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帝都メルヒェン探偵録  作者: 黒崎リク
第三話 怖がることを覚えた男
23/77

(5)


 ひっ、と小さく息を呑んだのは一谷であった。その動揺は手に伝わり、持っていた湯呑を取り落としたようだ。

 ちょうど一谷の隣に座っていた花村のシャツとズボンに赤ワインがぱしゃりと掛かった。


「おおっ!?わっ、す、すまん!」


 わたわたと慌てふためく一谷に、一同はぽかんとした後、盛大に吹き出して笑った。


「一谷、そこまで驚かなくともいいだろう?」

「ははっ、仁王君は怖がりなんだなぁ!」

「だ、大丈夫ですか?」


 口々に皆に言われて、一谷は顔を赤くして「笑わんで下さい!」と抗議しながらも、花村のシャツにかかったワインを忙しなく手拭いで拭う。

 とんとんと布を叩きながら拭くという小まめで律儀な行動もまた、皆の笑いを誘った。

 しかし一谷の奮闘も虚しく、花村の白いシャツに広がった赤い染みも香りも取れることはない。洗っても取れるかどうかという赤ワインの色に、一谷は申し訳なさそうに項垂れた。


「花村さん、すまない」

「いやあ、構わんよ。どうせ汚れるものだしな」


 花村は鷹揚に笑って、作業中だともっと汚れるから気にするな、と付け足す。


「しかし意外だなぁ。仁王君は幽霊が怖いのか?」

「いや、その、怖いと言うか、ただ苦手なだけで……訳の分からんものは好かんというだけです」


 一谷の言う通り、彼は曖昧を嫌い、はっきりした事象を好む。不可解な現象を信じないという訳ではないが、受け入れがたいそうだ。

 凶悪な強盗には怯むことなく立ち向かうというのに、女子供の幽霊……まあ、幽霊でなくとも女性そのものには及び腰なのだ。

 一谷は不安そうに花村に尋ねる。


「その……もしや、このアパートメントに空き部屋があるのは、そういう噂があるからですか?少女の幽霊が出るから、と……」

「それはよくは分からん。僕も一度見ただけなんだ」


 花村は幽霊を見た時のことを語り出す。



 それは夜も更けた頃の出来事であったそうだ。


 依頼されている絵の仕事の途中、気晴らしに廊下に出たとき、ふと階段室に白い人影が見えた。

 よく見れば、ゆったりとした白いワンピースをまとった少女である。背格好や垣間見た横顔は、まだ十代前半くらいのように見えた。

 幼い少女は白くひらひらとした裾を翻らせて、三階へと上がっていく。


 はて、このアパートにこんな年頃の少女が住んでいただろうか。


 花村は気になって、後をつけてみた。

 しかし、花村が三階に着いて廊下を見回しても、少女の姿はどこにも無い。

 では屋上かとさらに階段を上っては見たが、屋上の扉は鍵がかかっており、人の気配は無かったのであった……



「――そして僕がこの少女を見た直後、三階の住人……ダビデ君が住む三〇三号室の住人が引っ越して出て行った訳なのだよ……」

「せ、せせせ千崎ぃっ!」


 花村の話を強張った顔で聞いていた一谷が慌てて立ち上がって、理人の方へと近づいてきて肩を掴んで揺さぶってくる。


「やっぱりこの部屋は止めとけ!タダなんておかしいと思ったら、とんだ曰くつきじゃあないか!」

「まあまあ落ち着け一谷」

「落ち着いていられるか!も、もももしかしたら、ゆ、幽霊がこの部屋に……」


 周囲を警戒しながら言う一谷に、理人は苦笑する。


「幽霊がいたとしても、僕には見えないから大丈夫さ。見えなければ何も問題はないだろう?」

「しかしだな……!」

「もし見えたとしても、女の子と同居というのは悪くはないね。美少女だったらむしろ大歓迎かな」

「千崎!ふざけている場合か!?」


 冷静な理人と動揺する一谷のやり取りに、花村と桐原が吹き出した。

 桐原が苦笑して尋ねてくる。


「千崎君は、幽霊を信じていないのですか?」

「信じていないというか……まあ、そうですね。自分の知っている故人が目の前に現れたなら、信じるかもしれません」


 脳裏に過ぎる顔を思い浮かべて答えれば、「それは確かに信じざるを得ませんね」と桐原が頷いた。

 花村はふむと腕を組む。


「しかしつまらんなぁ。ダビデ君は怖いものは無いのかい?」

「ありますよ。怒った一谷とか」

「……お前、絶対に俺をおちょくっているよな?」


 揶揄われ続けた一谷が本気で怒りだす前に理人が謝れば、その息の合った馴れ合いに再び花村と桐原が笑いを零したのであった。




「――ああ、もうこんな時間ですか」


 備え付けてあった壁掛けの時計が十時を回ったのを見て、桐原がいとまを告げる。桐原が退室した後、なぜか花村も仕事を思い出したと言って部屋に戻ってしまった。

 三〇三号室に二人きりとなった理人と一谷は、残ったワインとつまみをちびちびと空ける。

 寛いで語らいながらも言葉数が少なくなるのは、昼間の引っ越しの疲れが出たせいか、慣れぬ洋酒に酔ったせいか。

 まあ、初対面の花村や桐原との酒宴ではそれなりに気を遣っていたが、気の置けない者同士になれば、無理に話題を作ることもない。一谷の下宿で酒盛りをしていた時からの変わらぬ光景だ。

 やがて、一谷の口から大きな欠伸が零れ出たのを見計らい、理人は空になったティーカップを手に椅子から立ち上がった。


「一谷、こんな時間だ。市電もとうに終わっているし、今夜は泊まっていくといいよ」


 理人の誘いに、しかし一谷は渋面を作って首を横に振る。


「いや、帰る。歩いてでも帰る」

「……そういえば一谷、霊というのは場所だけでなく、人にも憑くと言う話を聞いたことがあるんだが」

「い、いきなり何の話だ」

「僕みたいな薄情な人間より、一谷のように信心深く情に厚い人間を霊は好むかもしれないから、帰りは気を付けなよって話かな」

「お前はいちいち脅かすようなことを言うな!」


 鳥肌が立ったのか、着物の袖を摩りながら一谷が怒鳴る。

 幽霊話を聞いて怖がっていた一谷は、この部屋に泊まることが嫌だったようである。

 しかし結局、このまま一人で帰るのも不安と思い直したようで「仕方ないから泊まってやる。今まで散々居候させてやったことだしな!」と開き直った。


 片付けを終え、簡易浴室でそれぞれ軽く湯を浴びて小ざっぱりしてから床につく。

 外国人向けというアパートに備え付けられた寝台は通常よりも大きいとはいえ、さすがに大男二人並んで寝るには狭すぎる。

 一人はソファーを使うことになり、しばしの応酬の後に家主特権で一谷を寝室に追いやった理人は、ソファーに寝っ転がった。

 二人掛けのソファーからは長い脚の膝から下が飛び出るが、弾力のあるクッションの寝心地は煎餅布団に比べれば格段に良い。上掛け代わりの浴衣を被ったものの、そういえば電気を消し忘れていたと理人が身を起こした時だった。


 ――コン、コン。


 小さな、しかし確かなノックの音が理人の耳に届いた。



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