。けじめとしてね」
「……」
伸樹は何も言わない。
理人が背を向けて玄関に向かおうとした時、ちっと大きな舌打ちが聞こえた。振り向けば伸樹が雨合羽のフードを被ったまま、こちらを見ている。
「伸樹君?」
「こっちだって言いたいことはたくさんありますよ。正直、俺はあなたが気にくわないし、早く出て行ってほしいくらいです。ですが……『お嬢さん』を守ってくれたことだけは、感謝します」
そう言って、伸樹が理人に向かって頭を下げた。
――もう、『カホルさん』とは呼ばない彼は、理人がここに来た理由にきっと気づいているのだろう。
理人は傘を軽く持ち上げて、小さく頷きを返した。




