ぼくの願いをかなえてください
その日、空に浮かぶ月は完璧に丸くて、控えめな柔らかい光を放っていました。
とても寒い日でした。当然です、今は冬なのですから。
けれど、その分空気は澄んでいて、空にはちかちかと瞬く星が透き通るように美しく見えました。
とても素敵な夜でした。
お願い事をするのにふさわしい夜でした。
ぼくは森の中を一人歩いています。お母さんにばれたらぜったいに怒られるにきまっています。なんといっても夜ですから。だから内緒で、そっと家を抜け出してきました。
たくさんの木が空を覆うかのようにそびえたっています。まるで巨人に見張られているようで、ぼくには暗闇よりもよほどおそろしく思えました。
元々、ぼくは怖がりなのです。家を出るときに、ぼくは持っていたこれっぽっちの勇気の大部分を使い果たしてしまったのです。
だから、もしも今ここで足を止めたら、目的地に着くどころか、きっと足は止まってしまい、家に帰ることすらできないでしょう。
だから歩き続けるしかなかったのです。
でも、もしもぼくがすこぶる勇気を抱えた騎士だったとしても、同じことなのです。ぼくは行かなくてはならないのです。
森の奥には小さな沼があります。
ぼくたち子供はそこによく遊びに行きます。
沼のふちには春夏には可愛い花がたくさん咲くから、女の子たちは花を摘み、冠や花束を作ります。沼にはいろいろな生き物も住んでいます。お世辞にもきれいとはいえない水なのですが、生き物にとっては天国らしいです。僕たち男の子は生き物を捕まえるのに夢中になります。
だけど、いつもは太陽がぴかぴかに光っているときにしか沼には行きません。友達といっしょのときしか行きません。
大人たちは言います。
沼には悪い生き物が住んでいて、そいつは夜にだけ現れる、と。
日が暮れてから沼に近づいた者は、そいつに捕まって沼の中に引きずられ、遠い世界に連れていかれてしまうのだ、と。
だから、僕たちは太陽の色がオレンジ色に変わりだすと、それを合図に沼から離れて家へと帰るようにしていました。僕達みんなとてもいい子だったし、悪い生き物は怖いですから。
だけど、子供たちの間であるうわさが広まったのです。
沼に住んでいるのは悪い生き物ではなくて良い生き物だ、と。
その良い生き物は太陽の強い光が嫌いで、月の優しい光が好きらしい。だから夜にしか姿を現さない。
そしてその良い生き物がもっとも好きなのは満月で、満月の夜に沼に行くと、願い事をかなえてくれるらしい。
大人たちはそれを知っていて、だから子供に嘘をついて近づけないようにしているのでしょうか。ぼくには分かりません。けれど、そんなことはどうだっていいのです。
ぼくは願い事をかなえてほしい。だからこうして森の中を一人歩いているのです。
歩き慣れた道の先には、見慣れた沼がありました。
ちょうど沼のあるところだけ、木がない分、くり抜いたかのように空がくっきりと見えます。月も星もよく見えます。
お世辞にもきれいとはいえない沼の水は、今はどす黒く見えます。まるで昼間の水を全て抜いてからっぽにして、あとから黒いインク液で満たしたかのようです。
水面には丸い月が写っています。
風はひとつも吹いていません。まるで、ここだけ時が止まってしまったかのようです。木の葉は揺れず、水面も揺れません、
鏡のようにつやつやと滑らかな沼を見ていたら、ぼくのようやく残っている勇気が少し砕けたのを感じました。なんだかあまりにもいつもと違っていたからです。違うことに怖さを感じるのはぼくが怖がりなことが理由ではないはずです。
ぼくは地面に落ちていた小さな石を一つ拾い、沼に投げ入れました。ぽちゃんと音がし、しぶきがあがり、鏡は割れ、波紋がじわじわと広がっていきます。ぼくはそれでようやく安堵したのです。
すると、波紋は弱くなるどころか、次第に強く激しく、やがて大きなうねりとなって、沼中に広がっていきました。
