40話
「ならお姉ちゃん。相手が嫌じゃなかったら、抱きついてもいいんだよね?」
「えっ?」
アイリスは、ナーレの言葉の意味が、なんなのかわかっていない様子で困惑しているようだった。
「だって、勝手に抱きついたのがいけなかったんだから、お兄ちゃんが嫌じゃないならいいってことだよね?」
「……!」
ナーレの言葉の心意がわかったのか、アイリスは驚愕した顔になると、ゆっくりと視線は俺へと向けられた。
その顔は何かを訴えているように見えたが、なんなのかはまるでわからない。
ただ、俺にだってわかることはある。
ナーレがなぜそんなことを今言ったのか、それが何を意図していて、次に何を言おうとしているのか、先の見えたよくない未来は、抵抗する余地もなく訪れた。
「お兄ちゃんは、私に抱きつかれるのは嫌ですか?」
わかっていたはずなのに、これ程までに答えを用意できない質問があるんだろうか、仮にそんなことはないと言った場合、ナーレに味方することになり、嫌だと言った場合、アイリスの味方をすることになる。
どちらを選んだとしても、良くない未来が待っているのは間違いない。
純粋に、ただ正直に答えるなら、ナーレに抱きつかれるのが嫌だと言うわけではない。
別にされたいわけでもないが、不快感はなく、むしろいい匂いがして心臓の鼓動が少し早まったくらいだ。
けど、それはたぶん男であれば大抵はそうだろう。これが仮にナーレではなく、アイリスだったとしても、同じような感情を抱いたはずだ。
しかし、それを正直に言ってもいい結果になるとは思えない。
ついさっきまで、黙っていろと言われたばかりだったのに、いつの間にか話の中心に持っていかれてしまっている。
どう足掻いても無駄だと悟った俺は、どちらに転んでもだめなら正直に答えようと口を開いた。
「俺は……」
「はい、そこまで」
突然、俺の発言は遮られた。声のした方へ体ごと向くと、そこには、ベッドの上で少し怒った表情をしているイザベラがいた。
それを見てようやく、俺はハッと我に返った。
つい三人しかいないかのように思えてしまっていたが、ここにはイザベラだけではなく、領主であるナギールもいたんだ。
イザベラは二人の母親だからまだいいとして、領主のいる場で領主をかやのそとにして、もめ始めるのは余りにも失礼だ。
幸いなのは、ナギールは機嫌を損ねてはいないようだということだが、だからと言って、なんでもやっていいわけではないだろう。
俺と同様にアイリスとナーレも我に返ったようで、今はかなりばつが悪そうな顔をして黙っていた。
すると、場が落ち着いたのを見計らってだろうか、ナギールが口を開いた。
「いやはや、このまま永遠と続くんじゃないかと思ったよ。三人の会話を見ているのも楽しいが、出来れば私も話しに参加させてほしいのだがね?」
ナギールは、眉は下げて口角は上げ、困り笑いを俺達に向けた。
叱咤を受けても仕方ない状況だというのに、嫌味をまったく感じさせない紳士なその対応で、余計に申し訳なく思ってしまう。
そもそもの目的は、俺が領主に会いたかったから来たわけで、それなのに目的を忘れて三人の世界を作ってしまっていた。
それなのに、一切の怒りの感情を見せないナギールの心の広さに、俺は感心と感謝したと同時に、自分の中での貴族の固定概念が崩れさっていくのがわかった。
全ての不安要素が解消されたわけではないが、貴族らしからぬ対応を見せるナギールを、必要以上に疑って見るのはやめにしよう。
幼少期に裏切られ、見捨てられた以来、どんな人にたいしても、距離をおこうとし、良くない時は、疑心暗鬼にさえ陥った。
こんなことじゃダメだ。出来る限りの疑念を捨てろ。
俺は態度を改めて、ナギールに向きよった。
「悪かった。詫びになるかはわからないが、俺に出来ることならなんでもする。許してくれ」
「蓮だけじゃなくて私も悪かったわ……ごめんなさい」
「私も……ナギール様。ごめんなさいです」
小さく頭を下げた俺の後に続くようにして、アイリスとナーレも頭を下げた気配を感じた。
「待ってくれたまえ、何もそこまで深く反省しなくとも、私は気にしてなどいない」
ナギールは、どこか慌てるような声で、俺達の行動を制そうとした。
だけど、それに異を唱える人物がいた。イザベラだ。
「ナギール様。甘やかしてはだめですよ?相手がナギール様だったからよかったけれど、他の貴族の方なら、その場で捕らえられてもおかしくないんですから」
イザベラの言うことはもっともだった。
領地を持つ貴族は、その領地においての法であり、黒を白にさえ変えられるだろう。
大っぴらに目に余るようなことをしなければ、バレずに平民一人二人の人生を壊すことなど容易いだろう。
ここ、アウステルが仕える王国は、遥西北に位置する場所にあるコルゾールという名の王国だったはずだ。
距離を考えるに、これだけ境な土地なら、簡単に事実は揉み消され、王国に伝わることはまずないだろう。
仮に、横暴な態度が目立って王国に伝わるようなことがあれば、人口も少ないこの街の領主など、王国に逆らえるだけの力などあるわけもなく、簡単に切り捨てられるだろう。
それが抑止力になればいいんだろうが、人一人が何かされたくらいでは、バレたとしても王族が動くことはないはずだ。辺境な土地とは言え、国に仕える貴族は、口の力であり、多少の横暴には目をつぶる。
人一人の価値なんてものは、所詮そんなもので、人の言う価値とは、人が決めるものに過ぎない。
価値があると判断されたものは重宝され、価値がないと判断されたものは見捨てられる。
だからこそ、俺達のような平民は、貴族相手には失礼がないようにしなければならず、時には意に反したこともしなければならない。
俺のように、貴族に注意ははらっても、恐れない人間は、平民の中にも例外としているだろうが、今回に限って言えば、アイリスとナーレを巻き込んでしまっている。
元を辿れば、俺がアイリスにこの場を用意させたようなものだし、本来であれば、俺が強く二人を止めるべきだった。それなのに、イザベラは、アイリスとナーレ二人だけに向けて注意しているようだった。
自分の責任を訴えたかったが、娘を諭すイザベラの姿と、幼い子供のように反省するアイリスとナーレの母と子の姿を見たら、心に黒い杭を打たれたかのように苦しさを感じ、その輪に割ってはいることができなかった。
俺が、自分でもわからない感情に何も言えないでいると、ナギールはナギールで、イザベラの言葉に思うところがあるのか、納得いかないという顔をしていた。




