39話
「ナーレ!?」
「あらあら、ナーレちゃんたら」
「ふむ……」
ナーレの突然の行動に、皆が違った驚きを見せる中、誰よりも驚いているのは俺自身だった。
「あの……私のお願い聞いてくれますか?」
ナーレは、周囲の反応など意に返さない様子で、俺だけを見つめている。
この状況でいきなりなにを言っているのだろうか、まったく行動との関連性が見いだせないが、そのお願いとやらを聞けば現状を理解出来るのかもしれない。
俺は、思考が今目の前にある現実についていけない中、それでもなんとか声を絞り出すようにして発する。
「お願い……?」
「そう、お願い。そんなに難しいお願いじゃないよ?」
ナーレのお願いは、イザベラとは、また違った断れない空気が漂っていた。親子揃って厄介な相手のようだ。
イザベラと比べると、顔つきはアイリスの方が似ているが、性格の方はナーレが似たらしい。
アイリスの性格は、おそらく父親に似たんだろう。
出来ることなら妹もそうであってほしかったが、抱き締める強さはより増して、解放してくれるような様子ではなかった。
こうなると、お願いを聞き入れるしかないんだろうが、イザベラ似の娘なだけに、ろくなお願いじゃないことが推測される。
とはいえ、もはや逃げられないことを悟りつつあった俺に、出来ることなど何もなかった。
「わかった。聞くから離してくれないか?」
「やった!ありがとうお兄ちゃんっ!」
そう言って俺から離れると、悪戯な笑みを浮かべながら、ウィンクしてきた。
「お兄ちゃん……?」
「そう、私のお願いは、お兄ちゃんって呼んでもいいですか、だよっ」
自分から言ってきたのに、ナーレは少し照れくさいのか、頬を微かに赤く染めている。
照れるくらいなら、そんなお願いをしなければいいと思うんだが、だいたい初対面の俺にたいして、警戒心というものがないんだろうか。
それに、ナーレの言うお願いと、抱きつかれたことに、なんら関連性があるとは思えない。
結局、俺はなんのために抱きつかれたんだ。
言いたいことは山程あったが、今それを問いただすよりも、現在進行中の問題をなんとかするのが重要だ。
「なんでお兄ちゃんなんだ?他に呼び方ならなんでもあるだろ?なんなら蓮でも構わない」
別に、年下に年上の男がお兄ちゃんと呼ばれることは、珍しいことではない。
だが、俺の中にある本能的な部分が、大量の汗となって拒否反応を起こしている。
ナーレの発音がいけないんだろうか、お兄ちゃんという言葉の響きが、別の何かのように思えてならなかった。
だからこそ、俺なりに小さな抵抗を試みて、呼び方の提案をしてみたんだが、ナーレはあっさりと首を左右に振って拒否した。
「お兄ちゃんはお兄ちゃんなの!私のお願い聞いてくれるって言いましたよね?」
「くっ……わかった……それでいい」
「えへへ、やっぱりお姉ちゃんから聞いてた通り、優しいんですね」
許可した途端に、蕩けるように表情を崩したナーレは、再び俺に抱きつこうとする。
だが、勢いはつかなそうだったので、避けても危険はないと判断した俺は、本能的に横に1歩移動して体を逸らし、無駄な動きを最小限にして避けた。
「……どうして避けるんですか?」
「いや、反射的に……だな」
頬を空気で一杯にして、俺を睨むナーレは、抗議の眼差しを向けてくる。
どうやら避けられたことが、気に入らないようだ。
しかし、理由もなく何度も抱きつかれて平気な程、女に免疫はない。特に何もなければ、避けてしまうのは当然の結果だった。
仮に、完全な子供なら避けなかったかもしれないが、ナーレの体つきはちゃんと女になりつつある。
胸は姉と違ってないようだが、だからって抱きつくのは勘弁してほしい。
そんな俺の複雑な心境を知ってか知らずか、ナーレは避けられたのにも関わらず、諦めきれなかったのか、もう一度抱きつこうとしてくる。
だが、今度はそれを避けようとはしない。
視界にアイリスがいて、ナーレを止めるのがわかったていたからだ。
アイリスは、ナーレが俺に抱きつく直前に襟首を掴み、後ろに引っ張った。
「うぎゅ!」
急激な勢いの失速に伴い、首を服で圧迫されたナーレは、言葉にならない声をあげて後退すると、アイリスに捕らえられた。
わざわざ、魔装術式まで発動させて、片手でナーレの服の襟首を掴んだ状態で持ち上げた。
その姿は、生け捕りにされた獲物のようだった。
「うぐぅっ!くるひぃっおねぇちゃんっ!」
ナーレは、首が締め付けられて苦しそうにじたばたともがく、それを見てようやくナーレは床に降ろされた。
「げほっげほっ……ひどいよお姉ちゃんっ!ちょっとお兄ちゃんに甘えてただけなのに!」
無事に降ろされて四つん這いに倒れるように、床に這いつくばったナーレは、数回咳き込んだ後、顔だけ上げてアイリスに怒った顔を見せていた。
その顔は、先程までの大人びた顔つきではなく、随分と幼く見えた。
「なにがちょっとよ!私だってまだ自分からっ……じゃなくて!いきなり男の人に抱きつくなんて不健全よ!」
何を最初に言いかけたのかわからないが、ナーレの行動が突拍子もなかったのは間違いないし、アイリスの言うことには同意できる。
少しは納得したかとナーレを見れば、納得するどころか、より反抗的な目に変わっていた。
「べーだっ!ナーレは大人の女性だから不健全じゃないんですー」
ナーレは、舌までだして対抗心をむき出しにしている。そして、ナーレが反抗的であればある程、アイリスの態度も反抗的になり、互いが互いにどんどん反抗的になっていく。
俺が抱きつかれたことが原因なら、俺にも無関係というわけにもいかない。
このままだと姉妹で喧嘩になると思い。俺は無理矢理二人の間に割って入った。
「まぁそれくらいにしといたらいいんじゃないか?」
両方にむけてそう言うと、必然的に二人の視線が俺へと注いだ。
「いいから蓮は黙っててよ!」
「お兄ちゃんは黙っててください!」
「……了解した」
結果、二人に睨まれて数秒で撤退を余儀なくされた。
姉妹が喧嘩になるのは心情的には止めたいが、もはや俺にはどうすることもできそうにない。
自滅覚悟で挑めばなんとかなるかもしれないが、俺に自殺願望なんてものはない。
俺が一歩引いたの確認して、再び両者が睨み合う。
「ナーレは不健全じゃないって言ったけど、もし不健全じゃないとしても、勝手に抱きついてもいいわけ!?」
アイリスの言葉に、ナーレは怯んだように唸り後ずさる。そして、ちらっとこちらを見て、俺と視線が合わさると、今度は勝ち誇ったような顔へ変貌をとげた。
「お姉ちゃんの言うとおり、相手の気持ちも考えないで勝手に抱きついたのはだめだよね。ごめんなさい」
「そっそうよ、勝手に抱きつくなんてだめよ……」
急に自分の非を認めたナーレに、アイリスは疑いの眼差しを向けながらも、同意の言葉を口にする。
アイリスが疑うのも無理はない。ナーレの顔は勝ち誇ったような顔をしていて、言葉とは裏腹に、とても非を認めて反省している顔ではなかった。




