第四話 雪子姫は三度死ぬ(1)
日本で最初にカフェーを開いたのは、銀座のカフェー・プランタンだと言われている。
明治四十四年、京橋區の銀座煉瓦街の一角に、カフェー・プランタンは開業した。
横浜のイタリア人の店でブレンドした珈琲を使い、ビール、ウィスキーやブランデーといった洋酒を揃えた。飲み物だけでなく、ビフテキやカツレツ、サンドイッチにグラタンといった洋食を多く提供した。また、それらを女性が給仕することで人気を博し、女給という言葉が誕生したものだ。
名のある文士や芸術家が集まって、さながらパリのカフェーのような社交場となり大いに賑わったものだが、敷居が高く値段も高かった。
その後、銀座にはカフェー・ライオンやカフェー・パウリスタも開業する。
ライオンは比較的安価な洋食を提供し、パウリスタは一杯五銭の珈琲を提供した。西洋のハイカラな雰囲気が味わえると、庶民や貧乏学生に人気が出たという。
さらに、関東大震災後にはカフェー・タイガーが開店するが、こちらは女性のサービスを売り物としていた。
帝都の彼方此方に開かれたカフェーは、それぞれの店の特色を出しながら客を集めていた。
理人も、カフェーにはよく出入りしていた。
半分は客として、半分は給仕として、銀座だけでなく人形町や麹町などのカフェーに通ったものだ。
理人にとってカフェーのイメージは、着物に白いフリルのエプロンをつけた女給が珈琲や洋食を運ぶ、あるいはモダンな洋装をまとった美しい女性が男性の隣に座ってにこやかに話を聞く――というものであった。
しかし、働き始めたカフェー・グリムは、理人の知るカフェーとは少々異なっていた。
昼前の十一時に開店し、夜の八時に閉店する。
幅二間、奥行三間ほどの店内には、縦長のカウンターに席が六つ、二人掛けの丸テーブルが三つ配され、十数人で満席となる。カフェーの規模としては小さいものだ。
店の一番の売り物である珈琲は、一杯十銭。
サブレやドーナツなどの洋菓子は五銭からで、ウィスキーなどの洋酒も揃えてある。提供される飲食物の値段は安くはないが、さほど高くもない。
店内の各所に置かれた大小の本棚が無ければもっと客席を増やせるのではとも思ったが、カフェーに来る客の中には、どうやらこの本棚の洋書が目当ての者も多いようだ。
大学の多い神田區、神保町の書店街の一角にあることもあり、本目当ての客は希少な洋書を読めると立ち寄っては、うまい珈琲と洋菓子をお供に読書に耽る。
男女が賑やかに笑い合う、あるいは思想や芸術談義に熱の入るカフェーとは異なり、滞在する客が静かに語らう姿は、実にゆったりとしていた。
客層は主に、近隣の大学の教授や学生、本を求める文士、芸術家といったところか。この静けさと居心地の良さを気に入った常連客が、半分を占めているようだ。
偶に乙木夫人の知人や取引相手も来て、テーブルで商談をしている様子も見かけた。新聞の写真で見たことのある財閥の会長が来店したときは驚いたものだ。
基本的に男性の客が多いが、女性客も見かける。
いつも満席の人気店というわけではないが、閑古鳥が鳴くほど暇でもない。
店員は理人以外に、三宅という、五十代くらいの痩身の男だけだ。灰色の髪を綺麗に撫でつけて、細いセルロイド縁の丸眼鏡をかけており、常に静かな笑みを浮かべている。
見た目通りに物腰が落ち着いており、どんな客が相手でも穏やかに対応する。しかし、理人への給仕の指導は、声を荒げはしないものの厳しく、的確で容赦は無かった。
人を食ったような態度をとることの多い理人であったが、三宅には通用せず、真面目に給仕の仕事を覚えることになった。
気軽に日雇いでする給仕とは異なり、カフェー・グリムの給仕は細かく覚えることが多い。
服装、身だしなみに始まり、言葉遣い、客への対応、珈琲や洋酒の知識。
