七年間
水瀬美鶴が風間正輝のことを初めて意識したのは中学二年生の秋のことだった。彼女はそのころから人気者だったが、当の本人はそのことをあまり気にしていなかった。だから自分が同じ陸上部のいちばん格好いいと云われる先輩から付き合ってほしいと告白された時は、正直、何が何だか解らなかった。からかわれているのではないかとさえ思った。ところが、先輩のほうはどうも本気らしかった。
美鶴は告白を受けようか迷った。その先輩のことは憎からず思っていたし、人柄も良く、誠実そうな人物だった。しかし、いざ返事を云おうとした時、頭の中に幼馴染の風間正輝の顔が浮かんだ。その瞬間、どういうわけか美鶴の脳内からは先輩と恋人になるという選択肢は自然と消え去ってしまっていた。
すみませんと告白を断ると先輩は残念そうにしながらも、文句を云うようなことはせず、そのまま後腐れなく済みそうだった。しかし、最後になって彼は降られた理由について教えてほしいとだけ云った。美鶴はこれまた戸惑った。彼女自身、どうして自分が先輩を振ったのかよく解らなかったからだ。とはいえ、答えないままでいるのも失礼かと思い、当たり障りがないように、「私、好きな人がいるんです」とだけ、答えた。先輩はそれで納得したようだった。一方で美鶴はこんな適当な答えで大丈夫だったのか不安になったが、のちにその答えが正しかったことを 知った。すなわち――。
水瀬美鶴は風間正輝に恋していたのだった。
美鶴と正輝が仲良くなったのは小学校四年生のころだった。知り合った経緯と云っても取り立てて書くようなことはない。ただ、小学四年生の時にクラスが一緒になった二人は、不思議と馬が合い、家が思いのほか近かったこともあって、あっという間に親友となった。ただそれだけのことだ。それから六年生まで二人が別々のクラスになることはなかった。そのまま同じ中学、高校に進学し、こうして今に至る。つまり、二人の付き合いはもう七年ほどになる。
そして、中学二年の頃に抱いた初恋を美鶴は未だに引きずっていた。
正輝もそれに気付く気配は一向になかった。
美鶴は決して奥手というわけではなかった。直接的な行動にこそ出なかったとはいえ、それでも傍から見れば明らかなほど積極的に正輝にアピールした。しかしそれで芽が出たためしは依然としてない。一方で告白をするのは怖かった。もし振られてしまったらと思うと、気が気でなかった。そして、美鶴が最も恐れたのは、告白によって二人の関係に亀裂が入ることだった。
そんな焦燥の中、美鶴はある一つの推測に達した。
正輝は水瀬美鶴のことを女性とは意識していないのではないか。
それは美鶴にとってあまりにも屈辱的な推測だったが、そう考えれば正輝が自分の必死のアピールにこれほどまでに鈍いのもまるで納得のできる話なのだった。実際、高松優香の通夜の帰り道、辺りはすっかり暗くなっていたというのに、別れ道で正輝は美鶴のことを家まで送ろうという素振りはまるで見せなかった。
その理由として、一つには美鶴の身長が一七〇センチメートルと女子にしては背が高いというのもあるのかもしれない。しかし、いちばんの原因は七年間という年月の長さだろう。その付き合いの長さは二人の間から様々な壁を取り払ったが、いつの間にか男女間の隔たりさえも失われていた。
美鶴は正輝の鈍さにはいい加減うんざりしていたが、それでも彼への恋心がさめることはなかった。だから、正輝が自分に恋愛相談をした時には呆然とした。当たり障りのない返答をしておいたが、心にかかったもやはしばらく晴れなかった。とはいえ、まだその時には心のどこかでは楽観視する自分もいた。あの女心に鈍い正輝がまさかその娘と付き合うなんてことはないだろう。
しかし予想に反して、正輝は優香と付き合い始めた。実際はそれは優香の策略によるものだったのだが、美鶴はそんなことを知る由もなく、正樹が嬉しそうにそのことを自分に報告した時には、すべてが現実ではないように感じられた。自然、涙が零れ落ちた。
美鶴は正輝への恋をすっかり断ち切ろうとした。そう簡単にできるものではなかったが、しかし、失恋のショックから前向きに立ち直ろうとした。そのために正輝の恋人の優香とも仲良くなった。
一目見て、優香は正輝が好きそうな娘だと思った。そして、自分はどれだけ頑張ってもこういう娘にはなれないのだろうとも思った。
