(5)
青山鞠子から連絡が入ったのは、その三日後のことであった。
彼女はすでに別荘に着いており、予定通り夫の留二は仕事で一週間遅れてくるそうだ。
使用人は別荘の管理をしている老夫婦と、通いの料理人、女中の四人だけで、今なら別荘を調べることができる、ぜひ来てくれまいかと頼まれた。
理人は乙木夫人に連絡を取ろうとしたが、数日前から九州に出張していて直接会うことは叶わなかった。
電話で話した際には、夜会で『青山』という女性に話しかけられたというのは確からしい。依頼の件を話して謝罪すると、苦笑が返ってくる。
『千崎さん、あなたどうしたの? そんな正義感溢れる男だったかしら』
どこか呆れたような、面白がるような口調だ。
『ああ、でもあなた、案外向こう意気の強い方だものね。あんまり無茶すると、カホルさんが心配するわよ』
忠告された後、別荘へ行くことを許可される。青山留二の調査の件は、ひとまず理人が別荘で様子を見聞きして情報を集め、判断するとのことであった。
カフェーの方は三宅に頼み、理人は一人、東京駅へ向かった。
数日分の着替えを詰めたトランクを手に、駅舎に入る。
赤煉瓦でできた駅舎の南側にある、巨大な八角形のドームの吹き抜けの下では、理人のようにトランクを持つスーツ姿の男性や、セーラー服を着た女学生、学生帽を被った学生、野菜の入った籠を背にした行商の老婆など、様々な人が行き交っている。
理人は『三等』と白い文字で書かれた窓口に足を進めた。
電車の車両は三等級制で、三等が一番安く、二等は三等の倍、一等は三等の三倍の運賃がかかる。
今回の経費はできるだけ浮かせたいし、カホルがいるならともかく、自分だけなら三等でも一向にかまわない。
思えば、探偵の仕事を始めてから、一人で行動するのは初めてに近い。
浅草ではカホルと一緒に行動したし、白石家の事件では情報収集を一人で行ったが、それもカホルの了承を得てからの事だった。
こうしてほぼ単独というのは珍しく、妙な緊張がある。ふと脳裏に浮かぶのは、出掛けに見たカホルの顔だ。いつもの澄ました笑顔で理人を送り出した。
この数日、カホルの機嫌はより悪かった。
怒っていると態度には出さないものの、余所余所しい、他人行儀な対応がカホルの機嫌の悪さを示している。理人が勝手に依頼を受けたことに立腹しているようだ。
それもそうだろう。理人の振る舞いは、代理として失格である。
自分でも、なぜあの場で引き受けてしまったのか。今になって反省するが、言ったことは引っ込められない。
まあ、自分がこれで失敗したところで、所詮は代理である。代わりなどいくらでもいるに違いない。それこそ高倉兄妹の方が――。
と考えたところで、理人は頭を振った。
どうにも自棄になっている。これではいけない。
許可をくれた乙木夫人のためにも、依頼をしてきた青山鞠子のためにも、最低限の義務は果たさなければ。
気を取り直したところで、中央本線の窓口に並ぶ。理人が目指すのは、高尾山の最寄りの浅川駅だ。
窓口の女性に理人は微笑みかける。
「浅川行きの切符を一枚――」
「いいえ、二枚下さい」
理人の言葉を、後ろからはきはきとした声が遮った。
「え……」
驚いて振り向くと、そこには一人の子供がいた。
膝下丈のズボンにベスト、鳥打帽に小さなトランク。いつもよりも動きやすそうな旅装をしたのは、小野カホルであった。
「カホル君! 君、どうしてここに?」
「私はあなたの『助手』ですから。『先生』一人では心配なんです」
澄まし顔で言われて、理人は少しむっとする。振り返って、カホルを見下ろした。
「こっちだって心配だよ。君、人の多いところは苦手なんだろう? 電車なんて以ての外じゃあないか。三等車なんかに乗ったら、君はすぐにひっくり返るよ。倒れられたら困るんだ」
「それでしたら、一等車に乗ります。一等車なら人は多くないので大丈夫です」
胸元から財布を取り出しながら、カホルは平然と答えた。
窓口の女性は困惑と興味の混じった視線で、理人とカホルを交互に見てくる。
「あのぅ……結局、切符はどうなさいますか?」
「三等を一枚で」
「でしたら、私は一等の方を買ってきます。あなたはどうぞお好きに、三等車両に乗って下さい」
「……」
「……」
「…………すみません、切符はいいです。失礼します」
睨み合いは数秒続き、折れたのは理人の方であった。窓口で諍いを起こして注目を浴びるのも困るし、こちらの我を通したところでカホルが折れるとは思えなかった。
そもそも、この人のごった返す東京駅に一人でやってきたことが、カホルの意志の強さを示している。
理人は少し強引にカホルの腕を引いて、人の少ないところへ移動した。
「まったく……君は何を考えているんだ。この依頼には反対していただろう?」
「反対していたわけではありません。文子さんの了承が必要だと言っただけです。文子さんから了承を得たのなら、私が行っても問題はないでしょう? あなたが勝手に、一人で行くと決めただけではありませんか」
相変わらず可愛くない答え方をするものだ。理人は小さく息をつく。
「……君は頑固だな」
「あなたの方こそ。……どうして、一人で行くなんて言うんです」
立ち止まったカホルの手に、理人の腕が逆に引っ張られる。カホルの黒い目が、理人を見上げてきた。
「私の助けは必要ないと言うことですか? 探偵の仕事に慣れてきたのはわかりますが、あなただけで解決できるとでも? あなたの能力が高いのは認めますが、まだ一人で任せることはできません。……ああ、すみません、違います。言いたいのはそういうことではなくて……」
カホルの言葉の勢いは次第に弱くなる。伏せられた顔の代わりに、理人の袖を掴む手に力が籠り、シャツの皺が深くなった。
「……私も行きます。置いていかないで下さい」
「……」
理人はしばらく無言でカホルを見下ろした。
――時々、こうやって子供のように無防備になるから、対処に困るのだ。
カホルは、一谷のような友人でもなければ、理人が気安く口説いて付き合える女性でもない。
普段は生意気で小賢しくて、理人も遊戯をしているように言葉で遊べる。遊戯の勝敗を競うように、言葉のやり取りを楽しむ――そんな関係だから、素直な言葉で来られると、理人もどう返せばよいのかわからなくなってしまう。
理人は溜息の代わりに、袖を掴むカホルの手を掴んだ。
引きはがされると思ったのか、カホルの細い肩が小さく跳ね上がる。だが、理人は彼の手を掴んだまま、『一等』と書かれた窓口に足を向けた。
「一等車の料金は払ってくれるのだろうね? 僕はそれほど持ち合わせがないんだ」
「……」
「それから、淑乃嬢と伸樹君に責められたときは、ちゃんと庇ってくれたまえ。僕は悪くは無いとね」
理人がお道化て片目を瞑ってみせれば、カホルは数度瞬きして答える。
「……問題ありません。すでに二人には、私の一存で千崎さんと一緒に行く旨を伝えましたから。私の方が叱られることになると思いますので、できれば庇っていただけると助かります」
「それはまた、無理難題を吹っかけてくれるね」
「成功報酬は弾みますよ」
「魅力的な案だが、これ以上あの兄妹に恨みを買いたくないなぁ」
肩を竦めた理人に、カホルはようやく、いつものようににこりと笑った。




