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高尾山は東京郊外にある山である。
古くから修験道の霊山とされ、多くの信者が訪れる。
また、近年では、登山を楽しむ「ハイキング」に訪れる観光客も増えている。明治・大正時代には華族や学生のものあった登山が、光和の時代になって大衆化したのである。
東京駅から電車で来られるとあって、日曜日にもなれば洋装の家族連れや、古チョッキに古ズボンと言ったハイキングスタイルの男達が頂上を占領する。
かくいう理人も、学生時代には休日に友人達とハイキングに来たものだ。
光和二年には日本帝国で二番目のケーブルカー、高尾索道が開通しただけでなく、高尾山の北東にある廿里に多摩御陵――大正天皇の御陵である――が造営された。
大正天皇を送り出すため新宿御苑に作られた停車場を移築し、浅川駅駅舎が新設されたこともあって、訪れる者は年々多くなっているそうだ。
東京駅から浅川駅までおよそ二時間。
梅雨が明ければ、避暑や行楽でもっと人は増えるのだろうが、平日と言うこともあり乗客はそこまで多くなかった。
学生時代に乗った三等車は、人がぎゅうぎゅうでろくに席にも座れずに息が詰まったものだが、座席数の少ない一等車はゆったりとして、さすがに快適だ。
幼い頃に家族旅行で一等車に乗ったことはあった。だが、あの頃は別の意味で息が詰まるようで、理人はよく外の展望デッキに行っていたことを思い出す。
カホルはといえば、大きな座席に座って窓の外を興味深そうに眺めていた。聞けば、電車に乗るのは七年ぶりだと言う。
それでよく、東京駅まで一人で来たものだ。ガタゴトと一定の振動に眠くなったらしく、カホルはうとうととしている。
この子供は本当に繊細なのか。大胆なんじゃないのかなと、改めて理人は呆れた。
ようやく浅川駅に到着し、カホルを揺り起こして電車から降りる。
寺社風の立派な駅舎を出れば、広場には高尾山行きのバスや車が停まっていた。その中の一台、黒いタクシーを捉まえる。
向かう先は高尾山の北側、駒木野の奥にある小さな村である。住所を告げると、タクシーの運転手の男は一瞬顔を顰めた。
「お客さん、『青の三角館』に行くんですかい?」
「青の三角?……青山さんの別荘のことかい?」
「ああ、そうそう。あの青山様のお屋敷ですよ」
どうやら運転手は村の出身者であったようだ。
舗装されていない土の道に車を進めながら、勝手に話し始める。
青山家の別荘は、村の外れにある立派な洋館で、『青の三角館』と呼ばれて有名らしい。
「いやあ、あそこは村の者でもよお近づきませんよ。あの館は呪われてるって噂ですわ」
「呪われている?」
「ええ。青山様が連れてきた奥方が、あそこで全員いなくなってるんです」
理人とカホルが目線を交わす中、運転手の話は続く。
「崖から落ちたってときは、村中総出で山を探したんですけどねぇ。全然見つからないし、骨はともかく、服や靴の残骸も無いし……っと、お客さん、すみませんねぇ。こんな血生臭い話をして」
「いいえ。実は僕も少し、その噂を聞いたことがあります。駆け落ちされた方もいらっしゃると聞いたのですが、本当なのでしょうか?」
理人が卒なく相槌を打つと、運転手はうんうんと頷いた。
「ああ、二人もいてねぇ。そのうちの一人のときは、うちの村から手伝いに行ってた若い男が一緒にいなくなって、そりゃあ大変でしたわ。その男には幼なじみの仲の良い娘がいたんですけどね、男がいなくなった後は荒れて……」
駆け落ちと噂されて、男の幼なじみは噂を確かめるために館に乗り込もうとしたそうだ。
村の人々は何とか宥めて止めたものの、その娘は数日後に姿を消した。
館に乗り込んだのではないかと言われているらしいが、結局誰も姿を見ていないため、有耶無耶になったと言う。
「実は、ここだけの話……あの館には化け物がいるらしいんですわ」
「化け物?」
「あそこ、しょっちゅう使用人が変わるって知ってます? たいていは外から来た若い娘さんが女中として入って、一か月も経たんうちに姿を消すらしいんですわ。うちの村に、だいぶ前にそこで働いていた婆さんがいてねぇ。婆さんが言うには、化け物が女中の血を啜るのを見たって」
「……」
「まあ、婆さんも歳でだいぶ耄碌しているし、ただの見間違いだと思いますけど。それに、青山様は村の地主より強いもんですから、誰も悪く言えんのですわ。だから妙な噂だけ立って……あ、いや、その、青山様は立派な御方ですよ? 優しくて穏やかな御仁でしてねぇ。村が不作の時にたくさん寄付をくれて、村は助かったようなもんですから。いやあ、村があるのは、青山様のおかげですよ」
運転手は慌てて言い繕う。理人達が青山家の客だと思い出したようだ。
理人は苦笑して「ただの噂ですよね」と軽く返しておいた。しかし頭の中では仕入れた情報を整理する。
奥方が全員いなくなっている点や、使用人がしょっちゅう変わる点は、青山鞠子から聞いた通りである。
怪しいのは、駆け落ちの所だろうか。
たしか五人目の奥方が、恋仲になった使用人の若い男と駆け落ちしたと聞いた。だが、男にはすでに良い関係の娘がいて、その娘も行方不明となった……。この辺りは詳しく調べてみるべきか。
考える理人の横で、大人しくしていたカホルが口を開く。
「血を吸う化け物とは……もしかして『吸血鬼』のことでしょうか?」
「吸血鬼?」
「ええ。ヨーロッパのバルカン地方の伝説に出てくる悪魔のことです。一度埋葬された死者が鬼となって、夜な夜な墓場を出ては人を襲い、生き血を吸うそうですよ」
「ええっ! ちょっと、お客さん、怖い話はやめて下さいよぉ」
運転手が気味悪げに肩を竦めたせいで、車が蛇行して揺れる。ただでさえ道が悪いのだ。理人はこそこそとカホルに注意する。
「カホル君、いきなり物騒なこと言わないでくれたまえよ」
「すみません。先日読んだ本に載っていたもので……ですが、その“化け物”のことも気になりますね」
カホルは、奥方や使用人の連続失踪事件ではなく、化け物の方に興味を抱いたようだ。
相変わらず奇妙な所に目を付けるものだ。そして同時に、それが外れることは無いのだと、理人は今までの経験で知っている。
夜な夜な血を吸う化け物――。想像した理人は、子供だましだと解っていながらも、少しだけ背筋がぞくりとした。




