(8)
風に揺れる短い黒髪。
足元に置かれたランプに照らされる、小さな白い顔。
長い睫毛に縁どられた小鹿のような目。
落ち着いてよく見れば、目の前にいるのは、確かに小野カホルであった。
細い身に纏うのはワンピースではなく、ゆったりとした長い寝間着とガウンだった。
いつものシャツにズボンという少年の格好をしていないと、カホルは少女めいた中性的な顔立ちのせいか、本当に女の子のように見えてしまう。
カホルはゆっくりとランプを拾い、理人を見上げてきた。
「こんな夜中に、どうされましたか?」
「……それはこちらの台詞だよ。こんな夜中に、君は一体何をしているんだい?」
「散歩です」
平然と答えたカホルは、理人に背を向けて屋上を歩き始める。理人はしばし迷った後、カホルの後をついていった。
花村からは開かずの屋上と聞いており、てっきり寂れた場所かと思っていたが、そこは予想とだいぶ異なっていた。
傾いた月の光が照らすのは、見事な屋上庭園だった。
草木や花、土の香りが夜の風に混じり、さやさやと葉擦れの音を立てる。奥の方には、低木に囲まれた西洋風の小さな四阿まである。
月夜の屋上庭園の幻想的な光景に、理人は見惚れてしまった。
「……これはまた、見事だね」
「ありがとうございます。ここは普段、私しか使いません。今夜は特別に、あなたの引っ越し祝いということで」
カホルが片手に持った鍵をちゃらりと鳴らしてみせた。
屋上に出入りできるのは、カホル以外には乙木ビルの管理人の淑乃、それからカフェー・グリムの三宅、庭園の手入れをするため週に一度訪れる庭師くらいだそうだ。屋上が庭園になっていることは、各部屋の住人には知らされていないらしい。
先を行くカホルが、理人に尋ねてくる。
「部屋はお気に召しましたか?」
「とても満足しているよ。あんな立派な部屋に住まわせてもらえるとは思わなかった。……しかし、本当に家賃は払わなくていいのかい?」
浴室やガスまで付いた、西洋風の高級アパートメントだ。一か月分の家賃は、相場で三十円は下らないだろう。エリート職業のサラリーマンの月給半分が飛ぶ額である。
理人の問いに、カホルは立ち止まり、横顔を見せて意地悪く笑む。
「おや、払って頂けるのなら、払ってもらいますよ。いいのですか?」
「……」
「冗談です。給仕と探偵代理の仕事は、十分に家賃と見合うものですから。先日の事件の解決では、依頼人も満足していましたし、文子さんからは特別手当も頂きました」
『金の鳥の館』の事件の翌日、乙木夫人の元を訪れた依頼人の金森弥恵子嬢は、理人とカホルの活躍ぶりを大層褒めていたそうだ。
また、見つかった隠し財産の宝石のおかげで宝飾店経営の立て直しの目途がつき、縁談の方の憂いも無くなったと、喜んでいたらしい。
「今後、小野村商会と協力して、海外貿易の方にもより力を入れていくそうです。文子さんは宝飾品も好きですし、新しい事業に意欲的でしたよ」
なるほど、乙木夫人の探偵稼業は、夫人にも小野村商会にも相応の利益を生んでいるようだ。理人は感心しながらも、探偵代理の責任の大きさを実感した。
庭園に造られた道を進むカホルは、白い柱に茶鼠色のスレート葺の屋根を持つ、六角形の四阿へと近づいていく。四阿は風除けのために下半分に白い壁が張られ、上半分は採光と風通しができるよう、白い格子の硝子窓が取り付けられていた。
正面の硝子張りの扉を開いて四阿の中に入ったカホルは、低い天井から下がるフックにランプを掛ける。
四阿の中は壁に沿って木のベンチが作られており、柔らかそうな厚い敷物や幾つものクッションが置かれて、随分と居心地が良さそうである。
中央のテーブルの上には、卓上用の銀色の魔法水筒と小さなカップ、分厚い洋書が数冊重ねられていた。
カホルが細く開いた窓の間からは、嗅いだことのある甘い香りが風と共に流れてくる。
……薔薇の香りだ。近くで咲いているのだろうか。
ふと、乙木サロンのサンルームを思い出してしまったのは、カホルと出会ったときと似たような状況だからだろうか。
おとぎ話の世界に足を踏み入れたような、現実離れした感覚が、理人に既視感を抱かせる。
カホルは理人を振り向いて、どうぞ、とベンチを示した。
理人が座ると、カホルも向かいのベンチに座って、魔法水筒の取っ手を持ち傾ける。褐色の液体が、温かい湯気ともにカップへと注がれた。珈琲である。
ふうと吹き冷ましながら口を付けるカホルに、理人は「夜に飲むと眠れなくなると聞くよ」と言う。すると、カホルは珈琲の香りを楽しむように一つ息をして、微笑んだ。
「ええ。だからいいのですよ」
「しかし、そう夜更かしをすると、昼間に眠くなってしまうんじゃないのかな」
乙木サロンでのサンルームでも、カフェー・グリムの地下室でも。昼の最中からカホルは眠っていた。
そのことを思い出して指摘すると、カホルは微笑を返してくる。