ぐわんぐわんと沼が動きます。そう、沼が意志を持って動いているかのようです。
ぼくは思わず近くの木にしがみつきました。もしも本当に悪い生き物がいるとしたら、連れて行かれないようにしなくてはいけません。
ぼくの目の前で、沼が揺れ動き続けています。おとなしかった子犬が暴れ狂っているかのようです。
やがて、沼の中央から、一匹の生き物が姿を現しました。
そう、それは生き物と呼ぶのがふさわしい存在でした。
ぼくはそこに神様か妖精が現れるのを期待していたのです。
ぼくの願い事をかなえてほしいから。
けれど目の前に現れた生き物は、生き物でしかありませんでした。
顔には目らしきもの、鼻らしきもの、口らしきものがあります。けれど、どれも本当にそれらなのかと言われても分からないものばかりです。
その生き物は大きな服のようなもので体全体をおおっています。だから、手足がどうなっているのかちっとも見えません。ただそこに体があるということが分かるだけです。
ぼくの体は震えていました。体の奥底に残っていた一つまみの勇気までもが、振動によって掻き消えてしまいそうでした。
でも、そうなる前に、ぼくはどうしても願い事をかなえてほしかったのです。
「ね、願いをかなえてくれるというのは本当ですか……!」
言い切ったところで、思わずはあっと息が出ました。ぎゅっと握った手には力が入ります。胸いっぱいに蓄えていたぼくの気持ちをようやく口に出せたのですから、それも当然です。
生き物の顔らしきものが動きました、まるでぼくをようやく認めたかのようでした。すると、声が聞こえました。
「願いをかなえてほしいのか?」
その言い方は、自分には願いをかなえる力があると言わんばかりでした。ぼくは少し身を乗り出して、ためらうことなく大きな声で「はい!」と返事をしました。もう、その生き物の口らしきものが動いていないことも、どうでもよくなりました。
大切なことは、声が出てくる場所ではありません。その言葉の持つ意味です。
「言ってみろ」
ぼくはつばを飲み込みました。
「手袋を……手袋をください!」
「……おまえは手袋を持っているではないか」
確かにぼくは手袋をしています。冬が来る前にお母さんが買ってきてくれた、とても丈夫で温かい自慢の手袋です。
「ぼくじゃない、ぼくの手袋じゃない。お母さんの手袋がほしいんだ!クリスマスのプレゼントに、お母さんに手袋をあげたいんだ!」
そうです、ぼくの願い事というのは、お母さんのための手袋、クリスマスプレゼントがほしかったのです。
お母さんはぼくに手袋を買ってくれました。ぼくが気にいったからといって、とてもいい手袋を買ってくれました。
だからその日、お母さんは自分の手袋を買うことができませんでした。
それから、お母さんは忙しくて、お店に行くことができていません。手袋を買いに行くことができていません。
だから、こんなに寒いというのに、お母さんは今日も手袋なしで過ごしていました。僕だけが丈夫で温かい手袋をしているというのに、お母さんは冷たくなった手をこすり、息をはあっとかけていました。あかぎれのできたお母さんの手は、大好きな手だけど、ぼくの心を小さな針のように毎日ちくちくと突くようでした。
せっかく買ってもらった自慢の手袋も、なんとなく喜べなくなっていました。
「母親のための手袋か。……その願いかなえてやろう」
「えっ、本当?ありがとう!」
気づけば、ぼくの手には、真新しい手袋がありました。ぼくのよりもよっぽど素敵で丈夫な、お母さんにぴったりの手袋です。
僕は心から喜びました。この沼の生き物は、見かけはどうであれとても良い生き物でした。ぼくは自分の願いをかなえることができたと知り、とてもうれしくなったのです。
けれど、その生き物はこう言いました。
「では、代価としてその瞳を一つもらおう」
「え?」
ぼくの見ている世界が、一瞬がくっと動きました。それは一瞬でした。