珈琲豆や酒、食器の保管場所を把握して、無駄なく動けるよう三宅の動きを観察しながら、店内の動線を身体に染み込ませていく。
常に気を配る店内の給仕だけではなく、裏方の仕事である食品や器具の在庫管理も、今まで三宅がほとんど一人で行っていたらしい。疲れを見せず、笑顔で卒なくこなす三宅に、理人は内心で感服したものだ。
常連客から聞きかじった話では、かつて三宅は華族の邸宅で家令を務めていただとか、はたまた大企業の社長の秘書をしていただとか。そういえば、何となく乙木サロンの管理人である家令の老人に、雰囲気が似通っていなくもない。
三宅の指導は決して易しくは無かったが、理人はそれほど嫌ではなかった。
見た目が日本人離れしている自分の容姿を一切気にせずに、気後れすることなく普通に扱ってくれる人物は貴重だ。
また、自分で言うのもなんだが理人は器用な方であったため、どんどん仕事を覚えていった。
二週間も立てば、珈琲を淹れる以外の事は、ほぼ一人で行えるようになっていた。三宅からも『合格点には達しています』とまずまずの言葉をもらって、カフェー・グリムの給仕をこなしていた。
***
襟や袖にきちんとアイロンが掛けられているかを確認した後、白シャツに袖を通す。折り目の付いた黒いズボン、皺のない黒いベストを身に着け、最後に黒いタイを結んだ。
長めの髪を梳かし、香油を付けて後ろへ流す。鏡を見て全身を見回した後、二畳ほどの控室兼物置から出る。
時刻は朝の十時。開店一時間前の店内には、すでに三宅がいた。
「おはようございます、三宅さん」
「おはようございます」
三宅はカウンター席の一つに腰かけ、丁寧に新聞を広げている。
カフェー・グリムでは、帝都新聞や東京絵入新聞などの四社分の新聞を取っていた。店内に置いておき、客に自由に読んでもらうためのものだ。
もっとも、理人達も世の中の流れや情報を知っておくため、開店前に新聞には一度目を通しておく。
三宅が珈琲の器具の準備をしている間、理人も素早く新聞に目を通した後、控室のテーブルで新聞にアイロンを掛けた。綺麗に皺を伸ばし折り目を付けた新聞を、店内の入り口付近の台に戻す。
その後は、店の奥にあるトイレを綺麗に掃除し、店内の床を綺麗に掃いて、壁の絵画や本棚の埃を払い、テーブルやカウンターを拭いていった。
店内には、三宅が淹れる珈琲の香りが広がっていく。外に出て、玄関周りの掃除をした理人が戻ってくれば、カウンターに一客のカップが置かれていた。
「理人君、珈琲をカホルさんに持って行ってくれますか?」
「はい」
理人は慣れた動作で淹れたての珈琲を盆に乗せ、店の奥の壁の一部に掛けられた蘇芳色のカーテンの方へと向かった。
カーテンを片手で寄せれば、半地下の空間へと降りる階段がある。天井の高い広々とした空間は、路面付近の高さに設置された窓から外の光も入ってきて、明るかった。
階段を降りていけば、一人掛け用のソファーの背もたれにほとんど隠れた、黒髪の小さな頭が揺れた。ふあ、と微かに聞こえたのは、おそらくは欠伸の音だ。
――また居眠りしていたのか。
理人は唇に笑みを含めつつ、階段を降りていき、ソファーに座る人物に銀色の盆を差し出した。
「おはよう、カホル君」
「おはようございます、千崎さん」
ソファーに埋もれる子供の店長――小野カホルは、眠そうな目ながらもいつも通りに微笑んだ。
第四話は、白雪姫に関連した事件の話になります。
明治・大正時代は「白雪姫」ではなく、「雪姫」とか「雪子姫」とか、いろいろな題名に訳されていたようです。
※ちなみに、今回の話でカフェー・グリムのテーブル席を一つ増やしております。
以前の設定では、席数が少なくて店員一人でも十分回るのでは…と思い直しまして。




