(2)
雨の日は客足が遠のくものだと思っていた。
しかし、カフェー・グリムには、通常以上の賑わいがある。
この店の売りは、舶来の美味しい珈琲や菓子だけでなく、希少な洋書を含む棚いっぱいの本。
晴耕雨読とあるように、雨で外出が気鬱になる日は、室内で珈琲片手に読書を楽しむが好し。そんなわけで、梅雨に入った六月半ば以降、カフェー・グリムにはいつもより多くの客が訪れている。
今日も雨がしとしとと降る午後、理人は買い出しで頼まれた檸檬を抱えて帰路を急いでいた。
先日から、カフェーでは軽食としてサンドウィッチを提供している。
もともとは賄いで、カホルや理人の昼食用にと三宅が作ってくれていたものだ。耳を切り落とした薄い食パンに、イチゴジャムやマーマレードジャム、ゆでた卵を荒く潰してマヨネーズで和えた具を挟む。
以前は常連の一部に頼まれたときにだけ出していたのだが、いつの間にか噂が広がって、注文する者が多くなった。
人手が増えて余裕が出てきたこともあり、三宅はサンドウィッチをメニューに加えることを決めたようだ。以来、珈琲と共にサンドウィッチを頼むものが増えている。
しかし、丁度、マヨネーズに使う檸檬の在庫が切れてしまった。
マヨネーズは本来なら卵と油と酢だけで作れるそうだが、三宅のこだわりで檸檬の搾り汁を加えている。
また、この蒸し暑い時期に注文が増えるレモネードにも、檸檬は欠かせない。檸檬の搾り汁に甘いシロップを加えて、水で割ったレモネードには、ほんの少し塩を加えるのが三宅流である。
そんなわけで檸檬の消費が激しく、理人は急遽近くの商店に買い出しに行くことになったのである。
白シャツに黒いベストの給仕姿で黒い傘を差し、神保町を歩く理人はひときわ目立つ。
最初こそ驚かれたものの、近頃は近所の古本屋や飲食店の店員ともすっかり顔なじみになった。通り過ぎる際は挨拶する仲になっている。
乙木ビルの二軒隣の古本屋の店主に呼び止められ、理人は足を止めた。
「おお、千崎君、丁度良かった。このお嬢さん、あんたんとこのお客さんらしいよ」
白髪頭の店主の隣に立つのは、洋傘を差した女性だ。黒いレェスの縁取りが付いた黒い傘をわずかに上げて会釈したのは、うら若い美女であった。
歳は二十歳前後に見える。
ほっそりした身体に、襟の高い紺色のワンピースを纏っていた。
ところどころレェスやオルガンディーの薄物を使用したワンピースは、上品で露出が少なく、手には同色のレェスの手袋も嵌めている。ワンピースの丈も足首近くまであり、一昔前の夜会時に着るドレスを思わせた。
女性の白い面差しは綺麗な卵型で、大きな垂れ目と小さな赤い唇、口元の黒子が愛らしくも色気を漂わせる。無垢な幼さも感じる風貌ながら、どこか落ち着いた雰囲気もあった。
長い睫毛に縁どられた黒い目が、理人を見上げてくる。
「あのう、カフェー・グリムの方でございましょうか?」
「はい。給仕をしております」
理人が頷くと、女性は少し躊躇うように目線を一度落とした後、唇を開く。
「私、その……乙木文子様に教えて頂いて参りましたの。どうしても、ご相談頂きたいことがありまして……」
顔を上げた女性の、切羽詰まった眼差しに見据えられ、理人は気づく。
――彼女はただの客ではない。
カフェー・グリムの、秘密の探偵業の依頼者だ。
「……かしこまりました。こちらへどうぞ」
理人は女性を促し、カフェー・グリムへと案内した。
***
檸檬と共に女性の客を連れ帰ってきた理人に、三宅は数秒動きを止めたが、すぐに笑顔で迎えた。
「買い出しありがとう、理人君。ところで、そちらのお嬢さんは……」
「乙木夫人の紹介で来られたそうですよ。三宅さん、何かお聞きですか?」
「……いいえ。念のため、確認をお願いできますか?」
三宅の言葉は、カホルに聞いて来いと言う意味だ。
承知していた理人は、ひとまず女性を一番奥のテーブル席に案内する。「少々お待ち頂けますか」と女性を待たせて、店の奥へと向かった。
奥の壁、天鵞絨のカーテンを横にずらして、階段を降りる。
「カホル君、起きてるかい?」
「はい」
意外にも、すぐにはっきりとした返事が返ってきた。
この時間帯、カフェー・グリムの雇われ店主である『小野カホル』は、大抵午睡をとっているものだ。
半地下の書斎を見回せば、カホルはいつも座っている席ではなく、壁一面の本棚の前に小さく座り込んでいた。
