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カフェー・グリムの給仕以外の仕事――乙木夫人の代理として探偵の依頼を受ける際、通常の給料に臨時分が追加される。家賃や光熱費を天引きしても、ひと月で十円以上もらえ、かなりの好待遇だ。
もっとも、探偵の仕事はさほど多くない。
理人が関わったのは、この一か月半で三件。
金の鳥の館の事件、雪子姫の事件、それからつい先日は猫探しの依頼を受けたが、数日後飼い主の所に戻って来たそうで、ほとんど何もせずに終わった。
さて、今回の依頼は何であろう。
昼の休憩をかねて地下の書斎に降りた理人は、昼食のサンドウィッチ――薄い食パンに三宅のお手製のオムレツが挟まっている――を齧りながら、カホルの説明を受ける。
今回の依頼は、乙木夫人の知人で、いわゆる名士と呼ばれる立場の人からのものだった。理人でも、その名を知っているくらいだ。
何でも、十一歳の息子が行方知れずとなり、公にはせずに探してほしいとのことだそうだ。一応警察に届けは出しているが、息子が中学校への受験を控えているため、大きな問題にはしたくないらしい。
「ご子息がいなくなったのは、浅草公園に遊びに行った帰りだそうです。夕方、いつの間にか姿が見えなくなっていたそうで」
カホルはジャム入りのサンドウィッチを片手に話を進める。
「近頃、浅草區や下谷區、本所區……その近隣の區で、子供の失踪事件が相次いでいるそうです。一谷さんが捜査しているのも、おそらくは。各署協力しての大規模な捜査を密かに行っているそうですので」
「……どこからそんな情報を手に入れるんだい」
呆れる理人に、カホルは「文子さんや、いろいろな方から」と曖昧な回答をする。
乙木夫人もだが、カホルもまた、その人脈は計り知れない。店に訪れる客の中には、地下の書斎に勝手知ったように降りる者もいるくらいだ。
「一谷さんから何か情報を聞ければと思ったのですが……思ったより口が堅い」
好ましい方です、とカホルは思い出したように微笑む。
「淑乃から彼の話を聞きました。あなたはいい友人をお持ちですね」
なぜだか一谷を気に入っているカホルに、理人は少し面白くない。そうかな、口煩いだけだよ、と返すと、大人びた笑みが返ってくる。ますます面白くない。
一谷の話を終わらせるように、理人はサンドウィッチの残りを口に放り込んだ。マヨネーズという調味料の酸味に、バターの塩気と卵の甘味がよく合って絶品であった。
珈琲を飲んで一息ついてから、理人は「それで」と話を戻した。
「これからどうするんだい?今回の事件は警察も捜査しているのだろう?」
「……ひとまず調査をして、警察に任せた方がいいと判断した際には、文子さんから相手方に伝えてもらいます」
「ならば、まずは浅草公園に行くのかな。浅草はここ最近行っていないなあ。封切のキネマもいいけど、水族館のカジノ・フォーリーという劇団がなかなか面白いそうだよ。時間があれば見て回りたいね……」
理人が言うが、カホルはどこか曇った表情だ。
「カホル君?」
「……それでは、明日の午後三時に浅草公園に行きましょうか」
カホルはいつもの笑みを浮かべて、赤いジャムが塗られたサンドウィッチをもそもそと齧った。
***
浅草は、江戸時代から続く一大歓楽地である。
その歴史は古く、東京きっての古寺である浅草寺は推古天皇の時代に創建され、浅草寺の参道にある仲見世は、江戸時代の前半に商店の営業が許可されたのが始まりだという。
明治六年、東京府は浅草寺境内を公園に指定し、明治十七年には浅草寺周辺の区画整理を行った。
田んぼだった土地の一部を掘って池を作り、西側と東側を整地、さらに一区から七区に区画分けがされた。
一区には浅草寺と境内、二区と五区には参道の仲見世、四区には水族館や木馬館、五区には花屋敷というように浅草には人々が集う見世物が多くあったが、やはり一番は浅草六区であろう。
浅草寺裏手の六区には、歌劇や演劇、落語を披露する演芸場や、和洋のキネマを流す活動写真館が多く立ち並ぶ。
常盤座に電気館、松竹館に帝国館に富士館……『誰が彼女をそうさせたか』『フランダースノ少年』といった色とりどりの幟が風に揺れる。
日曜祭日になれば通りは人で埋まり、大きな活動写真館では一回で二千人以上が入場するほどの盛況ぶりであった。
平日の今日は人が少ない方ではあるが、久方ぶりの喧騒に理人は少し胸が躍る。
カフェー・グリムのある神保町から浅草公園までは、いつも通りタクシーを使って移動した。理人は内心では地下鉄を使いたかったが、カホルに却下されたのだ。
あまり乗る機会がないが、あの地下の空間に巻き起こる風や、自動改札機の回転する木の棒を押すのは、なかなかに楽しいのに。
しかし、カホルは浅草の入り口とも言える雷門に着いてから、どこかぴりぴりと緊張した空気を出しているので、愚痴は言えなかった。
雷門は江戸の頃にはちゃんと門があったらしいが、今は地名のみ残っている。雷門から浅草寺の方を向けば人の多い仲見世が続き、通りの両側には屋根と庇にスズランのような街灯が取り付けられていた。
理人はカホルの傍らに立ち、手を差し出す。
「……何ですか?」
「人が多いから。はぐれるといけないだろう?」
理人が言うと、カホルはどこか拗ねた表情をした。子ども扱いされるのが嫌いなのだろうだが、理人は半ば強引にカホルの手を握る。
「君がいなくなる可能性だってあるじゃないか。それは困るからね」
「……わかりました」
無言ながらも、カホルは振りほどくことはしなかった。ただ、俯く頬が、ほんのりと染まっていた。