何が起こったのか、ぼくにはまったく分かりませんでした。
ぼくは空いた手で左右のまぶたを触りました。片方がへこんでいました。もう片方のまぶたに手をやると、何も見えなくなりました。
痛くもなんともありません。ただ、僕の瞳が一つ、僕の顔から、まぶたの下から消えていたのです。
ぼくは正直ほっとしていました。元々ぼくの目はいいのです。一つなくなったくらいで困ることはありません。すぐに慣れるでしょう。それよりも、お母さんが手袋のないままこの冬を過ごすほうがよっぽど大変なことです。
ぼくの瞳一つとひきかえに手袋が手に入るのであれば、それは喜ばしいことでした。
見ると、生き物の顔らしきところに、はっきりと、瞳が一つ見えました。それは僕の瞳でした。その瞳がちらりと僕を見ました。そして、その生き物はさらに言いました。
「まだ願いはあるか」
ぼくは少し考えました。
「……ある、あるよ!」
「言ってみろ」
「あったかいブーツを。お母さんのために雪にも負けないブーツをください!」
そうです。手袋を買いに行ったその日、お母さんは僕の物ばかりを買い求め、自分の物は何一つ買わなかったのです。
お母さんは何年も同じブーツを履いています。もう革は古く、いくら手入れをしても雪水がしみ込んでしまいます。お母さんの足を冷やしてしまいます。
ぼくの足元に、上等なブーツが現れました。厚くて丈夫な革は、もう雪水を通すことはないでしょう。お母さんの笑顔が一つしかない瞳でも思い描けます。
「では、代価としてその頬を一つもらおう」
さっと風が頬をなでたような感触、と思ったら、生き物の顔らしきところ、ふっくらとした頬が現れました。ぼくの頬が一つ消えました。お母さんがよくなでてくれた頬が一つなくなりました。でも大丈夫。まだもう一つ頬はあります。その頬をなでてもらえばいいのです。
「他には?」
それからぼくは次々にお願い事をしました。
お母さんのためのコート。あったかくて軽い素敵なコート。
ぼくの耳が一つ消えました。
でも大丈夫です、一つでも聞こえます。大好きなお母さんの声は聞こえます。
お母さんのための帽子。あったかくて耳まで覆えるような帽子。
ぼくの髪が半分消えました。
でも大丈夫です、髪なんてなくてもへっちゃらです。僕にはお母さんが買ってくれた帽子があります。
お母さんのための口紅。冷たく青く震える唇をぴかぴか明るく彩る口紅。
ぼくの唇が消えました。
でも大丈夫です。唇がなくてもご飯は食べられますし、キスだってできます。
その生き物は、ぼくの物だった唇を開きました。
「他には?」
ぼくは少し考えて、それから首を振りました。するとその生き物は、すうっと沼に消えていきました。吸い込まれるようにすうっと静かに。
残されたのは、たくさんのお母さんへの贈り物。
手袋に、ブーツに、コートに、帽子に、口紅。
どれも素敵なものばかりです。
沼の水面は元の鏡のようなつややかさを取り戻し、ぽっかりと満月が映っています。
ぼくはお母さんへのプレゼントを抱えて、森を駆け抜けました。来た道を戻り、家へと急ぎます。
ぼくはそっとドアを開けて家に入りました。そして灯りのない居間に行き、クリスマスツリーの下にお母さんへのプレゼントを置きました。小さなツリーの下は、たくさんのプレゼントで埋め尽くされました。こんなことは初めてです。いつもはお母さんがぼくのための用意してくれた物しかありませんから。
ぼくは自分のベッドに行き、布団をかぶって寝ました。明日の朝、山のようなプレゼントを発見したときのお母さんの驚く顔を想像するだけで、わくわくしてしまい眠れません。けれどもしばらくすると、ぼくはいつのまにかぐっすりと眠っていました。
今日はとても楽しい夜でした。
あくる朝、お母さんの驚く声が聞こえ、ぼくは目が覚めました。
居間に行き、ぼくはお母さんの背中に抱き着きました。
「サンタクロースが来たんだね!メリークリスマス!」
