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帝都メルヒェン探偵録  作者: 黒崎リク
プロローグ
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プロローグ


 それは、珍しい光景であった。


 神田區かんだくは神保町、大正二年の大火後の復興の折に作られた書店街に訪れていた僕の目に留まったのは、一人の女学生である。

 明治大学や中央大学などの大学だけでなく、中学校や職業学校も多い神田には女学校もあるので、女学生がいてもおかしくはない。

 しかしながら、その少女――そう、まだ尋常小学校を出た十二、三歳ばかりと思える姿の少女が、普通の書店ならまだしも、英語や独逸ドイツ語、仏蘭西フランス語で書かれた洋書ばかりを置く専門店に、一人で訪れていることは珍しいと言えるだろう。

 幼さを多分に残す少女が女学生だと知れたのは、白い夏用のセーラー服を着ていたからだ。

 数年前までは、女学生と言えば銘仙の着物に女袴姿の者がほとんどであったが、最近は洋装のセーラー服やワンピースを制服と定める女学校も出てきたと聞く。

 どこの女学校かは知らないが、大きな襟が特徴のセーラー服は少女には少々大きいようであった。白い袖や膝下丈のスカートからのぞく手足は細く頼りなく、仄暗い棚の間でぼんやりと浮かぶようにも見えた。

 長い黒髪を二つのお下げにした少女は、一歩進んでは立ち止まって、棚を見上げている。低い身長では一番上の棚が見づらいのか、空を見上げるような角度で、睨むように背表紙を見据えていた。


 彼女は一体、何の本を探しているのだろう。

 そもそも外国語が解っているのだろうか。


 その幼い横顔はひどく真剣で、話しかけるのも躊躇われる。

 そう感じているのは、僕だけではないようだ。

 周囲にいる洋装姿や袴姿の男子学生達は浮ついた様子で、少女の方をこそこそと見やっては、互いに肘をつつき合っていた。話しかけてみろよ、お前がやれよ、と囁き合っているのが聞こえずともわかる。

 もっとも、僕には小突き合う連れもいないので、横目で少女を見やった後、目の前の棚の方へと意識を戻した。

 気にはなるが、関わり合いたい訳ではない。

 独逸語の本が置かれた棚でアルファベートを目で追っていたが、やがて少女が上の棚へと手を伸ばすのが視界に入る。精一杯背伸びしても届かぬ棚に目的の本があるのか、爪先立ちになった少女は誰に頼むわけでもなく、自力で本を取ろうとしている。

 男子学生達は、いまだ動く気配がない。手助けして話しかけるいい機会であるだろうに。

 溜息をつきながらも、少女に一番近い位置にいることもあって、結局動いてしまう自分である。


「君、どの本を取りたいんだい?」


 少女の傍らに数歩で近寄り、無作法だとわかりながらも声をかけた。

 途端、少女がびくりと肩を跳ね上げてこちらを見上げてくる。大きく見開かれたのは、眦がやや吊り上がった小鹿のような目だった。

 薄暗い室内で光彩と瞳孔の境が溶け合い、弱い光を滲ませた黒い瞳が、僕を見つめる。

 少女はしばらく呆けていたが、やがてはっと息を呑み、警戒するように少しだけ後ずさった。まあ、いきなり見知らぬ男子から声をかけられたのだから、警戒するのも当然だろう。

 妙な意図はないことを示すため「良ければ僕が代わりに本を取ろうか」と申し出ると、彼女は躊躇いながらも、棚に伸ばしていた右手の人差し指で示して小さな声で答えた。


「『Kinder- und Hausmärchen』……です」


 幼い少女の口から出たのが、綺麗な独逸語の発音だったことに内心で感心した。

 なるほど、洋書専門店にいるのは相応だったわけだ。それにしても、『子供と家庭のための童話』とは。


「グリム童話が好きなのかい?」

「ご存じなのですか?」


 問いかけに対し、逆に問い返された。日本では一般的に『グリムお伽話』と翻訳されている原本の、正式な題名を知る者はそれほど多くないからだろう。

 頷いて肯定すると、少女はぱっと顔を輝かせる。朋輩を見つけたと思ったのか、目から警戒の色が一気に薄れた。

 一番上の棚にあった、金色の文字で題名が書かれた背表紙の本を取って手渡せば、少女は頬を緩ませながら、「ありがとう存じます」と礼を言ってくる。その嬉しそうな様子に、ふと興味が湧く。


「原本で読む程好きなんだな」

「ええ、独逸語の勉強になりますし。それに、気になることもありましたので」

「気になること?」

「はい。いばら姫の寝相はどのようなものか、いろいろ気になってしまって」

「……は?」

「だって、王子様が来た時にいばら姫の寝相が悪かったら台無しでしょう? うつ伏せだったら顔なんて見えませんし、足なんて開いていたらみっともないですし、まさに百年の恋も冷めるというものではありませんか。そもそも百年も同じ体勢で寝ていたら、床擦れを起こすかもしれませんし、寝返りを打つ必要があるのではないでしょうか。王様やお妃様や、犬や馬だってそうです。火や風も消えてしまうなんて、どういう仕組みだったのかしら」

「あ、ああ…」


 急に饒舌になって語りだす少女の勢いは止まらない。「訳本には載っていませんでしたので、原本ならもっと詳しく載っているのではと思いまして」と熱弁を続ける。

 少女の勢いに呆気に取られながら、少し変わった子だと頭の片隅で思う。

 原本にも、そんな所まで書いていないだろう。所詮は物語であり、現実にはあり得ない妖精や魔法が登場する、子供のための読み物である。

 思ったものの、少女のいきいきとした目の輝きと子供らしい好奇心を妨げるのも悪い気がした。


「寝相を良くするには、やはり足を紐で縛っていた方がいいと思うのです。自害の際に女性が着物の裾を乱さぬように、膝下を縛るのと同じような感じで――」

「いや待て、君」


 前言撤回だ。

 急いで妨げた。

 少女の薄紅色の唇から自害などという物騒な言葉が飛び出してきて、何事かと周囲の視線が飛んできたからだ。しぃ、と唇の前に人差し指を立てて見せる。


「あまり物騒なことを言うものではないよ」

「あっ…」


 少女は我に返ったようで、両手で慌てて口元を押さえた。可愛らしい仕草ではあったが、いかんせん、少女の珍妙な一面を見てしまった今では複雑な面持ちで見るしかない。


「ご、ご無礼いたしました、私……ああ、もう、兄様から再三注意されていたのに……」


 顔を赤くして恥じ入る少女が少し哀れになってきて、和めるように笑みを見せた。


「まあ、その……興味を持って調べることは、とても良いことだと思うよ」

「……そうですか?」


 少女は困り眉のまま、しかし面映ゆそうに目を伏せる。

 どうもありがとう、とはにかみながら再び礼を言う彼女は年相応に見えて、今度は可愛らしく思えたのだった。


 そんな妙な少女と出会ったのは、大正十二年、七月の終わりの出来事。


 その約一か月後、九月一日の午前十一時五十八分、関東地方南部を激しい揺れが襲った。

 のちに関東大震災と呼ばれる、未曽有の大災害である。帝都・東京を壊滅させ、多くの死者・行方不明者を出した震災は、都にも人々の心にも深い傷を残すことになる。

 そしてそれが、僕と彼女の運命を再び交えるきっかけとなることを、この時の僕は知る由もなかった――



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