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帝都メルヒェン探偵録  作者: 黒崎リク
第六話 青髭の誤算
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(12)


 頬に冷たいものが触れる。ぽたりと落ちて、皮膚の上を滑っていくのは水滴だろうか。

 直後、それは水の塊となってばしゃりと顔に当たってきた。衝撃と冷たさに、理人ははっと目を開ける。

 途端、電灯の光が目に飛び込んできて、目の奥の神経を刺激する。ずきりと鈍い頭痛と吐き気が襲ってきて、思わず顔を顰めた。


「っ……う……」

「お目覚めかしら、探偵さん」


 呻く理人の上から、甘やかな声と甘ったるい匂いが降ってきた。

 理人は硬く目を瞑って、もう一度開く。瞬きで慣らした目で、ようやく周囲の様子を知ることができる。

 理人がいるのは、石造りの部屋であった。先ほど見た、塔の地下の秘密の部屋とほとんど同じような造りをしている。

 窓は無く、電灯が天井に一つで、出入り口は木の扉だけ。おそらく、地下にいくつかあった部屋のうちの一つだろう。

 理人は、壁際の床に寝転がされていた。手は後ろ手に縛られていて、硬い石の床と背中に挟まれていたためか、痺れて感覚がない。

 理人は小さく身じろぎして、身体の下で見えないように両手を開閉して血を巡らせつつ、声と匂いの主を見上げる。


「……起こして頂き感謝しますよ、鞠子さん」


 理人が言えば、空の水差しを手にした鞠子は、赤い唇の端を上げる。


「随分と余裕なのね。あなた、この状況をわかっていて?」

「ええ。少なくとも、あなたはもう守るべき依頼人ではないということは」

「あら、気づくのが随分と遅かったわね」


 にっこりと微笑む鞠子からは、弱弱しく不安げな様子は消え失せていた。彼女の背後から、低い落ち着きのある声がかかる。


「鞠子、あまり近寄らない方がいい。危ないよ」


 声の主は、背の高い男性だった。立派な髭を蓄えた五十代くらいの男性は、肖像画で見た姿より穏やかそうに見える。


「まあ、あなた。心配して下すってありがとう」


 鞠子は嬉しそうに、男性――青山留二の傍へ寄った。

 留二がそっと鞠子を抱き寄せ、鞠子が留二の肩へ頭を乗せる。仲睦まじげな青山夫妻の姿に、理人はカホルが口にした『罠』の意味を痛感した。


 最初から――鞠子が依頼をしてきた時から、すべて芝居であった。

 夫の暴力も、殺されるかもしれないと言う話も、理人達をこの屋敷に連れてくるための罠であったのだ。

 今まで気づかなかった自分が情けない。

 くそ、と内心で悪態をつきながら、理人は目でカホルの姿を探す。

 カホルは、理人の向かいの壁際にいた。

 理人と同様に後ろ手で拘束されて、床に座らされているようだ。気遣わし気な黒い眼差しが、理人へと向けられている。

 逃げられなかったのか。

 ……理人を置いて逃げることができなかったのか。


「……何が目的だ? 僕達に何の用があるというんだ」


 理人が鞠子に問えば、彼女は可笑しそうに首を傾げた。


「僕達? うふふ、何を仰ってるの、あなたに用はないわ……私は、その子が欲しかったんですもの」


 鞠子が腕を上げて示したのは、カホルだった。

 鞠子はゆっくりとした足取りでカホルに近づく。カホルは身を引こうとするが、手を縛られているうえ、背後は壁で逃げようがない。


 広くもない部屋では、鞠子が五、六歩も歩けばカホルの前に辿り着いた。伸ばされる手から逃れようとカホルが顔を背けるが、その白い頬をレェスの手袋が抑える。

 無理やり上向かされたカホルの顔を、鞠子が間近で食い入るように見つめた。

 その目に浮かぶのは、熱に浮かされた狂気の色だ。


「ああ……本当に綺麗だわ。髪も肌も、唇も目も、子供のように瑞々しくて……羨ましいこと」

「っ、放せ……!」


 カホルが首を振って手を払うが、鞠子は手袋に包まれた手で、幾度もカホルの頬や首を執拗に追いかける。鼠をいたぶる猫のように、鞠子の目は細められていた。

 さすがに黙って見ていられない。理人は体の痛みを無視して身を起こした。


「止めろ! 彼に危害を加えてみろ、許さないぞ」

「あらあら、恐ろしいわぁ。そんな怖いこと仰らないで」


 鞠子は怯えた態度を見せるが、顔は微笑んだままだ。


「でもねぇ、千崎さん。あなた……一つ、間違っていてよ」

「何が……」

「だって、『彼』なんてここにいないもの」

「……どういう意味だ?」


 理人の問いに鞠子は目を細めただけで答えない。代わりに、かけていたポシェットから何かを取り出す。

 するりと鞘が抜かれたそれは、小さなナイフだった。光を反射する銀色の刀身が、カホルへと向けられる。


「何を……止めろっ!」


 理人が無理やり立ち上がろうとすれば、いつの間に近づいていたのか、留二が強く肩を蹴ってきた。

 体勢を崩して再び床に倒れ伏す理人の目の前で、ナイフの刃がカホルの喉元へと寄せられる。

 青ざめたカホルの目が見開かれる。


「カホル君!」


 今にもカホルの喉に突き立てられそうだったナイフは、しかし方向を下へと変えて、シャツの襟の中央へと押し付けられた。

 びりりと布を裂く音がして、ベストやシャツの小さなボタンが弾け飛ぶ。

 切られた臙脂色のリボンタイがひらりと宙を舞い、石の床へと落ちた。


 そうして、はだけられたシャツの合間から見えたのは。


 白い肌と、小さな――しかし確かな、胸の膨らみだった。



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