(3)
午後二時を過ぎて客足が落ち着いた頃、理人は三宅に一声かけて店を出た。午前中にすでに話はしていたので、軽く頷いて返されるだけで済む。
そうして、いったん三階にある自室に戻って、スーツに着替えた。
依頼人に会う時に、給仕姿では格好がつかないわ――。
乙木夫人に言われて、理人は持っていた一張羅の利休鼠色のスーツとは別に、もう一着新しいものを仕立てていた。三星堂ほど高級ではないものの、同じ銀座にある百貨店の紳士服部で誂えたものだ。
昨今の流行を取り入れ、利休鼠よりも緑色が強い深川鼠色の生地。理人の緑がかった目とお揃いで、良く似合うと乙木夫人のお墨付きをもらった。型はノッチドカラーのシングルタイプ、三つボタンのスーツだ。
採寸から仮縫い、試着に調整で二週間という最短期間で仕上げてもらったのは、ひとえに乙木夫人の人脈のおかげである。しかも、理人には先立つものが無かったため、代金は全て彼女が支払ってくれた。
スーツの受け取り時に理人に同伴した乙木夫人は、「あら、必要経費ですもの」とあっさり言っていた。
その後、「この柄も素敵だわ」「光沢がある方がいいかしら」と、着せ替え人形のごとく理人のネクタイやハンカチーフなどの小物を選んでいたものだ。カホルによれば、「文子さんは着道楽なので」とのことらしい。
新しいスーツに袖を通すのは、試着時を除けばこれが初めてだ。テーラーの腕は確かで、スーツは身体にぴたりと合ったが、何だか背中が落ち着かない。
洋装には慣れているはずなのに、と鏡に映る自分を見やれば、表情がいつもより硬かった。どうやら、柄になく緊張しているようである。
最初の事件……金森家の事件の時は、外に連れ出されてのぶっつけ本番だったので、緊張する間もなかった。
そもそも、探偵など娯楽小説や舞台の中でしか見たことが無い。どう振舞うのが正解なのか、今もよく分かっていない。
だが、理人のすぐ傍には、とてもいい“先生”がいる。
実際には、“助手”の肩書を持つ先生が。
理人は鏡の向こう、己の緑がかった淡褐色の瞳を覗き込む。
「……やあ、“千崎先生”。今日は助手に後れを取らないようにしないとね」
話しかければ、己の薄い唇が苦笑を浮かべた。
支度を終えて一階に降りた理人は、管理人室の窓口を覗き込む。
中には淑乃嬢がいて、電話の応対をしていた。いつも通り長い黒髪をきっちりと一つに結わえ、白い洋シャツと濃紺色の長いスカートという姿だ。
話が終わったところを見計らい、窓口のガラス戸を軽く叩く。涼やかな目が理人を捉えて、わずかに細められる。
「千崎様、どうぞこちらへ」
淑乃は管理人室の扉を開いて、中に招き入れた。「やあ、どうもありがとう」と愛想よく返しても、彼女は軽く目を伏せるだけで笑みを見せることはない。
淡々とした性格なのか、元々あまり笑わないようではある。だが、理人はどこか彼女の態度に冷ややかさを感じていた。特に何かをした覚えはないが、どうも監視されているような、敵視されているような気がする。
背中にちくちくと刺さる視線を感じながら、理人は部屋の奥にある扉に向かった。扉を開いて暗い階段を降り、突き当りの扉をノックする。鍵の開く音がして、扉がひとりでに開いた。
「早かったですね」
明るい光と見慣れた半地下の書斎を背にしたカホルが、理人を迎え入れる。
書斎にある出入り口のことは知っていたが、開くのを見るのは初めてだった。壁一面の本棚の一部に作られた隠し扉。動く本棚は、それこそ少年誌の探偵小説に出てきそうで、童心を擽られる。
感心して眺めていれば、カホルは「よくできているでしょう?」と自慢そうに笑んだ。こういう表情は子供らしく思える。
見れば、カホルもまた身だしなみを整えたようで、皺の無い白いシャツに鈍色のベストを纏い、臙脂色のリボンタイを綺麗に結んでいる。良家の坊ちゃんという態で、人気探偵小説の主人公、少年探偵の藤原君を彷彿とさせた。
だが、その小さな頭の後ろ、さらさらとした黒髪の一部が少しだけ跳ねていることに気づく。寝癖が取れていないようだ。
「髪、跳ねているよ」
理人が手を伸ばして撫でるように梳けば、カホルが慌てて振り向いた。小鹿のような目が驚いたように見開かれていた。
その驚きように、理人の方が驚く。カホルはと言えば、戸惑いがちに目を伏せて「失礼しました」と後ろ髪に手をやる。その頬が赤らんでいるのは、寝癖がついていたことを恥じているのであろうか。
何だか珍しい表情だ、と理人がじっと見やっていれば、カホルはすぐに平常の顔に戻って「どうぞ」と一人掛けのソファーを示した。普段はカホルが良く居眠りしているソファーだ。
腰かける理人に対し、カホルは立ったままだ。どうやら、すでに“先生”と“助手”の関係になっているらしい。カホルは咳払いし、今日の予定を話す。
「先ほどお伝えしたように、午後三時に依頼人が来られます。文子さんの女学校時代のご友人だそうです。何でも、義理の娘さんが二度も命を狙われたそうで」
「……それはまた、物騒な依頼だね」
カホルはあっさりと言ってくれるが、探偵歴一か月にも満たぬ、しかもたったの一つしか事件に関わっていない理人には、ずいぶんと荷が重い内容に思える。
「探偵じゃなく、警察に相談した方がいいんじゃないのかな?」
「そうもいかないから、文子さんに相談をしたのだと思いますよ」
それもそうか。理人は間抜けな返しをしてしまった自分に苦笑する。
「……その辺りの理由も含めて、詳しい内容を彼女から聞けばいいんだね」
「はい、よろしくお願いします。それから、こちらにも目を通しておいて下さい」
カホルは言いながら、書斎机に置いていた紙束を理人に渡す。それには新聞の切り抜きが幾枚も貼られていた。
「とりあえず、ここ二週間ほどの新聞や雑誌から、若い娘さんに関する事件の記事を集めておきました。何か関連するものが在るかもしれませんので」
「……」
本当によくできた“助手”である。
理人は呆気にとられた後、せめて約束の時間までには全部目を通してやろうと、真剣に紙束に向き合った。




