(12)
頬に冷たいものが触れる。ぽたりと落ちて、皮膚の上を滑っていくのは水滴だろうか。
直後、それは水の塊となってばしゃりと顔に当たってきた。衝撃と冷たさに、理人ははっと目を開ける。
途端、電灯の光が目に飛び込んできて、目の奥の神経を刺激する。ずきりと鈍い頭痛と吐き気が襲ってきて、思わず顔を顰めた。
「っ……う……」
「お目覚めかしら、探偵さん」
呻く理人の上から、甘やかな声と甘ったるい匂いが降ってきた。
理人は硬く目を瞑って、もう一度開く。瞬きで慣らした目で、ようやく周囲の様子を知ることができる。
理人がいるのは、石造りの部屋であった。先ほど見た、塔の地下の秘密の部屋とほとんど同じような造りをしている。
窓は無く、電灯が天井に一つで、出入り口は木の扉だけ。おそらく、地下にいくつかあった部屋のうちの一つだろう。
理人は、壁際の床に寝転がされていた。手は後ろ手に縛られていて、硬い石の床と背中に挟まれていたためか、痺れて感覚がない。
理人は小さく身じろぎして、身体の下で見えないように両手を開閉して血を巡らせつつ、声と匂いの主を見上げる。
「……起こして頂き感謝しますよ、鞠子さん」
理人が言えば、空の水差しを手にした鞠子は、赤い唇の端を上げる。
「随分と余裕なのね。あなた、この状況をわかっていて?」
「ええ。少なくとも、あなたはもう守るべき依頼人ではないということは」
「あら、気づくのが随分と遅かったわね」
にっこりと微笑む鞠子からは、弱弱しく不安げな様子は消え失せていた。彼女の背後から、低い落ち着きのある声がかかる。
「鞠子、あまり近寄らない方がいい。危ないよ」
声の主は、背の高い男性だった。立派な髭を蓄えた五十代くらいの男性は、肖像画で見た姿より穏やかそうに見える。
「まあ、あなた。心配して下すってありがとう」
鞠子は嬉しそうに、男性――青山留二の傍へ寄った。
留二がそっと鞠子を抱き寄せ、鞠子が留二の肩へ頭を乗せる。仲睦まじげな青山夫妻の姿に、理人はカホルが口にした『罠』の意味を痛感した。
最初から――鞠子が依頼をしてきた時から、すべて芝居であった。
夫の暴力も、殺されるかもしれないと言う話も、理人達をこの屋敷に連れてくるための罠であったのだ。
今まで気づかなかった自分が情けない。
くそ、と内心で悪態をつきながら、理人は目でカホルの姿を探す。
カホルは、理人の向かいの壁際にいた。
理人と同様に後ろ手で拘束されて、床に座らされているようだ。気遣わし気な黒い眼差しが、理人へと向けられている。
逃げられなかったのか。
……理人を置いて逃げることができなかったのか。
「……何が目的だ? 僕達に何の用があるというんだ」
理人が鞠子に問えば、彼女は可笑しそうに首を傾げた。
「僕達? うふふ、何を仰ってるの、あなたに用はないわ……私は、その子が欲しかったんですもの」
鞠子が腕を上げて示したのは、カホルだった。
鞠子はゆっくりとした足取りでカホルに近づく。カホルは身を引こうとするが、手を縛られているうえ、背後は壁で逃げようがない。
広くもない部屋では、鞠子が五、六歩も歩けばカホルの前に辿り着いた。伸ばされる手から逃れようとカホルが顔を背けるが、その白い頬をレェスの手袋が抑える。
無理やり上向かされたカホルの顔を、鞠子が間近で食い入るように見つめた。
その目に浮かぶのは、熱に浮かされた狂気の色だ。
「ああ……本当に綺麗だわ。髪も肌も、唇も目も、子供のように瑞々しくて……羨ましいこと」
「っ、放せ……!」
カホルが首を振って手を払うが、鞠子は手袋に包まれた手で、幾度もカホルの頬や首を執拗に追いかける。鼠をいたぶる猫のように、鞠子の目は細められていた。
さすがに黙って見ていられない。理人は体の痛みを無視して身を起こした。
「止めろ! 彼に危害を加えてみろ、許さないぞ」
「あらあら、恐ろしいわぁ。そんな怖いこと仰らないで」
鞠子は怯えた態度を見せるが、顔は微笑んだままだ。
「でもねぇ、千崎さん。あなた……一つ、間違っていてよ」
「何が……」
「だって、『彼』なんてここにいないもの」
「……どういう意味だ?」
理人の問いに鞠子は目を細めただけで答えない。代わりに、かけていたポシェットから何かを取り出す。
するりと鞘が抜かれたそれは、小さなナイフだった。光を反射する銀色の刀身が、カホルへと向けられる。
「何を……止めろっ!」
理人が無理やり立ち上がろうとすれば、いつの間に近づいていたのか、留二が強く肩を蹴ってきた。
体勢を崩して再び床に倒れ伏す理人の目の前で、ナイフの刃がカホルの喉元へと寄せられる。
青ざめたカホルの目が見開かれる。
「カホル君!」
今にもカホルの喉に突き立てられそうだったナイフは、しかし方向を下へと変えて、シャツの襟の中央へと押し付けられた。
びりりと布を裂く音がして、ベストやシャツの小さなボタンが弾け飛ぶ。
切られた臙脂色のリボンタイがひらりと宙を舞い、石の床へと落ちた。
そうして、はだけられたシャツの合間から見えたのは。
白い肌と、小さな――しかし確かな、胸の膨らみだった。




