36話
ドナスとの会話にも慣れてきた頃、女性の声が聞こえたような気がして、俺は立ち止まるまではしないまでも、少し耳を済ませた。
「……あらあら……なの……赤くなっちゃって」
「……でしょ!…………違うって……」
途切れ戸切ではあるが、俺達の足音に混じって、微かに声が聞こえる。
一人は聞き覚えのない声だが、もう一人の声はおそらくアイリスだ。
声は段々と近くなり、ドナスは一つの扉の前で立ち止まった。アイリスがこの中にいるのは間違いないだろう。
だが、何やら騒がしいみたいだが、大丈夫なんだろうか、俺の心配を知ってか知らずか、ドナスは俺に視線をむけてきた。
よろしいですか、そう言ってるように感じた俺は、無言で頷いてみせた。
それを見たドナスは、不気味な笑みを俺に届ける。
コンコン
ドナスは、扉を前として正面を向くと、軽く扉をノックした。
「蓮様をお連れ致しました。入室させてもよろしいでしょうか?」
「ん?おおっ!ドナス連れてきたか、そんな堅苦しいのはいらん。さっさと入れないか」
新たな知らない声が聞こえた。声からして男のようだが、ドナスへの態度を聞く限り、今のが領主の声かもしれない。領主の印象を聞いていなければ、ただ偉そうな態度だと思ったかもしれないが、偉そうと言うよりは、大雑把な印象を声だけで受けた。
返答を聞いたドナスは、俺を見て少し頭を下げる。
「私の案内はここまでですので、後のことはお任せ致します」
「ああ、ドナスさん。案内ありがとうございます」
ドナスにお礼を言うと、扉をゆっくりと開けて、ドナスは中の人物に深く頭を下げた後に、一本下がって俺へと頭を下げた。
「どうぞ、お入りください」
扉を開けるくらい自分でも出来るんだが、これが貴族の暮らしなんだろうか、そう考えると貴族は、1日に何回扉に触ることがあるんだ。
一度もないなんてことはないと思いたいが、俺にはまったく合わないし、理解も出来ない。俺が貴族なら1日で発狂していたかもしれないな。
わざわざ扉を開けてくれているドナスに、小さくお礼を言って、俺は部屋の中へと足を踏み入れた。
後ろで扉が閉まる音が聞こえた。ドナスが閉めたんだろう。
部屋に入ってすぐに俺は、正面にいる男と目があった。
ダークブラウンの髪は綺麗にかきあげられ、後ろに流れるように纏まっている。
そのせいか、おでこは広く見え、そこにはシワが何本も寄っていた。
眼光は鋭く少し痩けたような頬、50代後半といったような見た目で、髭は剃っているのか生えてはいない。
何の毛皮だろうか、黒いコートのような服を着こんでいる。体の前にある手の中には、杖の持ち手が収まっていて、両手を重ねて杖でそれを支えるようにしていた。
目立った装飾はなく、きらびやかとは真逆で暗い印象だ。
右手には、唯一装飾品の指輪がついていて、血のな黒とも赤とも見える宝石が、怪しい光を放っていた。
「おお!君が蓮くんか、よく来てくれた!」
そんな暗い印象を打ち砕くかのように、男は笑顔で顔を崩すと、両手を広げて俺へと迫ってきた。
「……失礼ですがどちら様で?」
結果的に言えば、俺は無防備に男に抱き締められた。
コートのせいか体はごわごわして大きく感じたが、首は太いということもなく、筋肉質でもない。
それほど大柄な人物ではないようだ。
警戒しつつ抱き締められながら、相手の情報を少しでも把握する。
そこで、俺は香水の中に混じって僅かなあの匂いを感じた。
「そうだったね。私としたことが、君に会えたのが嬉しくて、名を名のるのを忘れてしまっていた。私の名は、アウステル・ナギール。この土地の領主だ」
「それは失礼しました。お初にお目に……」
俺が、わかりもしない礼儀を精一杯取り繕うとすると、ナギールは俺を離して、左手のひらを見せ、俺の言葉を制した。
「そんな堅苦しい言葉はいらない。私は蓮君にはいつもの蓮君でいてほしいと思っている」
「えーと……」
鋭い眼光をより鋭くしてるナギールにたいして、俺はどう返答するべきか迷っていた。
相手の意図がわからない。こちらの油断を誘おうとしているのか、此方の心意を探ろうとしているのか、それともただそういう性格から本心なのか、俺が返答に悩んでいるの察したのか、たたみかけるように、ナギールは口を開いた。
「なに、気にすることはない。君だけではなく皆にも堅苦しい言葉などいらないと言っているんだ」
「……皆にもですか?」
「そうだ。残念ながら結果には結び付いてくれていないがね。誰も私のお願いを聞いてくれなくてな。せめて蓮君だけでも普通にしててくれはしないだろうか?」
言っていることに、嘘があるようには見えない。
普通に考えて、領主が普通にしろと言ったからと言って、普通にできる市民などいないだろう。
何かで機嫌を損ねれば、どうなるかもわからない。
お願いしたところで、それは無茶というものだ。
「わかった。ならいつもの俺でやらせてもらう」
普通に考えれば無茶な話しなんだろうが、俺はその中でも例外だ。
俺は、ここに住む市民でもなければ、領主になんら借りがあるわけでもない。
いざとなれば逃げるなりなんとでもなるだろうし、無理に自分を演じても疲れるうえに、いずれボロもでるだろう。
だったら、お言葉に甘えて最初から素でいたほうが、後々面倒がなくていいと思った。
「おお!そうかそうか!蓮君なら、そう言ってくれると信じていたぞ」
初対面の俺にたいして、何を根拠に信じていたのか、言葉とは裏腹に、瞳からは感情を読み取ることができない。
まるで、俺とナーギルとの間に、薄い膜が張られているかのような感覚がある。
領主ともなれば、感情を読み取らせないなども、必要なこともあるのか、当たり前にできるのかもしれない。
「ナーギル様、ナギール様ばかりずるいじゃないですか、私にもお話しさせてください」
何故か静かにベットの近くで、肩身の狭そうな顔をしているアイリス。
そのベットには、一人の綺麗な女が腰掛けていた。
その女性は、目を輝かせて俺を見ている。
なせだろうか、俺はこの人が苦手かもしれないと、本能か訴えていた。
「おお!すまない。思っていた以上によい青年で、気に入ってしまって皆を紹介していなかったな」
「いえ、それには及びませんよ。自己紹介は自分でさせていただきます」
ベットのうえから女はそう言うと、屈託のない笑みを見せてた。
顔は少しやつれていて、元気がなさそうに見える。水色の髪が肩を隠し、まつげが長いから瞳は大きく見える。鼻も高くやつれていなければ、かなりの美人であることをうかがわせる。
肌は肌色と言うよりは、白っぽく血色が薄いように思える。
そこで俺はようやく気づく、この女、いや、女性はアイリスに似ている。やつれてはいるが、この笑顔を俺は知っている。つまりこの人は……。




