(2)
主がいなくなり静かになった部屋の中で、理人はごろりと再び布団に横になる。
眇めた視界に映るのは、所々に黒ずんだ染みの浮かぶ竿縁天井だ。
――あれは英吉利の形だな。
――いやいや、洋傘を持った洋装の夫人だろう。
――何だと?おい千崎、不埒なことを言うな。
――おや一谷、どこが不埒なんだい? そう思う君の方が不埒ではないのかな?
酒を酌み交わした夜には、染みを何かに例えてふざけたものだ。懐かしさを覚えながら身を起こし、理人は重い腰を上げた。
「さて……」
理人はまず一階の共同洗面所で顔を洗い髭を剃り、身嗜みを整える。
部屋に戻ると、鴨居の上に掛けていた衣紋掛けから、白いワイシャツとスーツを取った。地味だが上品な利休鼠色の上衣、チョッキ、ズボン一式は、大学時代に銀座で著名なドレスメーカーで拵えた品である。ネクタイを結ぶ手に迷いはなく、縹色の綺麗な逆三角ができあがる。
平均的な日本人男性よりも高い背と長い手足にしっくりと合ったスーツを着て、整髪用の香油で栗色の髪を軽く撫でつけた。
それだけで「どこぞの華族のようね」「育ちが良さそうに見える」と女性達に評判の色男になる。まあ、あながち外れでもない。
曇りがかった鏡をのぞけば、長い睫毛に縁どられた目の中、緑がかった淡褐色の瞳があった。
通った高い鼻筋、くっきりとした二重の目、白い肌に薄い唇。
彫りの深い、日本人離れした顔立ちの青年が、こちらを見つめている。
「……いっそ役者でも目指すかい?」
ふざけた問いかけに答えなどなく、鏡は苦笑を返すだけだ。影の落ちたヘーゼル色から目を逸らし、理人は壁に掛けていた中折帽を手に取った。
千崎理人は、外見で知れる通り、生粋の日本人ではない。
父は日本人であるが、母はドイツ人だ。
父がドイツへの留学中、滞在した屋敷で母に出会い、二人はいつしか恋仲になったそうだ。
やがて母は身籠り、親族に反対される中で駆け落ちさながらに父と共に日本にやってきた。しかし長い渡航と慣れない異国の環境に身体を壊し、理人を生んだ二年後に亡くなった。
以後、父親の元で育てられたものの、異人と知れる容貌をした理人を後妻は受け入れ難かったようだ。異母弟が生まれてからはなおさらだった。
だからと言って母の生家があるドイツに戻ることもできずに、行き場のない理人は孤独な子供時代を過ごしたものだ。
高校入学でようやく家を出て学生寮で生活し、大学を卒業した後は家に戻らず職にも就かず。
数えで二十五歳を迎えた今も、友人の下宿に身を寄せて、ふらふらとその日暮らしをしている。
一谷の下宿を出た理人は、近くの真砂町の停車場から市電に乗り込んだ。
窓から外を眺めやれば、黒いコートを羽織った学生たちがぞろぞろと一方向へ向かう後姿が見える。
つい十日前は帝都復興祭で色鮮やかに装飾された花電車が市内を走り、大勢の客で賑わっていたものだが、すっかり日常の光景を取り戻していた。
途中で乗り換えながら市電に揺られ、雑司ヶ谷の停車場で降りる。そこからは徒歩で池袋駅の西方へと向かった。
池袋駅の西方にある長崎町では、近頃、芸術家たちが暮らすアトリエ付き貸家が作られている。
もともとは、地元の女性が画家を目指す孫とその友人のためにつくったものが始まりらしい。まだ数はそれほど多くはないものの、芸術家を目指す若者たちが集まりはじめ、新しく自由な気風が流れる地となってきている。
理人が向かった先もまた、そんな芸術家の卵たちが集まる屋敷であった。
長崎町の外れの一角、鉄の柵と生垣に囲まれた敷地の前で理人は足を止める。鉄製の門越しに見やれば、緑の芝が広がる前庭の奥に愛らしい外観の洋館が見えた。
昼間は鍵のかかっていない門扉を押して入れば、生垣の手入れをしている庭師の男がこちらを向いた。数度訪れたことのある理人の顔を覚えていたのだろう、ハンチング帽を被った彼は軽く頭を下げて再び作業に戻る。
こちらも軽く会釈を返し、芝の間に敷かれた石畳を進んで屋敷へと向かう。
間近に見えてきた木造二階建ての建屋は、先の震災後に建てられた新しいものであり、防火を考慮した白いモルタルが吹き付けられている。荒々しく仕上げられた白い壁に対し、玄関扉や鎧戸は濃い緑色、屋根瓦は臙脂色と、色の対比が美しい。
玄関の扉をノックすれば、程なくして黒い背広を着た老人が姿を見せた。
「これは千崎様、お久しぶりでございます」
「やあ、どうも。乙木夫人はいらっしゃるかな?」
「奥様はただいま不在です。正午にはこちらにお寄りになりますので、どうぞ中でお待ちください」
屋敷の管理人である老人は、扉を広く開いて中へと招き入れる。
帽子を軽く持ち上げて会釈して、理人は『乙木サロン』へと足を踏み入れた。