第三話 怖がることを覚えた男(1)
神田區は神保町。停車場から南に下った書店街の一角に、その建物はある。
白灰色の石造りに濃緑色の玄関扉や鎧戸が映える、三階建ての洒落た洋風建築。理人が訪れるのは、これで二度目である。
「……」
「一谷、顎が外れたか?」
隣で呆けたように建物を見上げる友人を、理人は揶揄った。一谷ははっと我に返って、開きっぱなしだった口を閉じながらも、驚きの表情はそのままに理人を見やる。
「お……おまえ、本当にここか?間違っていないだろうな?」
近頃、銀座や青山、代官山などに建てられている文化住宅、高級アパートメントにも負けず劣らずのモダンで洒落た外観に、一谷は大いに慄いていた。
そんな一谷の肩には風呂敷に包まれた大きな荷物が背負われ、左手にはこれまた大きな革製のトランクが握られている。
かく言う理人の手にもトランクが一つ抱えられていた。これ一式、理人の荷物、全財産である。
今日は、理人が引っ越す日であった。
「金の鳥の館」の事件を解決してから三日が経つ。その間、理人は新居への引っ越しのために準備を……と言っても、元々一谷の家に居候していた理人には大した荷物など無い。
一張羅を含めたスーツや洋服が数着、下着や浴衣、古びた煎餅布団。学生時代から愛用している筆記具に、本が数冊。骨董市で買ったティーカップに置時計……。
寝台や箪笥といった家具は部屋に備え付いていると聞いていたので、身の回りの物をまとめるだけですんだ。
三日の期間を要したのは、新居となる部屋の準備である。空き部屋となって三か月ほど経つらしく、設備の調整や掃除に少々時間がかかったようだ。
新居となる建物を改めて見上げて、理人は呑気に感想を言う。
「いやあ、家賃高そうだなぁ」
「おい千崎、大丈夫か?本当にタダなのか?やっぱり騙されちゃあいないか?」
心配顔の一谷に「大丈夫でしょ、多分」と理人が返した時だった。
「……千崎様ですか?」
横から女性の声が掛かる。
落ち着いた響きの声に目をやれば、洋装の若い女性が立っていた。
年は二十代前半といったところか。長い黒髪を一つに結わえ、細面の涼やかな顔立ちをしている。すらりとした肢体に、白い洋シャツと濃紺色の長いスカートという簡素な格好が似合っていた。
女性は一礼して、理人を見上げてくる。
「はじめまして、私は高倉淑乃と申します。千崎様を案内するよう、小野カホル様から言い付かっております」
女性――淑乃は、カホルからの使者であった。
理人は帽子を取って軽く一礼する。
「やあ、はじめまして。僕は千崎理人です。どうぞよろしく」
「……」
無言の隣を見やれば、一谷が固まっていた。女性を前にすると(仕事の時以外は)極度に緊張する性質なのだ。肘で小突けば、一谷は慌てて挨拶をした。
「お……わ、私は一谷高正と申します!千崎の友人でありますっ。こいつは無精者ではありますが、決して悪い男ではありません。何卒よろしくお願い申し上げます!」
そう言って、淑乃に向かって勢いよく頭を下げた。
「……一谷、いきなり何を言い出すんだい」
まるで出来の悪い息子を送り出す母親のようである。一谷の突然の言動に、理人は照れくさいやら恥ずかしいやらで、困りながら項を掻いていれば、ふっと小さく吹き出す音がした。
見やれば、口元を押さえた淑乃が「失礼いたしました」と軽く咳払いをする。改めて理人と一谷を見やって会釈した。
「それでは、お部屋に案内いたします。こちらへどうぞ」
カフェー・グリムが入る建物は、乙木文子が所有するものであった。『乙木ビル』と呼ばれているらしい。竣工は光和二年で、外装も内装もまだ新しく綺麗である。
乙木ビルは一階が店舗、二階三階が住居と分けられている。およそ八間(約十五メートル)の幅が四つに仕切られ、中央の左側に階段室が設けられていた。
一階はすべて店が入っており、右端から古書店、カフェー・グリム、階段室のエントランス、そして左端が輸入品店であった。
ちなみに、淑乃という女性はこの乙木ビルの管理人兼女中をしているそうだ。
淑乃に続いてガラス扉をエントランスに入り、階段室に設けられた管理人室の前を通り過ぎて、石造りの階段を上っていく。
艶のある焦げ茶色の木の手すりや、天井の釣り鐘型の照明には細やかな装飾が施されて、お洒落である。理人はさほど驚きはしないが、後ろを付いてくる一谷は辺りを見回してはしきりに感心していた。
二階に付けば、階段室の一角に設けられた長椅子に一人の青年が寝っ転がっている。ひょろりと薄い体に皺だらけのシャツと黒いズボンを纏い、赤地に派手な柄の浴衣をガウンのように羽織っていた。
長椅子でだらりと仰向けになって天井を見上げていた彼は、淑乃に気づくとがばりと起き上がった。