「夜は眠りたくないから、いいのです」
「……」
それは何故かと問うてしまえば良いのだろうが、視線を落として静かに笑むカホルに、理人はそれ以上聞けなかった。何となく、聞くのを憚られるような雰囲気があった。
理人は少しの沈黙の後、話題を変える。
「それにしても、夜の散歩か。……もしかして、花村さんが言っていた『少女の幽霊』は君のことかな?」
「花村さんが?……ああ、そういえば、先刻、階段室で騒がれていたようですね」
淑乃から聞きました、と言ったカホルが、思い出したようにくすりと笑う。
「淑乃が『男四人が蒼ざめて自分を見てくるから何事かと思った』と呆れていましたよ」
「いや、あれは丁度良い時に高倉さんが現れたものだから……」
理人は騒ぎの顛末を簡単に話した。
酒の席で花村から聞かされた幽霊話。その後、花村が幽霊のふりをして理人を驚かそうとしたものの怖がられず、結局階段から落ちてしまって……。その件を聞いて、カホルはふふっと笑いを零した。
「確か、グリム童話に似たような一節がありましたね。『怖がることを覚えるために旅に出た男の話』の中に」
怖がることを覚えるために旅に出た男の話は、その題名通りの話だ。『ぞっとする』ということがわからない若者が、それを習うために旅に出るという話である。
物語の冒頭で、若者の父親から相談を受けた教会の小使いの男が、若者をぞっとさせてやろうと企てた。真夜中、鐘楼に上って鐘を鳴らすよう若者に言いつけた小使いの男は、先回りして階段の上で白装束をまとい、お化けのふりをして脅かそうとする。
しかし若者は一向に怖がることはなく、逆に小使いの男を突き落としてしまう。階段から落ちた小使いの男は、足の骨を折る大怪我を負ってしまうのであった……。
そういえばそんな話だったと理人は思い出しながら、相槌を打った。
「まあ、怪我が無かったから良かったよ。笑い話では済まなくなるところだった」
一谷が受け止めてくれていなかったら、花村もきっと大怪我を負っていたことだろう。物語の通りにならなくて幸いである。
カホルも「そうですね」と頷いた後、理人の方を見やった。
「でしたら、あなたは『ぞっとする』ことはできず仕舞いでしたか」
「いいや。ついさっきぞっとしたよ。君を見て、一瞬幽霊かと思った」
そう答えると、カホルは目を丸くした後、小さく吹き出す。
「それは、お役に立てて何よりです。川の水を汲みにいかずに済みました」
「止してくれ。そんなものを浴びせられると考えただけでぞっとするよ」
物語の最後で若者はついにぞっとすることになるのだが、その方法というのが『寝ているところに、小魚の入った冷たい川の水を浴びせられる』というものなのである。
そんなことをされたら、誰だってぞっとするだろう。理人が大げさに震えてみせれば、カホルは可笑しそうに笑った。
理人はそんなカホルを見て、しみじみと呟く。
「君の方こそ、怖いものなんて無さそうだな」
理人の言葉に、カホルはふと笑みを苦いものへと変える。黒い眼差しが、理人を見つめた後にわずかに逸らされた。
「カホル君?」
「……怖いものなら、ありますよ」
呟きは、ようやく耳で拾えるくらいの小さなものだった。カホルにしては珍しく頼りない、幼子のような声に、理人は何と返していいものか戸惑う。
すると、カホルは再びいつもの穏やかな笑みを作って理人を促してきた。
「千崎さん、そろそろ部屋に戻った方がよいのではありませんか?明日から仕事でしょう、寝坊したらいけませんよ」
「……そうだね。雇い主の仰せの通りにいたしましょうか」
理人は立ち上がり、堅くなりそうな空気を払うように、少しお道化て一礼する。
「それじゃあ、カホル君。また明日」
「ええ。おやすみなさい」
別れの挨拶の後に四阿を出た理人は、そっと後ろを振り返った。
ランプの灯る硝子窓の向こうに、俯くカホルの横顔が見える。本に落とされる視線がこちらへ向く前に、理人は背を向けた。
――『夜は眠りたくないから』
――『怖いものなら、ありますよ』
耳の奥で蘇るのは、カホルの声だ。
あれらは、カホルの正体に繋がる言葉なのだろうか。
今はさっぱり見当もつかないが、三か月の間に彼の正体を掴まなくてはならない。
「さて……これから頑張らなくちゃあね」
理人の呟きを拾う者は月夜の庭園にはおらず、やがて扉の閉じる音が辺りに響いて消えた。
これにて第三話終了です。
これといった事件はありませんでしたが…
乙木ビルでの騒動を楽しんで頂けたら幸いです。
いろいろ主要人物も揃ってきましたし、今後の事件でも彼らにちょこちょこ登場してもらおうかと。
ちなみに、魔法水筒は魔法瓶のことです。
大正時代には日本製のものが作られていたそうで。
魔法水筒という響きが、より魔法がかかってるっぽくて何だか楽しい。




