(6)
音は扉を隔てた玄関の方からする。
こんな夜更けに誰だろう。
花村か、桐原か。忘れ物でもして取りに来たのだろうか。
理人はソファーから降りて玄関へと向かった。
「花村さんですか?それとも桐原さん?」
玄関扉に近づきながら声を掛けてはみるが、返事はない。
「じゃあ、高倉さんですか?」
管理人の若い女性の名を出したが、やはり返事はなかった。
はて、一体誰であろう。理人は首を傾げた。
理人がここに引っ越したことを知っている者はほとんどいない。ましてや、こんな深夜に訪ねてくるような近しい間柄の者は、せいぜい一谷くらいだ。
その一谷はといえば、理人の声で起きてきたらしく、寝室から出てきて訝し気な声を掛けてくる。
「どうした、千崎」
「いや、誰か来たようなんだけど――」
コン。
理人の言葉を遮るように、再びノックの音がした。
コン、コン。コン、コン。
一定の律動で、淡々とノックが響く。
「おい、誰だ?」
一谷の低い誰何の声にも、返ってくるのはノックの音ばかり。
理人と一谷は顔を見合わせる。二人の頭の中を過ぎったのは、先刻の幽霊話だ。
白いワンピース姿の少女がノックをしている姿を思い浮かべたのか、一谷が見事に顔を強張らせる。
「も、もも、もしかして……」
一歩下がる一谷とは対称に、理人はノックが鳴り続ける玄関の扉に一歩近づいた。おもむろに手を伸ばしてノブを掴む。
「おおおおおい!?お前、何考えている!?」
馬鹿な真似は止めろ、と震え声で制止する一谷に構わず、理人は鍵を開けてノブを回した。
外開きの扉を開けば、室内の光が廊下の闇を切り取るように照らし出す。光の落ちた先には、誰の姿も見当たらなかった。
「……あれ、いないや」
「いる訳がないだろう!?相手は幽霊だぞ!早く扉を閉めろ、霊が入ってくるじゃないか!」
まるで虫が入ってくるような言い方である。理人は呆れつつ一谷を横目で見やる。
「幽霊だったら扉くらいすり抜けられるんじゃないのかい?……ああ、でもノックができるのなら肉体はあるのかな」
理人はひょいと身を乗り出して、廊下を見回してみた。一谷が襟を掴んで止めさせようとしたが、その前に理人の視界の右端に白いものが映る。
三〇三号室のすぐ横は階段室だ。その階段室に白くぼんやりと浮かび上がったのは、小柄な人影。揺れる裾をひらりと翻して、階段室の方へ姿を消す。
「あ、いた」
「いた、じゃない!見るな戻れ呪い殺されるぞ!」
焦る一谷に襟を強く引っ張られて、首が締まりそうになる。
理人は一谷の手を引き剥がしながら、襟元を緩めた。
「そんな物騒なことを言うものじゃないよ」
「物騒なのはお前だろう」
「あのねぇ一谷、まだ幽霊と決まったわけじゃないよ。本物の人間だったらどうするんだい」
理人は一谷に再び襟を掴まれる前に廊下に出る。
階段室の方に向かえば、手すりの向こうで白い裾が上がっていく様が見えた。
「止めておけ千崎!」
背後で一谷が言うが、理人は躊躇うことなく足を進めて、階段の前に立つ。灯りの落ちた階段室は暗く、窓から差し込む外の月明かりでようやく足元が見えるくらいだ。
顔を上げると、白い小柄な人影が背を向けて階段を上がっていくのが見えた。
階段に足を掛けながら、理人は暗闇にぼんやりと浮かび上がる白いものに問うた。
「君は誰だい?」
階段の一番上、屋上への扉らしきものがある踊り場で立ち止まった白いものが、こちらを振り向いた。しかし何も答えず、そのまま動かない。
「どうか返事をしてくれないかな?こんな夜更けに、君は一体何をしているのかな?」
問いかけながら、理人は階段を上がる。
白いものに一歩ずつ近づく。
「もう一度聞くよ。君は誰だ?」
それでも白いものは黙ったままだ。
あと五、六段くらいという距離になったとき、白いものが身じろいだ。その拍子に、ふと甘い酒精の香りが理人の鼻を掠める。
どこかで嗅いだ香りだ。
しかも、つい先刻――
理人が気づいたとき、白いものが動いた。
理人の隣をすり抜けようと、ひらりと裾を翻して階段を駆け下りる。すれ違いざま、白いものが階段からふわりと浮き上がった。
そのまま落ちていく白いものに、理人は手を伸ばすが届かない。
「千崎、大丈夫か……ひいっ!?出たあぁぁ!」
階下で一谷の悲鳴が聞こえる。理人はそんな一谷に向かって声を張り上げた。
「一谷、受け止めろ!彼は人間だ!」
強い声に、一谷がはっと悲鳴を止めた。
幽霊は怖くとも、さすが警察官である。人命救助が第一とすぐに身構えた一谷は、階段をすべるように落ちる白いものを、その逞しい腕と胸でしっかりと受け止めた。
理人も急いで駆け下りて、一谷の傍らに寄る。膝をついた一谷は白いものを抱えたまま、困惑の表情を浮かべて理人を見上げてきた。
「千崎、これは……」
「この“幽霊”にはちゃんと肉体があったようだぞ。大発見だな、一谷」
理人は冗談交じりに言いながら、白いもの――否、白いシーツを被った人間を見下ろした。
シーツの端を摘まんで引っ張れば、中から見知った顔が現れる。
ぼさぼさの短髪に、幼い顔立ち。栗鼠のようにくりっとした丸い目が瞬いて、理人と一谷を見てくる。理人は彼に向かって微笑んだ。
「どうも、花村さん。怪我はありませんか?」
「……うむ、大丈夫だ」
愛嬌のある大きな口と目が、苦い笑みを浮かべた。




