(5)
この屋敷に出入りする者の半数以上は芸術家であるので、正直、少年の推測はスーツの件以外は飛びぬけて優れているものではない。
とはいえ、暇潰しにはなったかと半ば意識を逸らして油断した理人であったが、そこに鋭い隠し球が飛んでくることになる。
「あなたは、帝都大学を優秀な成績で卒業した後、何らかの事情で詩人に転向した、訳ありの元御曹司でよろしいでしょうか?」
「っ……」
理人は一瞬息を呑んだ。動揺を隠すように唇をわずかに引き結んだ後、ゆっくりと開く。
「帝都大学卒業というのは、どこから?」
「上衣の内ポケットから出ている銀の鎖は、懐中時計についているものでしょう?あなたが屈んだ際に鎖と、それから時計の蓋の一部も拝見しました。卒業試験で優秀な成績を収めた学生に与えられる物だそうですね。知人に同じ時計を持つ者がいたので、わかっただけです」
「……君の知り合いにも帝大卒業者がいたわけか」
銀の懐中時計の事を知っている者は、それほど多くいるわけではない。
金銭的な価値よりは名誉を重んじる物であり、公にひけらかされることはないのだ。持つ者の身内か、あるいは官公庁の職についたエリート達の中で密やかに知られるものである。
大日本帝国の学問の最高峰であり、一部のエリートしか入れない帝国大学。
その中でも優秀な成績を収めたものに与えられる銀色の懐中時計。
エリートの証を持っているのに、上等ながらも古びたスーツを纏い、貧乏芸術家が集うサロンにふらりと訪れて少年相手に遊戯を仕掛ける、暇を持て余した青年。
訳ありの元御曹司――なるほど、しっくり当てはまる。
少年の丁寧ながらも遠慮のない語り口には、不思議と腹は立たなかった。むしろ、小気味好いと思う。
幼い顔が見せる大人びた眼差しや表情はどこか現実離れしていて、まるでお伽話に出てくる、子供の姿をした妖精のようだ。
暇つぶしの遊戯がこんな結果になるなんて。
不思議とこみ上げてくるのは、愉快な気分だった。鋭い観察眼を持つ少年に、理人は素直に感心していた。
「お見事、君の推察通りだよ。僕は訳ありというわけだ。……ところで、なぜ僕のことを『詩人に転向した』と断言できたんだい?」
気になった個所を訊ねてみると、少年は種を見破られた奇術師のように苦い笑みを見せた。
「恐れ入ります。……実は、乙木夫人からあなたのお話を伺ったことがあるのです。『詩人の千崎さん』は、まるで異国の童話に出てくる王子様のような殿方だと。だから、あなたを見てすぐに、千崎さんではないかと気づきました。長々と能弁を垂れて、大変失礼を致しました」
「……なるほどね」
ここに来て、とんだ種明かしをしてくれる。
まあ確かに、理人の一番の特徴である異人のような容姿に関して、少年があえて口にしなかったことは少し引っかかってはいたのだが。
申し訳なさそうに頭を下げる少年を見ながら、理人は苦笑する。
「まるで『ルンペルシュティルツヒェン』だな。君は最初から僕の名前を知っていたわけだ」
「ええ。どうか怒りのあまり、ご自身の身体を割くことはしないで下さいませ」
少年もまた苦笑して、冗談めいた口調で返してきた。
『ルンペルシュティルツヒェン』は、グリム童話に出てくる小人の名前だ。
王様に無理難題を出されて困る娘の元に現れた小人は、首飾りや指輪と引き換えに娘の願いを叶えてくれるが、最後の願いで娘が最初に生む子供をくれるよう要求してくる。
願いは叶い、王様と結婚して王妃となった娘。そうしていざ、生まれた子供をもらいに来た小人に、娘は子供を奪わぬよう泣いて懇願した。
すると、小人は「三日の間にあなたがわたしの名前を当てたら、子供はあなたのものにしておいていいよ」と条件を出す。
娘は知っている名前、使いの者に調べさせた名前を出すが、小人は「そういう名前じゃないよ」と言うばかり。そして最後の三日目、戻ってきた使いの者が「小さな家で小人が跳ね回り、こう言っているのを聞いた」と話して……。
こうして、使いの者により小人の名前を知ることができた娘は、初めは知らぬふりをしながらも見事に名前を言い当ててみせて、怒った小人は自分で己の身体を真っ二つに引き裂いてしまうのである。
物語の落ちを知ったうえでの少年の返しに、理人はひそかに心が躍った。
一谷に言っても「お前は何の呪文を言っているんだ」と呆れ顔をされて、会話すら成り立たないところだ。
たとえ少年が最初から理人の名を知っていたのだろうと、その過程は十分に楽しめた。怒りが湧くどころか、この賢く謎めいた少年に、理人は興味を惹かれていた。
理人は身を少し乗り出して、少年に尋ねる。
「君、グリム童話が好きなのかい?」
「……ええ」
少年はわずかに目線を落とした後、静かに微笑んだ。
「あなたもお好きなようですね」
「まあ、よく読んでいたが……じゃあ、彼の話とは少し違うけど、これを受け取ってもらえるかな。僕の名を当てた褒美だ」
内ポケットから銀の懐中時計を取り出せば、少年は目を瞠った。受け取れません、と首を横に振る少年に、理人は肩を竦めてみせる。
「あいにく、僕は首飾りも指輪も持っていないし、ましてや子供も産めない。価値のありそうなものはそれくらいなんだ」
売れば多少の価値にはなるよ、と言うと、少年は「そういう価値ではないでしょう」と呆れた息をつく。
「とにかく、これは頂けません。あなたの願いを叶えるわけでもあるまいし」
「ああ、その件だが、僕には少しばかり願いがあるんだ」
「願い?」
「実は今、友人の下宿に住んでいるのだけど、近々追い出されそうでね。職と家を探さなくてはと思うのだが、君の知り合いに良い雇い主はいないだろうか?」
先ほど少年は、乙木夫人から理人のことを聞いたと言った。少年の物腰や身なりからして、良家の子供であることは違いない。
一人で乙木夫人の自宅ではなくサロンに訪れるということは、彼女の個人的な知り合いだろうか。夫人の身内か、それとも知り合いの裕福な家庭の子供か。
少年が何者かは不明だが、仲良くなっておくに越したことはない。
理人は元々、乙木夫人に働き口を紹介してもらう考えでサロンを訪れた。以前にもカフェーの給仕にと誘われたから、十分当てにしていい。少年……正確には少年の身内にも伝手を作っておけば、とりあえず窮状は凌げるだろう。
そんな打算を立てて尋ねてみたわけなのだが、少年は顎に指を当てて俯き、黙り込んでしまった。
あからさまに要求し過ぎたろうかと危惧した理人であったが、少年は特に表情を変えることなく目線を上げた。
「……職なら、ありますよ。ちょうど一人探していたところです」
「おや、それは良い話だね。どんな仕事かな?」
「基本はカフェーの給仕です。カフェーと同じ建物に空き部屋があるので、よければ住居はそこに」
「なるほど、住み込みか。とても良い条件だ」
カフェーの給仕。
想定内だ。
「ちなみに雇い主は?」
「私です」
「……君が?」
この子が、雇い主。
それはさすがに想定外だった。