ふりむいたお母さんの顔は、ぼくが予想していたとおりのものでした。驚きと喜びで、大輪の花のようにきれいです。
けれどもそれは一瞬でした。ぼくを見ると、お母さんの顔には驚きだけが残りました。こんなに驚いたお母さんを見るのは初めてです。
ぼくはあわてて言いました。
「大丈夫だよ、お母さん。あのね、実はね、ぼく、夕べ一人で沼に行ってきたんだ。森の奥にある沼だよ。昨日は満月だったでしょ。噂で聞いた通り、沼には良い生き物がいたよ。願いを叶えてくれる生き物が。ぼく、お母さんへのクリスマスプレゼントがほしくて、お願いしに行ったんだ」
お母さんはそっとぼくのまぶたを一つなでました。そこにはもう何も入っていません。
「手袋と引き換えに瞳をあげたんだ。一つなくっても僕は平気だよ。ねえ、ぼく、お母さんと新しい手袋をつけて、手を繋いで散歩したいな。いいでしょ?」
お母さんがそっとぼくの頬、いいえ、ぼくの頬のあったところをなでました。
「あはは、頬はブーツと引き換えにあげたんだ。頬なんてなくても平気でしょ。こっちの頬はまだあるから、今日からはこっちをなでてね」
お母さんは次にぼくの耳、いいえ、ぼくの耳のあったところをなでました。
「そこはコートと引き換えにした。よかったね、今日からは寒さにこごえることはないよ」
お母さんは次にぼくの髪、いいえ、ぼくの髪のあったところをなでました。
「そこは帽子と交換した。ぼくの髪なんてどうでもいいけど、お母さんの髪が雪で濡れたてごわごわになったら嫌だからね」
お母さんは次にぼくの唇、いいえ、ぼくの唇のあったところをなでました。
「そこは口紅と引き換えにした。だって、お母さんのきれいな唇でキスされるのが好きなんだもん」
お母さんの顔が歪みました。ぼくはまたもあわてます。
「ごめん、お母さんの唇が青くても紫でも、がさがさでちょっと痛くてもいいんだ。ぼくはお母さんにキスされるといつだってうれしいんだ。ごめんね、ひどいこと言って。ねえ、キスして?キスしてくれる?」
お母さんはキスをしてくれました。瞳の入っていないまぶたに、頬のあったところに、耳のあったところに、髪のあったところに、そして唇のあったところに。
ぼくは急に心配になりました。
「お母さん、ぼくの瞳や、頬や、耳や、髪や、唇がなくて、嫌じゃない?キスするのが嫌じゃない?」
お母さんはぼくをぎゅっと抱きしめて、それからもう一度キスをしてくれました。全部にキスをしてくれました。それからぎゅっとぼくを抱きしめました。
「坊や、お母さんは坊やが大好きよ。坊やの瞳や頬や耳や髪や唇がなくても、坊やのことが大好きよ。坊やのお母さんを好きな気持ちが大好きよ」
ぼくもお母さんを抱きしめます。
「ぼくもお母さんが大好きだよ」
「坊や、一つだけ約束して。これからは沼にお願い事をしに行かないって」
「ええっ!なんで?」
ぼくはむくれました。
するとお母さんは言いました。
「お母さんは坊やが大好きなの。坊やのすべてが大好きなの。坊やの瞳や頬や耳や髪や唇がなくても大好きだけど、でも、坊やのすべてが大好きなの。だから、坊やの何かが欠けるのは、大事な物をなくすのと同じなの。大事な物と引き換えにしてまでかなえてほしい願い事なんてないのよ。だって、坊やのことが本当に大好きだから」
「でも、ぼくもお母さんのことが大好きなんだよ。お母さんが一番なんだ。ぼくよりもお母さんが大事なんだ」
するとお母さんはぼくに一つキスをしてくれました。
「お母さんも坊やが一番なのよ。だから、こうしましょう。お母さんも坊やも、自分を大事にしましょう。そうすれば、お母さんも坊やも、一番大事な人を喜ばせることができるのよ。ね、そうでしょう?」
ぼくは考えます。考えます。
すると、確かにお母さんの言うとおりだと気づきました。
ぼくがうなずくと、お母さんは笑ってくれました。
ぼくはそれがとてもうれしくて、最高の気持ちになりました。
今年のクリスマスは最高です。