優香は同性の友人としては少し物足りないような娘だったが、それでも正輝への恋を振り切るためにも、美鶴は優香と積極的に親しくなろうとした。正輝の恋人のことが好きになれば――その結果、その友情が壊せないほど大きなものになれば――、正輝への恋を諦めるきっかけになるのではないかと思ったからだ。もちろん、純粋に二人の恋路をそばから見守りたいという思いも――ほんの少しだけ――あった。
しかし、そうした努力もむなしく、美鶴は中々優香のことが好きになれそうにはなかった。表面上では優香とそれなりの関係を気づくことには成功したが、心のどこかでは優香のことをまるで受け付けない自分がいたのも確かだった。それは優香のほうも同じだったみたいで、彼女は美鶴に心を許してはいなかった。正輝だけがのんきに、二人は仲が良くてうらやましいと云っていた。
いっそのこと告白だけでもしてしまおうかとも思った。美鶴は正輝への想いを断ち切れそうにはなかった。告白して、それできちんと振られたら、自分も今度こそ正輝のことを諦められるのではないだろうか。しかしやはり、それによって二人の関係が壊れてしまうのが恐ろしかった。
美鶴は正輝に理不尽な怒りさえ覚えた。自分がこれほど苦しんでいるのに、正輝はどうして何も気づかないのだろう。美鶴は正輝の鈍感さが恨めしくてならなかった。
実際、正輝に優香と付き合っているのではないかと云われた時、はらわたが煮えくり返るような思いだった。清水あやめの名前を出していたから、おそらくはそこから想像したのだろうけど、それにしてもあんまりではないか。美鶴は確かに同性から告白されることがたまにある。清水あやめもその一人だ(清水にはそのせいで実は同性愛者だという噂が流れている)。しかし、美鶴自身にはまるでその気がない。さらに云えば、優香がカモフラージュとして自分と付き合ったのではないかという推理からも、正輝はある程度の根拠を得たのだろう。同性愛カップルというのは周囲の目を気にするには充分な理由だからだ。
だが、それにしても……それにしてもあんまりな話だと美鶴は思う。正輝はどうしてここまで自分の想いに気が付かないのか。自分がこんなに苦しんでいるのは正輝のせいだというのに。
……もっとも。一度だけ、正輝のその鈍感さがありがたく感じたことがあった。
正輝に犯人だと疑われる直前の電話で、優香が神社に行く前に立ち寄ったコンビニで折り畳み傘を買ったと聞いた時のことだ。美鶴はその瞬間、しまったと思った。以前、優香が神社に行くことの不自然さを正輝に強調した時、美鶴はつい、『いくら買ったばかりの新品の傘を持っていたとはいえ』と口を滑らせてしまっていた。失言だった。優香が新しい傘を持っていたことを美鶴が知っていたということの証拠となる発言だった。
――つまり、優香を殺したのは美鶴であるということがわかってしまう。
あの日、陸上部の練習(夕方に雨が降ることは解っていたので、その日は室内練習だった)が夜七時に終わった後、美鶴は一人で円山神社に向かった。雨はすっかり上がっていたが、空気はまだ湿っていた。夜道を一人で歩くのは心細かったが、住宅街の途中には煌々とした光を放つコンビニもあり、それほど恐怖は感じない。それに、美鶴は円山神社に行くのには慣れていた。そもそもあの場所を見つけて、正輝に教えたのも美鶴だった。
神社に行こうと思ったのには特に理由はなかった。美鶴はあの神社のさびれた雰囲気がどことなく気に入っていた。まるで自分の心の内を映し見ているようだった。外面だけはきれいだけど、私の内面はまるですたれている……。そんな子供みたいな感傷に浸るのが、美鶴の、数少ない心の慰めの一つだった。
林の中の小道を美鶴はどこか浮かれた気分で歩いた。雨雲はどこへ消えたのか月明かりがまぶしかった。しかしその月明かりも境内に着くと、ほとんど頭上には届かなくなった。辺りを照らすのは境内の片隅に立つ古びた街灯のみだった。
その明かりによって石段の最上段に腰を掛ける一人の人物が照らし出されていた。
――高松優香だ。
美鶴は思わず息を呑んだ。同時に、相手もこちらに気付いたみたいだった。
「ユウカちゃん、どうしてここに……」
優香は立ち上がると、美鶴の顔をしばらくじいっと見つめて、
「別に……」
