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帝都メルヒェン探偵録  作者: 黒崎リク
第一話 いばら姫の名前当て
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(3)


 この屋敷の主人である乙木夫人こと乙木文子おとぎ ふみこは、実業家として名をはせる女性である。


 結婚前の姓は小野村おのむら

 現在、欧羅巴ヨーロッパや南米との貿易を中心に業績を伸ばしている貿易会社『小野村商会』を立ち上げた小野村公浩おのむら きみひろ氏の長女として生まれた。

 明治創業の小野村商会は海外貿易を行う会社で、いまや日本で随一の輸入業者として知られる。

 現社長の小野村浩介おのむら こうすけ氏――乙木文子の五歳年上の兄にあたる――の代では、培った莫大な資産により、大日本帝国の資産家大鑑に名を連ねるまでになったほどだ。


 さて、文子は数十年前にとある園遊会で乙木男爵に見初められて結婚し、姓を『乙木』へと変えた。

 しかし結婚後三年も経たぬ内に男爵が急死して未亡人となる。爵位を継ぐ子がいなかったため、男爵の地位は返上することになったものの、乙木文子は周囲から『女男爵バロネス』と称されている。


 乙木夫人は夫無き後、引き継いだ財産や小野村家からの持参金を使い、銀座でカフェーとミルクホウルの店舗を開いた。

 当初はお嬢さん育ちの金持ちの道楽と揶揄されたものだが、彼女には打算があった。

 小野村商会を介して海外から洋酒や珈琲コーヒー、西洋菓子の材料を相場よりも格安で仕入れ、他のカフェーよりも少し手頃な値段で提供したのだ。本場の洋酒や珈琲が味わえるカフェーも、プティングやシュウクリィムなどの西洋菓子を楽しむミルクホウルも、次第に人気が出ていった。

 さらに、店に並べる商品以外にも夫人はこだわった。

 店舗はモダンな洋風建築で、アンティークの家具を揃えた。流行りの女給は見目の良い者だけでなく、知識人に合わせた会話のできるよう教養した者を取り入れた。

 逆に、珈琲や洋酒、異国の雰囲気を純粋に楽しむためだけのカフェーも新たに開くことで、新たな顧客を増やしたものだ。

 店舗の運営が好調になれば、小野村商会からの支援も増えて支店の数は比例して増えていき、今や帝都に五つの店舗を構えている。


 男性顔負けの気概と行動力。機転の良さと堂々たる態度は、実業家として彼女の名を広めていった。

 また、自立する職業婦人の憧れの象徴にもなり、かつて男爵夫人であったことから『光和の女男爵』と称されるようになったのである。



 さて、そんな乙木夫人と理人が出会ったのは、彼女の経営するカフェーの一つを訪れた時のことだった。

 知り合いであるカフェーの女給と話していれば、偶々カフェーの様子を見に来た彼女が話しかけてきたのだ。


『あら、あなた綺麗な顔をしているのね』


 明らかに異国の血が交じる理人の風貌を衒いもなく褒めた彼女は、『見目麗しい男性を揃えるのも良さそうね』と呟き、カフェーで働いてみないかと誘ってきた。

『イギリス?ドイツ?言葉は話せるかしら?』と聞いてくる始末だ。

 そこで試しにドイツの詩人であるゲーテの詩を諳んじてみせれば、夫人に大層喜ばれた。興に乗り、ドイツ語の響きのいい言葉を並べた詩を即興で披露すれば、『素敵ね、あなたは詩人だわ』と夫人は褒めた。


 乙木夫人はカフェーの経営以外にも、芸術関係に造詣が深かった。

 彼女は芸術を愛するだけでなくセンスも非常に優れており、若い才能を見つける目を備えていた。貧しい芸術家たちを支援する活動を行っており、長崎町の別邸をサロンとして彼らに開放しているそうだ。

 別邸の通称『乙木サロン』に通い住む芸術家達が生み出す作品は、三か月に一度行われる展示会で好事家達を招待して展示された。それだけではなく、経営するカフェーやミルクホウルにも月替わりで作品を展示することで、訪れる多くの人々の目に留まった。

 彼女のサロンに出入りを許され作品を展示されることは、いわば若手にとっては登竜門。芸術界においては新しい芽を見つけ出すための畑となった。

 そうして作品が売買されることによって生じた利益の一部はサロンの運営に回されるため、夫人の負担は実質、長崎町の別邸やカフェーなどの場所を提供しているだけに過ぎない。

 それだけで新進気鋭の芸術家や芸術を好む上流階級との繋がりを得ることができるという、実に効率の良い方法であった。


 理人は偶然か幸運か、乙木夫人に才能(いや、美貌だろうか)を見初められて、サロンへの出入りを許された。

 興味本位で一度サロンに訪れれば、なるほど確かに若い芸術家の卵たちがたむろって、切磋琢磨に作品を作っている。

 もっとも、理人自身はにわか詩人に過ぎず、彼らのように熱心になれる訳もない。しかし、金欠の折に乙木サロンは大変助かる場所となった。

 滞在すれば寝食の心配は無いし、書斎にある豊富な洋書を読み耽っていても「働け!」とせっつく友人もいない。なんとも居心地のいい場所であるので入り浸らぬよう、サロンを訪れるのは月に一回と己の中で決めていた。



 理人は書斎に寄って洋書を一冊持ち出し、建物の背面にあるサンルームに向かった。


 一階の全幅を開口とした横長のサンルームは、内装はいたってシンプルである。焦げ茶色の板張りの床に白い漆喰の壁、淡い浅緑色の桟や格子が、見た目にも爽やかな意匠だ。

 明るい光に満ちる室内には、籐で編まれた椅子や小さな丸テーブルが配されており、ゆったりと寛げる空間になっていた。

 少し開かれた窓からは涼しい風と共に、広い庭園に植えられた木々の緑の香りが入り込んでくる。若々しい葉の香りの中に混じるのは、微かな甘い匂いだ。ほころび始めた薔薇の蕾のものだろうか。


 居心地のよいサンルームは、サロンに滞在する芸術家達に人気がある。詩作や写生をする者が集い常に人の姿を見かけるものだが、幸運なことに今日は誰もいないようだ。

 サンルームの端、一番の特等席である籐製の長椅子に近づいて、理人は足を止めた。


「おや……」


 無人だと思っていたが、どうやら先客がいたようだ。


 柔らかな日差しの中、長椅子に仰向けに横たわるのは一人の少年だった。



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