(8)
挿絵を覗き込みながら、一谷がううんと首を捻る。
「似ていなくはないが……これは、その……おとぎ話じゃないのか?普通、こんな魔法みたいなことはできんだろう」
一谷の指摘ももっともだ。
笛を吹くまだら男と子供の行方不明……たしかに似たような事件かもしれないが、現実に笛吹き男のようなことが起こるとは思えない。
「確かにこの話自体は、伝説の一つです。百三十人の子供が失踪したのは実際にあったことだそうですが、笛吹き男が実在したかは不明です。山崩れや疫病で亡くなった、別の町への移住、単なる作り話……など様々な説があるそうです。中には、盗賊や修道士に誘拐されたという説もあります」
話を持ち出したカホルもまた、一谷に同意するよう頷いた。
「今回の事件も決して魔法ではないでしょう。おそらくは催眠術のようなものだと思います」
「催眠術?ショーでやっていた、人を操る霊術とかいうやつか?」
催眠術は今から十年以上前に大流行した。関する書物が売れただけでなく、催眠ショーと銘打って浅草の見世物にもあったくらいだ。
もっとも、風俗の乱れになると危惧され、今は法律で催眠術を施すことが禁じられている。
「だが、あれもペテンだろう」
顔を顰める一谷に、理人は「いや」と言葉を挟む。
「一概にはペテンと言えないようだよ。医大でも精神療法として研究が進められていると、桐原さんから聞いたことがある」
新米医師である桐原隼は乙木ビルの住人であり、カフェー・グリムの常連でもある。理人は、週に一、二度は訪れる彼との雑談でそんな話を聞いたことがあった。もっとも、本人は外科が専門らしく、あまり詳しくは無いと言っていたものだ。
桐原と面識がある一谷は、ううむと唸って押し黙る。代わりに理人がカホルに尋ねた。
「それで、まだら男は催眠術で子供を操っているというわけかい?」
「ええ。暗示をかけて、自らの足で失踪するように仕向けているのです」
「だけど、一体いつ暗示をかけたというんだい?こんなに大勢の人がいる中で、子供だけを狙って催眠術にかけるくらいなら、いっそその時に攫ってしまった方が楽なんじゃないかな。わざわざ術をかけてから、子供を攫う必要があるのかい?」
理人は学生時代、興味本位で催眠関連の本を読んだことがある。
催眠術は相手を睡眠に似た状態にして、暗示をかけやすくする術だ。一点に意識を集中させることで、無意識の部分に命令して脳を従わせる……というものだった。
他所の子供を眠らせるのも一苦労だろうし、集中した状態に持っていく間に邪魔されれば、暗示はかけられずに失敗する。そんな手間をかけてまで、催眠術が必要になるのだろうか。
理人の問いに、カホルは首を横に振った。
「“まだら男”は、子供だけに術をかけたのではありません。すべての人に……そう、あなたにも一谷さんにも、術はかけられていました」
「え?」
「昨日、サアカスの活動写真を見たでしょう?まだら男は活動写真を使って、観客全員に催眠術をかけていたのですよ」
カホルの言葉に、一谷がぎょっとして反論する。
「ちょ、ちょっと待て、小野君。俺達も催眠術にかかっているということか?それは無いと思うが……だいたい、それならば子供だけじゃなく大人も失踪するじゃあないか」
昨日行った活動小屋は、他に比べれば客が少ないとはいえ、一回の上映で五十人以上は人が入っていた。休日であれば、一日で大人子供合わせて、数百人は活動写真を見るはずだ。そんな集団が催眠術にかけられて行方不明になれば、世間はもっと騒いでいることだろう。
カホルは淡々と答える。
「催眠術は、全ての人にかかるわけではありません。『ハーメルンの笛吹き男の話』でも、盲目の子と聾唖の子だけは残されたという逸話もあります。目が見えない、耳が聞こえない子は、暗示にはかからなかった……個人差もありますが、あの活動写真は、特に子供だけにかかるように仕掛けがしてあったのです」
「仕掛け?」
「ええ。それが“笛の音”ですよ」
昨日、カホルが何度か呟いていた言葉だ。だが、理人達が見た活動写真は無声で、音なんて一つもしなかったはずだ。
聞こえない笛の音――。どういう意味かと理人が尋ねようとした時だった。
それまで静観していた伸樹の足元で、二頭のシェパードがぴくっと耳を震わせる。立ち上がったハンスとエルゼは、小首を傾げつつ、辺りを警戒するように見回した。
「……始まったようですね」
眉を顰めたカホルが、暮れた空を映すひょうたん池を見つめた。




