38話
「あら、アイリスちゃん何かしら?うふふっ」
イザベラは口元を手で隠して、どこかの貴族の貴婦人かのように、上品に笑う。
けれど、それは見た目だけで、隠しきれていない悪戯な小悪魔が見え隠れしていた。
「何かしら?じゃないわよ!変なこと言おうとしたのわかってるんだからね!?蓮とはなんでもないって言ったでしょ!」
アイリスは、怒っているとも照れているとも見える表情で、イザベラに詰め寄るが、対するイザベラは、何事もないかのように、上品に笑うだけ、アイリスの姿は、小悪魔に踊らされる可愛そうな人間のようだ。
「なんのことかしら?そんなに必死になって、アイリスちゃんは何だと思ったの?」
「ううっ……知らない!とっともかく!蓮に変なこと言わないでよね!」
「うふふっ久しぶりにアイリスちゃんのそんな顔が見れてお母さんうれしいわ」
イザベラは、そう言うと同時に、アイリスを引き寄せて抱き締めた。
「ちょっと!ママ、恥ずかしいからやめてよっ!」
アイリスは、かなり恥ずかしいのか、耳まで真っ赤に染まっていた。
でも、嫌というわけでもないようだ。イザベラの力を考えるに、アイリスが本気で抵抗したら簡単に引き剥がせてしまうだろう。
だけど、アイリスは引き剥がすようなことはせず、困った顔で大人しく抱き締められていた。
少しの間抱き締めて満足したのか、イザベラは最後にアイリスの頭を撫でて、寸なり解放すると、俺に視線を送ってきた。
「話しの途中でごめんなさいね?つい嬉しくなっちゃって」
イザベラは、申し訳なさそうに笑うが、咎めるような気持ちは、まったく沸いてはこなかった。
「いえ、気にしないでください」
俺がなんとも思っていないことを伝えると、なぜかイザベラは不満そうな表情を浮かべた。
「んー、ねぇ、私だけ他人行儀なのは悲しくなっちゃうわ。私にもアイリスちゃんと同じように接してくれていいのよ?」
「……そういうことならそうさせてもらう」
アイリスの母親ということもあって、アイリスを前にして母親と素で話していいものなのか少し迷った。
自分の母親に生意気な口をきかれて、気分がいいものなのか、母親のことなどわからない俺には判断がつかなかった。
けれど、なんとなくだが、アイリスはそんなことは気にしないような気がしたし、何よりここで断っても、結果的にそうしなければならないところまで、話しをもっていかれるような予感がして、最終的に従うことが最善だと判断することにした。
「ありがとう。じゃあ、私のことは気軽にイザベラちゃんって呼んでね?」
「いや、年の差を考えるとさすがにちゃんは……」
「何か言ったかしら?」
「いや、イザベラちゃんで問題ない」
一瞬、師匠の殺気を目の前にした時を越えるような、悪寒が背筋に走り、俺は本能的に同意してしまっていた。
そういえば、師匠に女にどうしても年齢のことを聞きたいときは、死地に向かうつもりで聞けと言われたのを今更だが、思い出した。
俺は、無意識に危うくその死地に足を踏み入れるところだったみたいだ。
「わかってくれればいいの、じゃあ私は蓮ちゃんって呼ぶわね?」
「れっ蓮ちゃんか……」
俺の一生でまだ一度も呼ばれたこともない呼び方だが、初めて聞くのに恐ろしいほどに寒気がする。
絶対に合っているとは思えない。
「何か問題でもあるかしら?」
イザベラは、能面のように表情をぴくりとも動かさず、笑みを絶やさない。
人の笑みがこれほど恐ろしく思えたのは、初めてだ。
「……問題は……ない」
結局、俺は否定することはできなかった。
これなら、まだ魔物と戦っていた方が気が楽だ。
「うふふ、蓮ちゃんが素直な子でよかったわ」
「……」
俺が何も答えれないでいると、アイリスが哀れむように俺を見ていた。頼むからそんな目で俺を見ないでくれと、力なく肩をおとした。
ガチャ
ふと背後の扉が開く音が聞こえた。
俺は、とっさてきに背後へ振り替える。おそらく全員の視線が扉へと向けられ中、一人の少女が姿を現した。
少女は入ってくるなり部屋を見渡して、俺の姿を見つけると、妙に納得したような顔をして、その場で俺へ向けてお辞儀してみせた。
印象としては、アイリスを少し幼くして、目を垂れ目にした感じの子だ。
「初めまして、お姉ちゃんの妹のナーレ・ベンブロークです」
丁寧に挨拶するその姿は、俺がアイリスから聞いていたナーレの印象よりも大人びているように思えた。
まぁ、俺が聞いていたのは数年前の話で、成長すれば大人びてくるのは当たり前のことだ。何も驚くことはなかった。
「初めまして、名前は既に聞いているかもしれないが、銃宮蓮だ」
「あら、ナーレちゃんおかえりなさい」
軽い挨拶を済ませた俺達の間に割り込むように、イザベラがナーレへと言葉をかける。
「ただいまです。ママ、お姉ちゃん、ナーギル様」
「そこはナーギルでいいんだがね」
ナーギルを見ると、残念そうに苦笑いを浮かべていた。
皆に普段通りにと言っているのは、どうやら本当らしい。
領主という立場がある以上、それに関しては諦めるしかない。
人の上に立つ立場は時に人を制する武器になるが、時に自分を苦しめる毒にもなる。
その点においては、俺は師匠に拾われてた身で、誰に縛られているわけでもない。
どの職種よりも自由なのは間違いない。
広い意味でとらえれば、俺も冒険者と呼べるのかもしれないが、正式に冒険者ギルドに登録しているわけでもないし、する予定もない。
その方が今の俺には都合がいいからだ。
そんなに普段通りにしてほしいなら、いっそのこと貴族をやめたらいいんじゃないかとか言いそうになったが、冗談とはいえ、そんな無責任なことは言えない。
俺は、心の中でナーギルに少し同情するだけに止めた。
ナーギル独り言のような嘆きに、ナーレは何も答えることなく、部屋の中へ進み扉を閉めた。
扉を閉めたナーレは、何を思ったのか、一直線に俺の近くまで歩いてくると、身長差で俺を見上げる形になった。
140そこそこの身長だろうか、俺を見つめながら何やら考えているようだった。
すると、答えがでたのか、小さく頷くと俺を視線から解放してくれた。
どれくらい見つめられていただろうか、時間にすれば数秒なんだろうが、やけに長く感じた。
いったいなんだったんだと、当然の疑問が沸き上がり、俺が口を開こうとした時、ナーレは少し腰を落として状態を低くした。
「待てっ!」
俺は待ち受ける結果に混乱する。避けようとも思ったが、避けたらナーレが怪我をしてしまうかもしれない。
そのことが頭を過り、俺はわかっていながら、避けるという選択をしなかった。
その結果、ナーレは腰をおとした状態で、脚をバネにして俺に勢いよく飛び込んできた。
体重が軽いのと、体が小さいからか、衝撃はそれほどなかった。
だが、そのまま腰に手を回され、抱き締められてしまう。
(どうなってる!?)
なぜか、嫌な汗をかいてきた。なんの目的でこんなことをしているのか、訳がわからかい。もしも俺を動揺させるのが目的なら、その目的は疑いの余地なく成功している。
けれど、抱きついた状態のまま、俺を見上げてきたナーレの表情は、そんな雰囲気ではない。どこか甘えるような雰囲気だ。




