(14)
「鞠子さん……いや、えり子さんだったね。あなた、まさか本当に、血を浴びれば若返ると思っているのかい?」
理人の言葉に、鞠子が振り向く。
理人はそんな彼女を、可哀そうなものを見るように見やった。
「そんなくだらない妄想を吹き込まれて、気の毒なことだよ」
「……何を言いたいのかしら?」
「あなただって、本当はとっくに気づいているのだろう? でなければ、そんな恰好をしているはずがない」
長袖のワンピースに、レェスの手袋。
神保町に訪れたときから、鞠子はずっと身に付けて、ほとんど外さなかった。
「こんな蒸し暑い季節に、襟の高い服を着て、長い袖で腕を包み、手を手袋で覆っている。昨今の若いモガだったら、時代遅れと言いそうな古臭い格好だよ。そこまでして肌を隠すのは何のためかな?」
「……」
「顔以外の皮膚、首筋や手は筋張って、皺だらけだから……じゃないのかい?」
「なっ……」
理人の指摘は図星だったのか、鞠子がはっとして首元を押さえた。
「やっぱりね。あなたは本当に若返っているわけじゃない。……最近、『美容整形』というのがあるらしいじゃないか。元々は顔の一部を失った兵士のために顔を手術で整えると聞いたけど、今じゃあ一般の人でもやっていると、雑誌で読んだよ。鼻を高くしたり、目を大きくしたり……皺を伸ばしたり、ね。あなたの顔も、そうやって若く見せているだけじゃあないのかな?」
くつくつと、理人は笑って挑発する。
「外見だけ綺麗になったところで、中身は所詮……五十の老婆のままなんだよ、あんたは」
「っ!」
鞠子の顔が朱に染まる。
怒りに眉を吊り上げた彼女は、思惑通りこちらへと向かってきて、理人の上半身を突き飛ばした。床に倒れた理人を、鞠子が執拗に蹴りつける。
「このっ……このっ!!」
靴の踵が肩や脇腹にめり込んで痛みを訴えるが、理人は笑みを浮かべたまま、余裕の表情で鞠子を見上げた。
「図星だからって、八つ当たりしないでくれるかな。……ほら、もう体力も無いんだろう? 息が切れ始めているよ、お婆さん」
「この……薄汚い混血児が! 舐めたことを言うんじゃないわよ!」
がっ、と顎を蹴り上げられて、理人の挑発は物理的に止められる。
「やめて下さい! 彼は関係ないのでしょう!?」
カホルの制止の声も、鞠子を止めることはできない。
荒い息を吐き出し、肩を上下させた鞠子はやがて、にぃっと赤い唇を歪める。
「……そうね、関係ないわねぇ。あなたのことは別に何も言われていないから、何をしてもいいんだわ」
鞠子はポシェットから再びナイフを取り出した。
理人に馬乗りになった鞠子が、ナイフの刃を理人の頬へと強く押し付ける。
鞠子は、ナイフをそのまま横に乱暴に滑らせた。一拍遅れて、理人の頬に鋭い痛みが走る。温い液体で濡れる感触と、錆びた鉄のような香りが頬を流れていった。
「千崎さん!」
「ふふっ、異人の血もちゃあんと赤いのね。……そういえばあなた、今までの娘達よりも、いっとう綺麗な顔をしているわ。肌の色も、目の色も、西洋人形みたい。もしかしたら、あなたの血でも効果はあるかもしれないわねぇ」
言いながら、鞠子は血の付いたナイフを、今度は理人の上腕へとおもむろに突き刺す。
「ぅっ……!」
「あら、痛かった? さっきまでの口上はもう終わり? ほら」
ナイフから手を離した鞠子が、理人の頬の傷を指で抉るようになぞる。
強い痛みを堪えながら、理人はにやりと笑った。
「……ああ、もう口上は終わりにするとしよう。……あんたも、なっ!」
理人は腹筋を使って、勢いよく起き上がった。その勢いのまま、強烈な頭突きを鞠子の顔へとぶつける。
「ぎゃっ――」
鞠子が顔を押さえて後ろに体制を崩した。理人は足を動かして、鞠子を身体の上から振り落とす。
何とか立ち上がった理人は、蹲った鞠子の鳩尾を蹴った。
女性に対してひどい仕打ちだとは思うが、こちらは殺されかけている身だ。さすがの理人も、この状況で加害者の女性に優しくはできない。
鞠子が呻いて動けずにいるのを横目で見やりながら、カホルへと駆け寄った。カホルは血の気の引いた顔で理人を見つめる。
「千崎さん、血が……」
「カホル君、ナイフを抜いてくれ。できるかい?」
「ですが……」
「大丈夫、傷は深くは無いから。それよりも縄を切りたいんだ、早く」
理人が屈んで低い体勢を取れば、カホルはわずかの躊躇いの後、決心したようだ。後ろを向いて縛られた手で探り、ナイフの柄を掴んで抜く。
痛みが走って血が溢れるのがわかる。だが声は上げず、理人はそのナイフを受け取って、まずはカホルの手の縄を切った。
カホルは自由になった手で交代に理人の縄を切りながら、震える声で言う。
「あなたは……なんて無茶をするんですか……!」
「君だって彼女を挑発していたじゃないか。僕も負けていられなくてね」
軽口を返しつつ、理人は拘束の外れた手首を擦る。動かしていたおかげで、痺れは大分取れていた。
カホルは破れたシャツの襟を片手で押さえている。しかし開いたシャツの裾からは薄い腹が見える。理人は来ていたベストを脱いで、カホルへと差し出した。
「着るといい。だいぶ大きいかもしれないけれど、無いよりはいいだろう。血が付いていて嫌だなんて言わないでくれよ」
「……千崎さん。私は……」
「カホル君」
俯くカホルの肩を叩き、ベストを羽織らせて、理人は安心させるように笑む。
「話は後にしよう。今はここから出ないと……」
視界の片隅で、鞠子が呻きながら起き上がろうとしているのが見えている。理人はカホルの手を握って、鍵のかかっていなかった扉を開いた。