絨毯の上には、何冊もの本や雑誌、ペンを走らせた跡がある半紙が乱雑に広げられている。その中心、カホルは胡坐をかいた膝の上に大きな本を広げて、何やら読み耽っているようであった。
「おや、珍しいね。いばら姫のように眠っているかと思っていたのに」
「午前中にたくさん眠ったので、目が冴えて敵いません……今日の仕事も片付いて時間がありましたので」
世界の怪事件や伝説に関する書物を読んでいました、とさらりと言う。
カホルの開いたページの挿絵には、何やら串刺しになった人がたくさん描かれていた。
「これは十五世紀頃のヨーロッパで実際に遭った処刑方法だそうですよ。見せしめの意味もあって、戦争では敵軍の兵士をこのように処刑して晒し、相手の戦意を削いだようです。ハンガリー公国の隣、ワラキアのヴラド・ツェペシュ公が有名で……」
「ずいぶんと物騒なものを読んでいるね」
「あ……失礼しました」
カホルは本を閉じて、軽く咳払いする。その頬はやや赤くなっていた。
「その、最初は知り合いが書いた探偵小説を読んでいたのですが、その中でヨーロッパの残忍な殺人事件が載っていまして、処刑方法に関する記述でわからない部分がありましたので、そちらを調べていたら、今度はヴラド公の話が載っていて……」
なるほど、興味が湧いて次々に調べていたのか。カホルが物知りなのは、この探求心旺盛な性格のおかげだろうか。
理人は「謝ることじゃないよ」と苦笑する。
「興味を持って調べるのは良いことだよ」
「……ありがとうございます」
カホルもまた苦い笑みを返してきて、散らばった本を片付ける。
どこかぼんやりと覇気が無いように見えるのは、ここ最近、彼がこの部屋からほとんど出ていないからだろう。
――五月の末に浅草で起きた子供の行方不明事件。
見事解決に導いたカホルであったが、その際、体の不調で二度も倒れることになった。
カホルの使用人である高倉伸樹と淑乃の兄妹は、ひどく心配した。
事件の経緯はカホルの親族の耳にも届くことになり、カホルはしばらくの間、探偵稼業を止められているようだ。乙木夫人から依頼が来ることも無く、一度カホルに謝罪に来たようだが、この三週間は音沙汰がない。
であるので、理人も専らカフェーの給仕に徹している。
カホルの書斎に降りるのは、午前と午後、珈琲の味を確認するときくらいで、ほとんど出入りをしていない。
六月に入ってからの客の多さと、三宅から料理を習うようになったこともあって、理人もそれなりに忙しいのだ。
……というのは言い訳で、前回の事件の後、どうにもカホルと顔を合わせるのが気まずかっただけである。
事件解決後の夜に、カホルに放った自分の台詞を思い返すのは恥ずかしく情けなく。カホルもまた何も言ってこないものだから、余計にもやもやとしてしまうのだろうか。
もっとも、時間が経てば落ち着くもので、今は態度を取り繕うのに支障は無い。
本を棚に戻すカホルを手伝いながら、理人は普段の口調で用件を告げる。
「カホル君、乙木夫人の紹介で相談に来た女性がいるのだけど、何か聞いているかい?」
「え?」
カホルは手を止めて理人を見上げてくる。そのまま首を横に振った。
「いいえ、何も連絡はありませんが……」
「そうか。……今、上に来ているのだけど、どう対応しようか」
乙木夫人から何の連絡もなく依頼が来ることは無い。
だが、あの女性は乙木夫人から教えてもらったと言っており、どこか切羽詰まった様子もあった。
乙木夫人が連絡を忘れているか、あるいは連絡をカホルの親族や高倉兄妹が阻んでいるか……どちらにせよ、即断で決めることは難しいのだろう。
しばらく考え込んでいたカホルが、眉を顰めながら口を開く。
「文子さんに確認します。勝手に依頼を受けて、彼女に迷惑が掛かってはなりませんから。その女性の方には申し訳ないけれど、お帰り頂いて――」
カホルが言いかけたときである。
「お客様、大変申し訳ございませんが、こちらへの立ち入りはご遠慮下さい」
「でも私、どうしても聞いてもらいたいことがあるんです!お願いです、どうか話を――」
上から、三宅の声と女性の声が響いてきた。
「……」
「……」
理人とカホルは、無言で顔を見合わせる。
静寂が売りのカフェーに、喧騒は好ましくない。店内の他の客がさぞ迷惑していることだろう。カホルが小さく息をつく。
「……依頼を受けるかはともかく、話だけ伺うことにします。千崎さん、仕事中に申し訳ありませんが、同席して頂けますか」
「ああ、勿論。これも僕の仕事だしね」
理人はにっこりと笑って、階段の方へと向かった。




