(11)
弥恵子が家族に付き添われて病院へ行くのを見届け、理人とカホルは『金の鳥の館』を後にした。
弥恵子からもその家族からも大変感謝され、ぜひとも今度お礼をと言われたが、カホルは「それでしたら、乙木夫人の方へ」とかわした。いつものやり取りなのか、慣れた対応であった。
理人とカホルはあくまでも乙木夫人の『代理』であり、表には出ないのがこの『仕事』なのであろう。
タクシーを拾うため、材木町の停車場まで向かおうとしたとき、カホルが理人を呼び止めた。
彼の顔には常に浮かべている微笑みが無く、どことなく沈んだような表情に見える。依頼は上手くいったというのに、どうしたと言うのだろう。
「どうしたんだい?」
「首の怪我は、大丈夫ですか?」
「……ああ」
問われて、思い出す。
女中から叩かれそうになったカホルを庇った際に、首の辺りを叩かれ、引っ掻かれたのだった。その部分に触れてみれば、小さな痛みが皮膚に走る。
わずかに眉根を寄せれば、カホルが目を伏せた。しゅんと落ち込んだ気配を感じる。
微笑みを絶やさず、利発で機転が利き、丁寧ながらもどこか人を食ったような態度を取るカホル。子供らしくない、少し不思議な存在であったが……。
こうして大人し気な姿を見ると、カホルも普通の人間であるのだと実感して、何だか少し可笑し気な気分になった。
「このくらいの怪我はどうってことはないよ。……ただ、今更だが、君はなかなか無謀だと思うよ。もし、あの女中が『木の籠』を選択していたらどうする気だったんだい?」
もし彼女が童話を知っていたら。木の籠に入れて、鳥が鳴くこともなかったら。きっと、あんな反撃の好機が訪れることも無かった。
カホルは俯きながら訥々と答える。
「私が出した助言に一切反応しなかったところを見れば、彼女が童話を知らないことはわかりました。グリム童話の本をあなたに渡した時も、黄金のりんごの柱時計の時も、まるで初めて見るようでしたから。仮に童話を知っていたとしても、知らずに木の籠を選択したとしても、そのときは隠し遺産が出てきて油断した隙を見計らって、反撃に転じればと思って……その、あなたは武道の心得があるようでしたから」
握手したときに剣だこがあったので、とカホルはこちらが尋ねる前に説明する。相変わらずの人間観察ぶりである。
「ですが……私の不注意であなたに怪我をさせました。申し訳ありません」
「……」
殊勝に謝るカホルに、理人は呆気に取られた。まさか謝られるとは思っていなかったので、何だか調子が狂ってしまう。
理人はしばし口をつぐんだ後、カホルの頭をぽんと軽く叩いた。カホルが驚いたように顔を上げる。
見上げてくる黒い瞳を見下ろして、理人は言う。
「君は、僕の雇い主だろう。もう少し堂々としていたまえよ。僕が守るのは当たり前なのだとね」
「……」
「第一、君に何かあればせっかく見つかった仕事が無くなってしまうし、住む場所もまた探さなくてはならないだろう?それこそ今朝、僕は同居人に仕事と住居が見つかったと、自慢気に言ってしまったんだ。これで結局駄目になったと言って戻れば、それ見たことかと同居人に説教されるに違いない。それは御免被りたいんでね」
お道化た調子で肩を竦めてみせれば、カホルが目を瞬きさせる。無防備な子供の顔をする彼に、理人は片目を瞑ってみせた。
「それより、僕は君の期待に応えられただろうか?君の助言を聞き、道を開くことはできたかな?」
――カホルは、『黄金の鳥』に出てくる狐のような存在だ。
すべてを知ったうえで、助言を与えて三男を助けてくれる。
あの童話では、三男が助言を忘れて間違いを犯したために危険な目に遭うが、理人は三男のように間違う訳にはいかないと自負していた。
いかに助言を汲み取って、期待に応えて成功させるか。
もし失敗して、狐……もといカホルに助けられてばかりだなんて、癪である。
それが、今の理人に与えられた仕事。カホルの代理となって、探偵役をこなすための器量ではないだろうか。
理人の問いかけに、カホルはしばらく呆けていたが、ふっと笑いを零す。静かな口元だけの微笑みとは違う、つい笑ってしまったという自然な笑みだ。
「……ええ。十分合格点ですよ、千崎先生」
やがて笑みを微笑へと変え、小生意気な態度に戻ったカホルに、理人も合わせる。
「なるほど。それでは、合格祝いに何か奢ってくれるかな、カホル君」
「おや、助手にたかる気ですか」
「だって財布の紐を握るのは君だろう。さあ、どこに行こうか。銀座に美味しいカツレツを出す店があるよ。煉瓦亭だったかな」
「銀座でしたら、資生堂か千疋屋でしょう。クリームソーダかフルーツポンチ、どちらがいいですか?ああ、木村屋のあんパンもいいですね」
「全部甘いものじゃあないか。もうお昼も回っているのだし、腹に溜まる食事の方がいいと思うんだが」
「私は甘いものでもお腹を膨らますことができますが」
カツレツだ、コロッケだ。
いや、サブレだ、シュウクリィムだ。
並んで歩く二人の言い合いは、停車場でタクシーを拾うまで繰り広げられたのだった。
これで第二話は終了です。
次話は閑話です。
理人の引っ越し話で、カフェー・グリムの客や階上の住人が登場します。




