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帝都メルヒェン探偵録  作者: 黒崎リク
第四話 雪子姫は三度死ぬ
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(10)


 ――母が亡くなったのは、由紀子が八つの歳の頃であった。


 元々身体が弱い人であったと聞く。由紀子を生むことが身体に負担をかけるとわかりながらも生むことを選択し、しかしその後、子を望めぬ身体となってしまった。

 一人娘の由紀子は、父と母に大切に育てられた。

 父は大きな薬問屋の長男ながら、商人よりも学者の気質であった。日本帝国の医学の発展のために学問に没頭しながらも、母の身体を労わった。もしかすると、母の身体を治すために尽力していたのかもしれない。

 母はそんな父を理解し、父が帰らずに寂しがる由紀子の相手をしてくれた。もっとも、外で遊ぶよりも本を読み聞かせてくれることが多かった。

 最初に異国の言葉を教えてくれたのは、たぶん母であったと思う。興味を抱く由紀子に、異国の言葉で書かれた童話集や詩集を買って与え、詳しく教えてくれたのは父であったが。

 父の学者気質を引き継いだのか、由紀子は学び、覚えることが得意であった。拙い発音で英語の詩を諳んじてみせれば、母はたいそう褒めてくれた。


 そんな母は、冬の寒い日、風邪をこじらせて肺炎となり、そのまま帰らぬ人となった。

 それからだろうか、由紀子がいっそう学問に、医学に熱中するようになったのは。母のいなくなった悲しみと寂しさを紛らわせるためか、母のような病気の人を救いたいと思ったためか。

 とかくも、由紀子が熱心に学ぶことを、父は特に反対はしなかった。むしろ自分の使っていた専門書や洋書をくれたものだ。

 いつかは、父のような立派な医学者、あるいは医者になりたい――それが由紀子の夢となった。

 

 その夢を絶たれたのは、ふた月ほど前のことだ。

 高等女学校の最高学年になった由紀子は、今後の進路に女子高等師範学校か専攻科を希望していた。医学の道に進むためであったが、義母の叶恵が反対した。


 叶恵は六年前に由紀子の父、康作と再婚した女性だ。

 大震災の折、父は研究の手を止めて友人の医師と共に被災した者達の救援を行った。その際に、病院で叶恵と出会ったそうだ。

 叶恵は、かつて一度は結婚したものの姑と軋轢があり、子も成せなかったために離縁されて実家に戻っていた――と使用人の噂で聞いた。そんな叶恵になぜか父から求婚し、震災から一年後には再婚を果たしたのだ。


 冷たく理知的で、自他共に厳しい性格をした叶恵を、由紀子は苦手としていた。由紀子にとって母という存在は、亡くなった実母……優しく包み込んでくれる温かなものであったからだ。

 どうしても母とは思えない叶恵と距離を置くようになれば、叶恵はより厳しく由紀子に接した。そうして、由紀子が語る夢を否定した。


『女の身で医者になろうなんて、愚かにもほどがあります』

『ご自分の立場をお考えなさい。お父様に迷惑をおかけすることになりますよ』


 ついには、由紀子が所有する医学の専門書や参考書を取り上げてしまった。さらに、夢を断つように、勝手に縁談の話を進めてしまう。


 由紀子の思いを無視して将来の道を決める叶恵を、一度ならず恨んだ。叶恵の言うことは理路整然として反論できない分、行き場のない怒りと悲しみが由紀子の心をさいなんだ。

 このまま自分は結婚するのか。女学校の友人の中には、縁談が決まり卒業前に学校を辞めていった者もいた。


 大正、光和と時代が変わる中でも、我が国は家父長制が色濃く残る。

 由紀子の父はそうでもないが、戸主が家族に対して圧倒的優位に立ち、妻や子供は隷属する立場にあるのが大半だと聞く。特に女性は結婚すれば家庭に入り、外で働くなどもってのほか。妻は家政の一切を取り仕切る『主婦』となって、社会から切り離されてしまうのだ。

 由紀子も嫁げば、医師を目指すどころか、医学に触れることすらできなくなるかもしれない。


 生き方も選べず、好きなこともできないのなら、生きる意味があるのかしら――


 研究で海外へ出向き不在の父に相談することもできず、思い詰めた由紀子は、人気のない離れの茶室に向かった。手の届く天井の垂木の一本に帯紐を通し、首に巻き付けて結ぶ。足の力を抜けば、喉が圧迫されて目の前が暗くなった。

 直後、「お嬢様!」と声がして首の圧力が無くなる。崩れ落ちて咳き込む雪子の顔を若い女中――志麻が覗き込んでいた。

 どうやら志麻が助けてくれたらしい。我に返り、自害をしようとしていた自分に愕然とする由紀子は、駆けつける使用人の足音に頭が真っ白になった。

 そのとき、志麻が咄嗟に機転を利かせて、由紀子が何者かに襲われたことにしてくれたのだ。


 由紀子より十ばかり年上であろう、志麻は、しっかり者のよい女中であった。半年ほど前に雇われたそうだが、気配りと機転の良さで皆に頼りにされている。

 志麻は親身になって由紀子の話を聞き、「あたしがお嬢様の力になります」と協力を申し出た。そうして、毒の櫛の事件を提案するだけでなく、由紀子に怪我をさせられないと自分の指を刺した。


