(2)
神田區は神保町。
書店街の一角にあるカフェー・グリムの玄関先の掃除を終えた理人は、額に滲んだ汗を拭った。
季節は立夏を過ぎた、五月の終わりである。朝夕の冷え込みはあるものの、日が上れば暑さを感じる季節になってきた。
涼しい店内に戻ろうと踵を返そうとして、理人は足を止める。
カフェー・グリムの隣の古書店、ひいては乙木ビルのちょうど角になる辺りに、大きな男の人影があった。
六尺近くはあろうかという上背は、そうそう見かけるものではない。男は見慣れた中折れ帽でさっと顔を隠すが、隠したところで無駄である。
理人はさっさと男に向かって歩を進め、「やあ」と声を掛けた。
「ごきげんよう。何をしているんだい、一谷」
「お、おお、久しぶりだな、千崎。いや、別に何も……通りかかっただけだ」
逃げる間もなかった一谷は、最初こそ狼狽えていたが、後半は開き直ったように胸を張る。
――通りかかっただけなら、隠れる必要は無いだろうに。
思ったものの、理人はそれ以上聞かずに後ろを指さした。
「せっかくだ。寄っていかないか?一杯奢るよ」
開店前ではあったが、三宅に頼むと快く了承してくれた。店に入るのを渋っていた一谷も、三宅に笑顔で招かれて、観念したようにカウンターの席に着く。
「準備中に邪魔して申し訳ない。すぐに出ますので」
「いいえ、どうぞ気になさらずに。ちょうど、新しいブレンドを試していたところなんですよ。時間があるようでしたら、お付き合いいただけますか」
三宅のさりげない心遣いに、一谷は恐縮したように頭を掻く。
「重ね重ね申し訳ない、ありがたく頂戴します。その、申し遅れましたが、俺……いえ、私は一谷高正と申します。千崎の友人でして……」
一谷は言い淀んでいたが、やがて姿勢を正して三宅に相対した。
「あの……つかぬ事を伺いますが、千崎はこちらで迷惑をかけてはおらぬでしょうか?ちゃんと働いておりますか」
「……一谷、またかい」
ひと月ほど前にも、似たようなことがあった気がする。一谷の中で、理人はよほど“出来の悪い息子”らしい。
理人は腕を組んで溜息を零す。
「お前は僕の母親か?いい加減、子離れしたらどうかと思うよ」
「いや一応、元・家主の責任としてだな……というか母親と言うな!お前のようなでかい子供を産んだ覚えはない、せめて父親と言え」
「こっちこそ、一谷みたいな頑固一徹親父を持った覚えはないよ」
「誰が頑固だ――」
何の彼のと言い合う二人であったが、手を打つ音で我に返った。
音の方を見て、理人は目を瞠る。店の奥、天鵞絨のカーテンを背後にして、一人の子供が立っていたからだ。
滅多に地下の書斎から出ない、店に姿を現すことのない秘密の店主――小野カホルだ。
白いシャツに銀鼠色のベストとズボン、瑠璃色のリボンを付けた、今日も良家の子供らしい恰好のカホルは、叩いた手を下ろす。
「開店前ではありますが、ここは騒ぐことを好まない方々が来られる場所です。どうかお静かに願えますか」
微笑みながら言う言葉は店主らしいが、子供らしくはない。
さすがに一谷も呆気にとられたようで、ぽかんと口を開けてカホルを見やった。そんな一谷に、三宅が「親戚の子です。店を手伝ってもらっています」と説明をする。
なるほど、部外者にはそういう設定で通しているらしい。
カホルはこちらに近づいてきて一礼した。
「小野といいます。一谷さんですね、お会いできて嬉しく思います」
「ああ、これはご丁寧に、どうも……その、先ほどは騒いでしまって申し訳なかった」
落ち着いた物腰につられてか、子供相手に一谷は律儀に謝る。カホルは黒い目をぱちりと瞬かせ、どこか楽しそうに微笑んだ。
「こちらこそ、生意気を言って失礼いたしました」
「いやいや、君の言うことはもっともだ。騒がしくしたこちらに非がある……千崎、お前も謝らんか」
「どうして僕が」
「お前も騒いだだろうが」
「お前の声が大きいのがいけないのだろう。僕は特別騒がしくしてはいないよ」
またも言い合いになりそうなところで、カホルが「お二人はとても仲がよろしいのですね」と述べる。思わぬ指摘に押し黙る理人と一谷であった。
三宅が淹れてくれた珈琲は、コクと苦みが控えめですっきりとした後口であった。
来る夏、暑い季節に合わせてブレンドを少し変えているらしい。もっと暑くなったら、井戸水で冷たくして『冷やし珈琲』を出す予定だそうだ。
「実に美味い」と三宅に感想を述べる一谷に、カウンターに肘をついた理人は切り出した。
「それで、何の用で来たんだい?一谷」
「……だから、通りかかっただけだと」
「お前の所の管轄は下谷區だろう?神田區の隣じゃあないか」
指摘すれば、うぐ、と一谷が言葉を詰まらせる。
「いや、そうなんだが、捜査の途中で本当に通りかかったから、ついでに寄ってみただけだ。そもそも浅草區との合同で……」
「浅草?」
理人が聞き返すと、一谷はしまったというように口を噤んだ。
そこに割って入ったのは、近くのテーブルでドーナツを齧っていたカホルだった。
「ひょっとして、子供たちの失踪事件の捜査ですか?」
「なっ……」
一谷がぎょっとしたようにカホルを見やった。
カホルはすまし顔で「噂を聞いたことがあります」と嘯く。理人はそんな噂を聞いたことは無かったが、カホルに合わせた。
「そういえば、客が話していたのを聞いたような気がするよ。大変な事件のようだね」
「う、うむ……」
一谷は、それ以上は話せぬようで口を引き結ぶと、急いで席を立った。
「そ、そろそろ署に戻らなければならん。これで失礼させてもらう」
一谷はカウンターに十銭を置いて、足早に店を出て行ってしまう。
奢ると言ったのに、よほど慌てていたようだ。追いかけようかとも思ったが、近いうちに会うだろうと思い直し、ポケットにしまう。
「すみません、三宅さん。一谷の分は僕の給料から引いておいてもらえますか」
「わかりました。……ですが、新しい仕事が入りそうですから、臨時分で引くまでもないと思いますよ」
にこりと三宅が微笑んで、カホルを見る。理人も同じようにカホルの方を振り向いた。
ドーナツの最後の一欠けらを咀嚼したカホルは、珈琲を片手に微笑んだ。
「ええ、その通り。新しい依頼を受けています。一谷さんに心配されぬよう、お仕事頑張りましょうね、千崎さん」




