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帝都メルヒェン探偵録  作者: 黒崎リク
第三話 怖がることを覚えた男
21/77

(3)


 鍵を閉めていなかったせいか、理人が返事をする前に勢いよく扉が開いた。

 ノブを握るのは、もちろん花村である。赤い浴衣のガウンは脱いでいるため、一見すると普通の青年のようにも見えた。

 栗鼠のような目をぱちりと瞬かせた彼は、自分で扉を開けたくせにしみじみと呟く。


「ふむ、鍵を掛けていないとは何と不用心な」

「ちょっと花村さん。駄目ですよ、返事も無しに開けたりしては……」


 花村を嗜めたのは、落ち着きのある真面目そうな声だ。


 声の主は花村の背後から現れた、眼鏡をかけた男である。

 花村よりは年上に見えるが、まだ若い。おそらくは理人や一谷と同じくらいか、少し上くらいの歳だろう。

 癖のない黒髪を緩く撫でつけて清潔なスーツを着こなす姿は、近年、エリート職業の代名詞であるサラリーマンのように見えた。声に似合った、誠実そうな外見をしている。


 男は理人に向かって、軽く頭を下げてきた。


「突然お邪魔して申し訳ありません。私は桐原きりはらと申します。下の階の二〇二号室の者です。その……花村さんから、新しい入居者を皆でお祝いしようと誘いを受けまして……」


 桐原はどうやら花村に強引に連れられてきたようで、困ったような微笑みを見せた。理人もそれに苦笑を返し、丁重に断ろうとする。


「それはどうもありがとう。しかし、今から僕の友人が引っ越し祝いをしてくれるので……」

「おお!ならば共に祝おうではないか。人数は多いに越したことはないしな!」


 花村は名案とばかりに提案する。

 こうなると、わざわざ断るのも難しい。理人と一谷は目線を交わした後、花村の誘いを受けることにしたのだった。




 神保町から少し遠出をし、北東の方角にある連雀町に向かう。


 連雀町は、国鉄の万世橋駅前にある町だ。

 万世橋駅は東京で初めて駅前広場が造られた駅であり、この界隈には飲食店や寄席、映画館などが多く集まっている。

 人が多く集まる盛り場となったものの、大正末期の大震災で豪奢な赤煉瓦の駅舎が焼失し、さらには他の路線ができたことで、駅自体の利用者は次第に減っていっていると聞く。


 しかしながら、駅前の人の賑わいは残っているものだ。

 陽も傾いた夕刻の連雀町。人々が行きかう中を、花村が行きつけであるという明治創業の鳥鍋屋に理人達を案内した。


「まあまあ、花村様ではございませんか。ようこそお越し下さいました」


 鳥鍋屋の女将は花村と顔見知りらしく、予約もしていないのに愛想よく四人用の個室へと通してくれる。床の間のある六畳間は、明らかに上客用の和室であった。

 すぐにそれぞれ一人分の鉄鍋と炭火の焜炉が出されて、女将手ずから鍋の中に具材と割り下を入れてくれた。「どうぞごゆっくり」と女将が退室した後は、鍋が煮えるのを待つだけである。

 甘い醤油と出汁の香りが立ち上る中、理人の隣に座った一谷はどこか不安そうに、財布の中身をこっそりと確認している。

 それに気付いた花村が、からりとした口調で言った。


「心配しなくともここは僕の奢りだよ、仁王君」

「……その、だな。『仁王』は止めてくれんか。俺には一谷いちや高正たかまさという名があるのだが」

「おお、これはすまんな。一谷高正仁王君」

「……」


 馬の耳に念仏という状況に、一谷ががくりと項垂れた。しかし慌てて顔を上げて花村に言う。


「話を戻そう。君は奢ると言ったが、千崎ならまだしも、俺が奢ってもらうわけにはいかんだろう」

「千崎?……ああ、ダビデ君のことか。なぁに、一人奢るも三人奢るもさして変わらんよ。第一、誘ったのは僕だしな」

「しかしだな」

「気にしなくていい。僕は金持ちだからな」


 あっけらかんと言うものである。花村の堂々とした宣言に呆気に取られる一谷に、桐原が説明を付け足す。


「花村さんは売れっ子の画家なんですよ。少年少女雑誌や婦人雑誌に絵が掲載されていて、彼の美人画や役者絵は特に有名です。絵はがきやポスターもかなりの売り上げがあるようですよ」

「あれは趣味の一つに過ぎん。本業は彫刻の方だ」


 花村は大したことの無いように言うが、理人も一谷もほおと感心する。

 出会ったときの花村の言動――モデルだのアトリエだのという言葉の端々から、彼が芸術家か美術学校の生徒であろうと思っていたのだが、まさかそこまで名のある芸術家だったとは。

 理人と一谷の視線を受けながら、花村は腕を組んで、ふうと息を吐く。


「それに、この中じゃあ僕が一番年嵩だ。年長者が奢るのは当たり前だろう」

「……は?」

「君らの顔や手の状態を見れば、せいぜい二十五、六といったところだ。三十路を迎える僕の方が年上だろう?」


 三十路。

 この小柄でひょろりとした栗鼠のような青年が、三十路。


「……」


 今日何度目になるだろうか。無言で顔を見合わせる理人と一谷の視界の片隅では、桐原が「気持ちはわかる」と言うように苦笑を見せている。

 童顔(と突飛な言動)のせいで年下と思っていた青年が、実は年上であったという衝撃を何とか受け止めた理人は、一谷に声を掛ける。


「それじゃあ、せっかくだからお言葉に甘えることにしようか。なあ、一谷」

「う、うむ……」


 一谷が何とか頷く最中、焜炉の上の鳥鍋は、ぐつぐつと美味そうに音を立てていた。



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