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帝都メルヒェン探偵録  作者: 黒崎リク
第五話 浅草ハーメルン
52/77

(13)


 理人が乙木ビルに帰り着いたのは、夜の十時を過ぎた頃であった。


 浅草の神谷バーではひたすらに飲み、食べたものだ。仕事の疲れが出たのか、一谷は途中でテーブルに突っ伏して寝入ってしまった。

 理人はタクシーを呼び、本郷區の真砂町の下宿まで彼を運んだ。むにゃむにゃと「泊まっていけ」と言う彼を布団に寝かせて、理人は下宿を出た。

 なぜだか今日は、これ以上彼に甘えることに気が引けたのだ。


 市電がまだあったので、神保町まで電車に揺られ、停車場から歩いて乙木ビルに向かった。

 さすがに夜風は涼しく、アルコールで火照った頬は冷めたが、頭の中までは冷まし切れていないようだ。乙木ビルのエントランスの階段を登ろうとして、軽く躓いてしまう。


「おっと……」


 ――少し、飲みすぎたかもしれない。

 壁に手をついて転倒を免れた理人に、涼し気な声が掛かる。


「大丈夫ですか?」


 上から降ってきた声に、理人は顔を上げた。白い洋シャツにサスペンダー、長ズボンに、見覚えのある鳥打帽を被った青年――高倉伸樹たかくら のぶきが、軽い足取りで降りてくる。


「ずいぶんと飲んでいるようですね。歩けます?」


 アルコールの匂いでわかったのだろうか。部屋まで送りましょうか、と手を差し出してくる彼に、理人は首を横に振った。


「いや、大丈夫だよ。どうも」


 酔いを醒ますように深呼吸して、壁から手を離す。理人は階段の途中に佇む伸樹を見上げた。


「どうして君がここに?」

「エルゼを連れてきたんですよ。カホルさんが眠れないそうなので、添い寝の相手にと思いまして」


 昼間だとシェパードは目立ちますから、と事もなげに伸樹は答えた。


 この数日、カホルはカフェー・グリムにほとんど顔を出していない。

 先日、子供達を捜すために囮になった際、カホルはやはり無理をしていたようだった。拘束されながらも他の子を庇っていたが、伸樹に助け出された途端に具合を悪くしてしまった。

 その後、警察が事情聴取する際には、伸樹がカホルの代わりに答えていたものだ。ちなみに、カホルが謎を解いたことは上手く伏せていた。


 心配していた淑乃女史は帰ってきたカホルを早々に部屋に連れていき、安静第一と仕事を休ませた。

 管理人室にいる淑乃は、ぴりぴりとした空気を発しており、ビルの住人の花村や桐原も何事かと勘繰るほどであった。

 特に理人は、淑乃からきつい睨みを受けてしまった。以前からあまり好かれていないと思ったが、どうやらカホルに関わることで理人を敵視しているようである。


 そう、兄である伸樹と同様に――理人を、快く思っていないのだ。


 伸樹を見上げながら、理人は口を開く。


「君は……カホル君の何を知っているんだい?」


 尋ねる理人に、伸樹はわずかに目を瞠る。そうして、可笑しそうに口元を歪めた。


「何をって、だいたいのことは知っていますよ。俺はあの人が赤ん坊の頃から、ずっと側にいたんですから。俺だけじゃない、淑乃もです」


 かつん、と靴音が響く。伸樹がゆっくりと階段を降りてくる。

 理人と目線が合う一段上で、伸樹が立ち止まった。


「正直、これ以上あなたに関わってほしくないってのが、俺達の本音です」


 きっぱりと言う伸樹は柔らかく微笑んでいて、本気なのか冗談なのか、理人に区別はつかない。


「……それなら、僕を辞めさせて、ここから追い出すかい?」

「いいえ、それはしません。あの人があなたを選んだから」


 そう答えて、伸樹は理人の横を通り過ぎた。だが、エントランスを出て行く寸前で振り返る。


「ああ、そうだ、一つだけ教えて差し上げます。カホルさんが苦手なもの。人が多い所やうるさい所なんかも、あの人は駄目なんですよ。他の人より感覚が鋭いんです。あんな浅草の人込みに連れていったら、すぐに目を回してしまいますから」


 だから、市電になんかも乗らせないで下さいよ――と忠告して、伸樹はガラス扉を押して出て行った。





 三階に辿り着いた理人は、自分の部屋には向かわずに、そのまま屋上への階段を上った。

 理人の予想通り、屋上の扉は鍵が掛かっていなかった。押し開けば、びゅうと風が頬に当たる。

 ランプが置かれた道を辿って着いた先には、白い西洋風の四阿ガゼボがある。

 開きっぱなしの扉の向こうで動いたのは、ベンチに横たわる茶色の毛並みの大きな身体。ピクリと鼻と耳を動かして理人の方を見てくるのは、エルゼだった。

 同時に、エルゼに引っ付くように座っていた黒髪の子供――カホルも顔を上げる。


「……千崎さん?どうしてここに……」

「やあ、こんばんは。具合はどうだい?」


 理人は四阿の前で立ち止まって、軽く声を掛ける。ランプの光の下で、黒い瞳がわずかに揺れた、


「ええ、もう大丈夫です。心配をおかけして申し訳ありませんでした。明日からは、カフェーの方に行きますから」


 カホルは微笑んで言う。その笑顔と返事に、理人の胸は詰まる。失望とは、こういう気持ちを言うのだろうか。

 しかしそれを顔には出さずに、理人も微笑み返した。


「そう、それは良かったよ。あまり無理をしないでくれたまえよ。君に倒れられたら、僕の職が無くなってしまうかもしれないんだからね」


 冗談めいた言葉だけ言って、去れれば良かった。


 だが、きっと自分は酔っていたのだ。

 電気ブラン六杯分のアルコールは、理人の理性と虚勢を、少しだけ崩していた。


「……ねえ、カホル君」

「はい、どうしましたか?」

「僕は、この仕事に必要なのかい?だって……」



 僕がいなくとも、君は謎を解けるじゃないか。

 僕でなくても、伸樹君や淑乃さんがいるじゃないか。


 ――僕は、君に必要とされていないんじゃないか。



 残った理性が働いて、理人は言いかけた台詞を飲み込む。

 心の内を曝け出さずには済んだが、自分が発そうとしていた言葉の内容に愕然とする。


「っ……」


 理人の様子がおかしいことに気づいたようで、カホルが「千崎さん?」と眉根を寄せる。


「大丈夫ですか?随分とアルコールの香りがします。具合が悪いのでは……」

「いや、大丈夫。……大丈夫だよ」


 理人は口元を押さえて、カホルに背を向ける。これ以上の醜態を晒してはなるまいと、足早に去ろうとした時だった。


「――千崎さん」


 カホルの声が、理人の足を止める。


「私は……」


 躊躇うように言葉が切れ、やがてすっと息を吸い込む音がする。


「私は、あなたに、私の名前を当ててほしいのです」

「……」


 どうして、僕なんだ――。

 その理由を聞ければよかった。


 しかし理人は「そうかい、頑張るよ」とだけ返して、足を進める。


 今頃になって、冷たい風は頭の中まで冷やし切ったようだ。屋上に来るんじゃなかったと、理人はひどく後悔することになった。





これにて第五話は終了です。

少し不穏な終わり方になってしまいました。

次話までしばしお待ちいただけますよう。



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