「そう。この場所のこと、マサキから聞いたの? 私がね、この神社のことをマサキに教えてあげたんだよ」
「……ねえ。前から思ってたんだけど、美鶴、マサキ君のこと好きなんだよね」
美鶴は言葉に詰まった。
「……どうして」ようやくその言葉をのどから絞り出すことに成功した。
「どうしてって、そんなの見れば解るよ。美鶴、解りやすいもの」
「ううん。そうじゃなくて。どうしてユウカちゃんがそんなことを聞くの?」
しかし優香は美鶴の問いかけには答えず、
「うん。いいよ。あげる。私、マサキ君と別れることにしたの。美鶴、私の代わりに彼と付き合っちゃっていいよ。私はまったく気にしないから」
美鶴は眼を見開いた。
「……ねえ、何を云ってるの」
「何って、言葉通りの意味よ。私は彼と別れることにしたの」
「何で? マサキと何かあったの?」
「ううん。マサキ君のほうとは何もなかったよ」
「マサキのほうとは……?」
優香は大きく息をついた。
「私ね、もう一人、別の人と付き合っているんだけどね、その人が私がマサキ君と付き合ってるのがどうも不満みたいだから。ひどい話だよね。もともとその人のために付き合ったというのに」
美鶴は動揺を隠せなかった。
「えっ、どういうことなの。マサキとの交際は本気じゃなかったってこと?」
「そうだよ。当たり前でしょ。もともと本命は今、話した別の人なんだけどね。誰かは云わないけど」
優香の口調には自棄になっているような響きが感じられた。
「本当、ひどいんだよ、その人。私をこの階段の上から思いっきり突き飛ばして、そのまま逃げて行っちゃった。もう二時間以上もそこで気を失ってたんだよ、私」
優香は石段を上から眺めおろしながら云った。よく見ると、優香の顔にはいくつかあざができているようだ。ただ、さっきまで雨が降っていたというのにあまり濡れている様子はなかった。上空を覆う枝葉によって雨粒が遮られたのだろう。
「でもまあ、これであの人を繋ぎ止めることができるね。私、もう二度とあの人の口から別れようなんて云わせないよ」
「マサキをずっと利用してたってこと……?」
「うん、そうだよ。そういうこと。マサキ君、私に気があるの、ばればれだったから。ほんと、彼、今じゃ中々見ないほど純情だよね」
その時、美鶴の中でありとあらゆる感情が暴発した。恥辱や嫉妬、憎悪。少しずつ積み重ねられていた負の感情がこの瞬間に一気に噴出し、美鶴の体を突き動かした。美鶴は優香のその背中に体をぶつけた。
優香は悲鳴をあげる間もなく、勢いよく下まで転がり落ちていった。
我に返った美鶴はとっさにあげそうになった悲鳴をかろうじて堪えた。恐る恐る、石段を降り、優香に近づいていった。優香は仰向けになって倒れ、ぐったりしていた。
何とかしなければ……。恐怖のほかに、美鶴はただそのことだけを強く思った。
優香は鞄とともに落ちていった。美鶴はその鞄を開けてみた。中には教科書やノートのほかに赤い折り畳み傘が入っていた。すぐさまそれを利用することが頭に浮かんだ。美鶴は夜七時まで陸上部で練習をしていた。つまり、この傘を使えば、優香が石段から落ちた時間を前にずらすことができるかもしれない。
傘は明らかに新品だった。美鶴は傘を広げて、ぐったりと横たわる優香のすぐ脇に置いた。優香の手に握らせようか迷ったが、優香の体に触りたくなかったのと、手から離れているほうが自然かと思い、そのままにした。
そして、誰にも見られなかったのを確認すると、美鶴は一目散に神社を後にした。その後のことは全く覚えていなかった。
正輝の捜査に協力しようと思ったのは、罪悪感などからではなく、美鶴自身も優香の秘密について気になったからだった。優香は正輝のほかに本当に好きな人がいるということをほのめかしていたが、その人物の正体を知りたいと思った。知ってどうこうしようとは思わなかったし、所詮、素人捜査だと思って結果にはそこまで期待していなかった。
その相手が藤田だったというのは正直、意外だった。藤田は自分が優香を殺したと思っていたのだろうか。正輝から聞いたところによると、藤田は最後、何かを云おうとしたらしい。あれはおそらく、傘を置いたのは自分ではないと云おうとしたのだろう。傘を置いたのは美鶴だった。藤田なはずがない。それでも、藤田は自分が優香の死に責任があるというようなことを云っていたそうだ。まさか他に犯人がいるなんて思ってはいなかっただろうから、優香は突き飛ばされた後、起き上がって自分で傘を開いたが、頭を強く打ったせいでよろめき、また転落してしまったとでも想像していたのかもしれない。