 志麻の協力もあって、由紀子が自害をしようとしていた事実は隠された。

 逆に、『二度も命を狙われた令嬢』として、一部の新聞や雑誌で騒がれることになった。由紀子の名前と同じ『雪子姫』という童話にもとづいたその記事を読んで、由紀子は驚いたものだ。


 由紀子の命を狙うのが、義母の叶恵だという噂が出ていたからだ。


 自殺未遂をごまかすことしか考えていなかった由紀子は焦った。叶恵のことは恨んでいたが、犯人として貶めるつもりは無かった。

 叶恵が犯人でないことは、由紀子がよくわかっている。だのに、何も知らぬ者の間で噂は広がり、ついには家の中でも「まさか奥様が」「お嬢様がお可哀そう」と使用人たちの囁きが聞こえるようになった。もともと、厳しい性格の叶恵に対して反発心を抱く使用人もいたから、余計に彼女の立場は悪くなっているようだ。


 このままでは叶恵が犯人になってしまう。いや、由紀子が自殺を図ったのは叶恵のせいもあるのだし……でも、だからと言って彼女を陥れていいのだろうか……。


 悩む最中さなか、由紀子は叶恵に呼ばれ、探偵が事件を調べていると聞いて青ざめた。

 わざわざ探偵を雇ってまで、叶恵は己で疑いを晴らそうとしているのだ。由紀子の狂言が知れるのも時間の問題だ。

 いっそ告白した方がいいだろうか。だが、知れれば由紀子だけでなく、協力してもらった志麻へも咎がいくかもしれない。黙り込む由紀子に、探偵は――



 ふと、由紀子の脳裏に、緑がかった淡い茶色の瞳がよぎった。

 千崎と名乗る探偵は、西洋人のような容姿をしていた。栗色の髪に白い肌、高い鼻梁に大きな目は、活動写真で見た外国の俳優のようだ。

 彼は終始優しかった。事件を調べているだろうに、何の証言もしない由紀子を責めることなく、逆に労わってくれた。


『僕も、義母が得意ではなかったもので』


 柔らかな声は、由紀子の心情を察しているようだった。『血の繋がらない』『この容姿』と千崎は言っていたから、おそらく彼は西洋人を母に持つ混血児あいのこであり、義母は日本人なのだろう。遠い異国の地で義母に疎まれ、さぞ心細かったろうに。


 ……彼になら、本当のことを言っても、ちゃんと聞いてもらえるのではないかしら。


 迷ったが志麻の登場で気後れし、自分の甘えた考えに居たたまれなくなって、逃げるようにあの場を去ってしまった。

 退席を申し出た由紀子を送ったのは、千崎の助手という小野という少年だ。

 高い声と華奢な骨格で、中性的な整った顔立ちをしていた。彼の黒い瞳でじっと見られると、どことなく居心地が悪くなる。まるで由紀子の心を見透かすような目だった。

 大人びた雰囲気を持つ彼は、由紀子を部屋に送り届けた際、さりげなく櫛の事件のことを聞いてきた。子供ながら、さすが探偵の助手である。

 一通り鏡台を見た少年は、部屋を出る前に由紀子に、ふと尋ねてきた。


 本は、どうしたのですか――と。


 本棚にぽかりと空いた空間を示す少年に、由紀子はぎくりとした。

 事件の動機となった、処分された医学書や専門書。何の本があったとは言えず、誤魔化すこともできなくて、「義母が処分した」とだけ答えたが……まさかすべて見透かされたのではなかろうか。

 一人きりになった部屋で、今さらながら心配になってくる。

 由紀子が畳に置かれた寝台で横になって考えていれば、襖の向こうから小さな声がした。


「お嬢様、あたしです、志麻です。入りますよ」


 志麻は少しだけ開けた襖から、するりと部屋に入ってくる。


「申し訳ありません、一緒にいられなくて……あの子供から何か言われましたか?」

「いいえ、特には……本のこととか櫛のことを聞かれたけれど、ごまかしたから……」

「そうですか……」


 志麻はほっと胸をなでおろす。そんな彼女に、由紀子は意を決して提案した。


「ねえ、志麻。……私、探偵さんに本当のことを話そうと思うの」

「え?」

「もう正直に言った方がいいと思うわ。黙っていても、きっと探偵さんが突き止めるんじゃないかしら。それに、これ以上叶恵様を困らせるのは……」

「お嬢様、何を仰っているんですか!」


 志麻が強張った顔で、由紀子の肩を掴む。少し痛いほどの力で掴まれて、由紀子は目を瞠った。


「し、志麻……?」

「そんなことをして奥様に知れたら、どんなお叱りを受けるか!きっと婚約話を進めて、お嬢様をこの家から追い出すに決まってます。あの方はお嬢様を邪魔に思っているんですから」

「そんなことは……」

「それに、旦那様に知れてもいいんですか?お嬢様のなさったことを」

「……」


 医学に身をささげる父。

 己が自害をしようとし、なお且つ、事実をごまかすために人に罪を着せようなんて知ったとしたら――


 きっと、由紀子を軽蔑するに違いない。


 由紀子が青ざめれば、志麻は手の力を抜き、肩を優しく擦る。


「……大丈夫ですよ、お嬢様。あたしはお嬢様の味方です。あたしが何とかしますから」


 ねえ、と小さい子に言い聞かせるような志麻の言葉に、由紀子は小さく頷いた。


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