短髪は寝ぐせなのか元々なのか、ぼさぼさとしている。顔立ちは幼く、栗鼠のようにくりっとした丸い目と大きな口は愛嬌があった。
「おお、淑乃嬢ではないか!今日も麗しくて何よりだ!」
愛想よく淑乃に近づこうとした青年は、ふと、その背後に佇む六尺前後の大男――理人と一谷に目を向けてくる。
青年は理人を見て、丸い目をさらに丸くした。ぽかっと口を開けて見上げてくる彼の視線は徐々に強くなり、熱を帯びてくる。
「うっ……」
やがて、呻いて顔を伏せた青年に、理人と一谷は不安げに目線を交わした。
「その……彼は持病か何かを持っているのかい?」
「まあ、似たようなものです」
こそりと尋ねる理人に、淑乃がさらりと答えた直後だ。
青年はばっと顔を上げて、理人の両手を掴んでくる。咄嗟に一谷が荷物を床に降ろして身構え、理人も腰の重心を落として構えたが――
「美しい!!」
「は?」
「なんと美しい身体なんだ!!」
きらきらと目を輝かせた青年が、ぺたぺたと理人の腕から肩、脇や腰を触ってくる。
「ああ、この腕と指の長さの調和、上腕と肩の筋肉も申し分ない!首の太さも、顎の骨格も、腰の筋肉のしなやかさも、ついでに顔の造作も、実にバランスが取れて美しい……!」
「ちょっと、君、少し落ち着きたまえ」
「うむ、良い鍛え方をしている。無駄な肉は無さそうだ。その邪魔な服を脱いだ裸体はさぞや美しかろう!……ああ、素晴らしい。神が僕に天使を使わしてくれたのか。そう、まるでミケランジェロのピエタのよう……いや、ダビデ!そう、ダビデだ!君は僕のダビ――」
「おい、やめんか!」
言動の怪しさが増してきた奇矯な青年を、最初こそ呆気に取られていた一谷が急いで取り押さえた。
すると、青年は慌てる風もなく、くるりと一谷の方を見上げる。そうして一谷の腕をさわさわと触り始めた。
「おわっ!?」
「おお!君も日本人にしては良い骨格をしているな。少々ごついが、上背もあるし、いい筋肉の付き方だ。さながら不動明王……いや、その怖い顔はまさに仁王像だな!うむ、君は仁王君というわけか。どうだい仁王君、ダビデ君と一緒に僕のモデルになってくれまいか?」
「は、はあ?」
勝手に綽名を付けられた一谷は不惑の表情で、理人を見やる。奇妙な青年からすぐにも手を放したいようだが、解放するのも何だか怖い、という葛藤が見て取れた。
「ああ、今日はなんて素晴らしい日なんだ!僕のこの溢れんばかりの情熱を捧げるべき相手を二人も見つけることができるなんて。よし、時は金なり光陰矢の如し、この一瞬一瞬の生命の美しさが失われるのは実に惜しい。さあ二人とも、僕のアトリエに来たまえ!」
困惑する理人と一谷をよそに勝手に話を進める青年を止めたのは、淑乃であった。
「花村様、落ち着いて下さいませ」
そう言って、淑乃が青年――花村の手首を取って軽く捻った。それだけで興奮状態だった花村の動きが止まり、「いたたたたた」と情けない声を上げる。
その間に理人と一谷は彼から距離を置き、淑乃の背後へとまわった。女性を盾にすると言うのも情けない話だが、ここは対処に慣れたものに任せた方がいいだろう。
花村は憑き物の落ちたような顔で、淑乃を見る。
「よ、淑乃嬢、放してくれたまえ」
「ええ。どうも、ご無礼いたしました」
淡々と謝罪した淑乃が、花村の手首を放した。花村は手首を撫でながら、あはは、と苦笑する。
「いやいや、僕の方こそ悪かった。幸運の女神を前にして、ついつい興奮してしまったみたいだ」
すまんな!と屈託なく謝られては、理人と一谷も苦笑を返すしかない。
淑乃は花村に向かって、理人と一谷を紹介する。
「花村様、こちらは本日から入居される千崎様と、御友人の一谷様です」
「うむ、そうか。僕は花村宗介というものだ!そこの二〇三号室を借りている」
そこ、と言って指さすのは、廊下の左端の一室である。
花村はにっこにこと満面の笑みを浮かべた。
「僕はたいてい部屋にいるから、いつでも来たまえ。ダビデ君も仁王君も歓迎するぞ!……さあ、こうしてはいられない、さっそく創作に取り掛からなくては!彫像、絵画……ああ、どちらも捨てがたいなぁ」
ふんふんと鼻歌を歌いながら、花村は浴衣を翻して部屋に戻ってしまった。
まるで台風のような男だ。花村の背を見送る理人と一谷に、「いつものことです」と淑乃は何事もなかったように言った。
当初は閑話の予定でしたが、予定よりも長くなったため、第三話として更新します。
全五話ほどになる予定です。
また、設定を少し変更し、建物の幅を広くしています。
階段室を作るのを忘れていました……。
建物の造りは、青山アパートや奥野ビルを参考にしております。