*** *** ***
ミツルが何を云っているのか俺はよく解らなかった。
「私じゃ駄目って、何のことだ」
ミツルはまた悲しそうな顔をした。
「ほんと、いつまで経っても鈍いままなんだね。事件の時はあんなに鋭い冴えを見せたのに」
俺は首を傾げるばかりだった。ミツルはふう、と一息深呼吸をして、
「だからさ、私はね、マサキのことが好きなの」
――――――。
「冗談……じゃないんだよな」
「まさか。本気だよ」
俺はミツルの顔をまじまじと見つめた。頭の中が真っ白になり、何て云えばいいか解らなかった。
「……えっと、どうして、いつから俺のことを」ようやくそれだけを呟くと、ミツルはくすくすとおかしそうに笑った。
「いつからって。ずっとだよ。マサキのことが好きだって気づいたのは中学生の時だけど、たぶんもっとずっと前から好きだったんだと思う。私が自分の想いに気付いていなかっただけで」
「……そうか」俺は胸の鼓動が早くなるのを覚えた。「……どうして、今このタイミングで告白したんだ」
ミツルはさっと顔を伏せた。
「私はね、たぶんずるいんだよ。マサキと付き合っていたユウカちゃんが亡くなったと聞いて、私は心のどこかで喜んだんだ。これでまたチャンスが来たって。今度こそ、このチャンスをのがしちゃいけないって。
でもね、マサキの心はそれでもユウカちゃんから離れなかった。そのうえ、ユウカちゃんが亡くなった時のことについても調べたいだなんて云った。私がマサキの捜査を手伝おうと云ったのには半分打算があったんだよ。もしこのまま何も見つからないようだったら、マサキを説得して、ユウカちゃんのことはすっかり諦めさせようって思ってたんだ。
ねっ、本当にずるいでしょ」
「…………」
「けど、調べるうちにユウカちゃんにとってマサキは本当の恋人のことを隠すためだけの存在だったとわかった。今度こそマサキの心はユウカちゃんから離れるんじゃないかと期待したけど、マサキはまだ迷ってるみたいだった。
だから私はね、今しかないって思ったんだ。今、すぐにでも、マサキをユウカちゃんの呪縛から解放しなければ、私の恋愛は一生、報われることはないって」
ミツルはそこで顔を少し上げた。薄い笑みが浮かんでいた。
「……ひどい話だよね。どっちが幸せかなんて本人が決めることだもの。けどね、私にとっての幸せはマサキなんだよ。どんなに言い訳したって、私は自分の想いに逆らえなかった。ただ、それだけだよ」
ミツルの眼は透き通ったように綺麗で、その視線は真っ直ぐに俺をとらえていた。俺は金縛りに遭ったかのように、全身を硬直させた。
「結局のところ、私は自分のためにユウカちゃんの死を利用したのかもしれないね」
俺は清水の言葉を思い出した。清水がユウカのことを利用したと云っていたのはこういうことだったのか。ミツルは俺のことが好きだった。清水はミツルのことが好きだった。だから清水は俺とユウカが付き合い始めたことを内心喜ばしく思った。もちろん、清水自身が具体的に何かをしたということはないだろう。しかし心のどこかで、自分の恋路のために優香のことを利用したのだという負い目があった。その負い目が清水にあんな態度をとらせた。
俺はミツルの眼を見つめ返した。水晶のような瞳にどこまでも吸い込まれそうな気分になった。
ミツルが云った。
「ねえ、返事を聞かせてよ」
俺はユウカの顔を思い浮かべた。ユウカは微笑んでいた。記憶の中のユウカは常に微笑んでいた。俺はもう一度ミツルを見た。ミツルは真剣な目をしている。俺はミツルとのこれまでの付き合いを振り返ってみた。俺はミツルの様々な顔を思い出した。怒った顔、泣いた顔、困っている顔、そして微笑んでいる顔……。俺はそっと目を閉じた。そして、開いた。答えは決まっていた。
「――――――」
ミツルの顔が涙で歪んだ。
俺はミツルに近づき、その体をそっと抱きしめた。
――ミツルの口元が妖しく笑った気がした。
出典
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』J.D.サリンジャー / 村上春樹訳 白水社2006年