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帝都メルヒェン探偵録  作者: 黒崎リク
第一話 いばら姫の名前当て
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(4)


 まだ十代前半くらいだろう。

 少年は白いシャツに薄墨色のベストとズボンをまとい、こげ茶色の革靴を履いている。シャツの襟元は緩められ、解かれた臙脂色のリボンタイの端が時折思い出すように風にそよいだ。

 白いクッションを枕にして眠る少年の胸の上には、読みかけであろうドイツ語の洋書が開いたまま乗っている。


 寝ている最中に床に落ちたのか、長椅子の下に丸まっている薄墨色の上衣を、理人は拾い上げた。すると、間近で少年の顔を見ることになる。

 少し長めに切り揃えられた黒髪が、さらりと風に揺れる。あどけなさを残した卵型の小さな顔には、小ぶりながらも形のよい鼻と薄紅色の唇が配されている。

 長い睫毛に縁どられた眼は閉ざされてはいるが、まるで少女と見紛うような、なかなかに造作の整った少年であった。

 これが美女であれば、まるで童話の一場面のようだ。


 薔薇の香りがするサンルームは、茨の棘に覆われた古城。

 少年は、百年の間眠り続けるいばら姫。


 ならば理人は、眠るお姫様を助けに来た王子様――というところだろうか。


 メルヒェンな想像に忍び笑いを零せば、気配に気づいたらしく、長椅子の少年がわずかに身じろぎした。穏やかな寝顔の中、滑らかな眉間に小さな皺が寄る。

 やがて少年の白い瞼が微かに震えて、ゆっくりと開く。

 現れたのは、濡れた小鹿のような黒目だった。瞬きをして焦点を結ぶ目が理人を捉えた。


「やあ、おはよう」


 声を掛けると、少年は無言のまま、黒目がちな目を丸くして見上げてきた。

 驚いた表情は幼く無防備で、ふと悪戯心をくすぐられる。理人は長椅子の背に手をかけて身を屈め、少年の顔に己の顔を寄せるようにして囁いた。


「いばらの城のお姫様、目覚めの接吻キスはご入り用かな?」


 女性達が見惚れるであろう、最上級の笑顔と共に問えば、寝起きの少年は丸くした目をさらに大きく瞠った。白い頬にわずかに朱が走る。

 最初こそ戸惑ったように目を瞬かせていた少年だったが、やがてその表情に落ち着きが戻ってくる。

 濃い焦げ茶色の光彩と黒い瞳に理性の光が灯り、彼の唇が穏やかな笑みを作った。


「貴方が私の王子様で、呪いが解けるのなら、喜んで所望したいところですね」

「……」


 少年が焦ったり狼狽えたりする様を期待していた理人は、予想外の反応に面食らった。

 少年がいばら姫の話を知っていることもさながら、ユニークな切り返しや静かな眼差しがやけに大人びていたからだ。

 子供を揶揄ってやるつもりが逆に返されて、してやられた気分だ。

 参ったな、と理人は苦笑して身を起こす。少年も長椅子から起き上がろうとしたので手を差し伸べれば、素直に手を握ってきた。ほっそりした手に見合った軽さが腕に伝わってくる。

 ついでに拾った上衣を渡せば、少年は受け取って礼を言った。子供特有の澄んだ高い声は落ち着き払っている。


「ありがとうございます」

「どういたしまして」

「ところで、あなたはどなたでしょう?」


 上衣に袖を通し長椅子にきちんと座り直した後で、今さらながら少年は尋ねてくる。小首を傾げる少年に、理人は軽く肩を竦めてみせた。


「君の王子様でないことは確かかな」

「おや、それは残念です」


 少年の切り返しは早い。

 頭の回転の速さを生意気と取るか、面白いと取るか。理人は後者の方であった。

 乙木夫人を待つ間の暇つぶしができそうだ。

 理人は持っていた洋書をテーブルに置くと、少年の向かいにある一人掛けの籐椅子に腰を下ろして脚を組む。ゆったりと指先を組み合わせて、少年を見やった。


「それじゃあ、君が僕の正体を当ててみてくれないかな?」

「……わかりました」


 遊びを持ち掛けてみると、少年は困惑する様子もなく、あっさりと乗ってきた。

 開いたままだった洋書を閉じた少年が、理人をじっと見つめてきた。視線を感じていたのは十秒か、二十秒か。少しの沈黙の後、少年が口を開く。


「性別は男性、年齢は二十代半ば。身長はだいたい六尺と一寸、随分と背が高い。スーツが良くお似合いです。そちらは銀座の『三星堂みつぼしどう』で仕立てたものですね」


 三星堂は、銀座でも名のあるドレスメーカーである。

 海外で修業を積んだ熟練のテーラーが揃い、機能性と品格を兼ね備えたスーツを作り上げると上流階級に評判だ。


「正解。よくわかったね」

「とても丁寧に仕立てられていますし、その星の模様のボタンは独特ですから」


 上衣の左の袖口の小さな銀色のボタンには、三つの五芒星が浮き彫りにされている。

 三星堂で仕立てる洋服には必ず一つ付けられるものである。よく目に留めたものだ。「知り合いが三星堂を贔屓にしておりまして」と少年は言葉を添えた。


「シングルの三つボタンで、襟はピークラベル。色は利休鼠色。布地の色の褪せや擦れ具合から、少なくとも二、三年は経っている。あなたの年齢や体格からすると、変動が少ない五年以内には作られているかと」

「まあ、そうかな。しかしそれはスーツの話で、僕の話ではないんじゃないかな」


 指摘すると、少年は軽く微笑んだだけだった。


「そうでもありませんよ。数年前には、あなたに三星堂で上等なスーツを仕立てる経済力があったということですから。あなた自身の言動や物腰からも、裕福な家庭で躾けられて育ったことが見受けられます。洋装も慣れているようです。……ですが、近年ではあまり余裕が無いように見られますね。そのスーツ、少し色の違う糸で繕った箇所や違う型のボタンが見られます。本来ならば三星堂で修繕を頼むか、いっそのこと新しいスーツを仕立てればいい話です。ですので、今はそれができる経済力がないと推測できます。……まあ、あなたが着道楽ではなく、手先が器用で物を大事にする性格であるだけなら、見当違いになりますが」

「……なるほどね」


 なかなかの観察眼である。理人は足を組み替えて、目線で少年の回答の続きを促した。


「それでは続けます。平日の昼間から、乙木夫人のサロンに訪れるのは普通の勤め人ではありません。ここに立ち入る者は画商や好事家……ですが、あなたはそれらではない」

「おや、それはどうして?」

「彼らの商売気質や芸術品へ情熱や執着が無いように見えたものですから。それにスーツの件が正しければ、芸術品を買うための経済力がおそらくは無いでしょうから」

「痛いことを言ってくれるね」

「申し訳ありません。……さて、残るは乙木夫人に出入りを許された芸術家です。画家や彫刻家、陶芸家であれば、そのように小奇麗な格好でここには訪れません。作業中に汚れますから。あなたの手は顔料や土で汚れている風でも無いし、荒れてもいない。そうすると、あなたは作家か詩人ということになりますね」


 正解に近づいてくる少年の言葉を、理人は薄く笑みを浮かべたまま余裕の気持ちで聞いていた。



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