五里霧中
その日の夜七時ごろ、ミツルからメールが届いた。件名には『気付いたこと』とあった。こんなことが書かれていた。
「今日部活の最中に気付いたことがある。ユウカちゃんの浮気相手はユウカちゃんとマサキが付き合っていることを知っていたのだろうか。ユウカちゃんとマサキが恋人だということは同学年ならばだいたいの人は知っていたはずだ。知らなかったとしても、ユウカちゃんと親しくなっていくうちにそのうち誰かから聞かされるだろう。この疑問点はとても重要な気がしたからマサキに伝えておく。それじゃ」
相変わらずミツルはメールだと文面が固いなと俺は笑った。何でも、文字を打つのが苦手だから、なるべく少ない文字数で済ませたいのだそうだ。
――それはともかく。俺はミツルから授かった新たな閃きに唖然とする思いだった。これは確かに検討すべき事柄だ。なぜならば、俺たちが付き合っていることを周囲に触れ回ったのは他ならぬユウカ自身だったからだ。
これはいったいどういうことだろう。ユウカは俺と付き合い始めた時点では二股の相手はいなかったのだろうか。いや、それはユウカの母親の証言と矛盾する。それなら、ユウカは俺と付き合った時点ではすでにその相手とは別れていたということか。それならば、あの髪飾りの説明はどうつける。
もう一つ可能性はある。それはつまり、浮気相手はユウカがこの俺とも付き合っていることを承知していた場合だ。……しかし、そんなことはあるだろうか。付き合い始めた時期が逆ならば解る。俺が先にユウカと付き合っていて、浮気相手のほうが後からユウカに近づいた場合だ。その場合なら、ユウカはすでに俺から心は離れていて、浮気相手のほうに傾いている。しかし、ユウカは俺に別れを切り出すのをためらい、相手のほうもそれを承知の上でユウカと交際を続ける。まるで昼ドラだが、ありえない話ではない。
だがこれは今回の場合には当てはまらない。ユウカに浮気相手がいるとして、その男は俺よりも先にユウカと交際をしていたはずなのだ。それなのにユウカが俺と付き合い始めたという噂を聞いた時、じっとしてないはずがない。この疑問点を上手いところ解消してくれるような解答は中々思い付きそうになかった。
するとまたメールが届いた。ミツルからかと思ったが違った。知らないメールアドレスからだった。件名は「高橋です。メアド変えました」。俺は首を傾げた。高橋なんていう知り合いには覚えがないからだ。念のため、アドレス帳を検索してみたがやはり高橋なんていう人物は登録されていなかった。おそらくこれはスパムメールか何かの一種だろう。あるいは高橋某という人物が本当にメールアドレスを変えて、それを間違えて俺に送ってきたという可能性もある。いずれにせよ開かないで削除したほうがいい。もしウイルスでも仕掛けられたなりすましメールだったら大変だ……。そんなことを考えながらメールの削除を実行に移した時、俺はある考えが閃いた。
――そうだ。カモフラージュだ。
ユウカにとって俺との交際はカモフラージュだったのではないだろうか。ユウカには俺より前から付き合っている相手がいた。ユウカはその相手については母親にさえ話そうとしなかった。ユウカはその相手との交際を何らかの理由があって隠しておきたかったのではないだろうか。しかし、隠すにしても限界はある。ユウカはそのために俺という恋人をカモフラージュに使った。ユウカが俺と付き合っていると周りから思われていれば、ユウカが本当の恋人と親しげにしていても、まさかいきなりは二股をかけているのだとは思われまい。それがユウカのような女の子ならなおさらだ。ユウカは俺との交際を前面に押し出すことで、以前から付き合っていた本当の恋人の存在を隠そうとしたのではないだろうか。
俺は突如として思い付いたその考えに全身がしびれるほどの衝撃を受けた。この考えにはある程度の筋が通っているように思えたが、一方で、もしこれが真実だとしたら俺にとってはあまりにも残酷だ。頭の中ではこの仮説は的を射ていると考える自分と、こんなものは的外れだと、それを認めたくない自分がせめぎあっている。
俺は力なくベッドに腰を掛けた。ミツルに電話してみよう。そしてこの仮説について意見を聞いてみよう。そう思い立つと俺はすぐにミツルに電話を掛けた。しかし、ミツルは中々電話に出ない。二十コールほど粘ったが、いったん諦めて、また事件について考えることに集中した。
とりあえずは俺自身の胸の痛みについては考えないでおこう。もし仮説の通りだとして、つまりユウカが本命の相手を隠すために俺と付き合ったのだとして、どうしてユウカは本当の恋人のことを隠そうとしたのだろうか。色々なことが考えられる。例えば、相手に妻子がある場合。もし付き合っていることが判明すれば、相手の家庭さえも壊れることになる。あるいは、相手がやくざのような社会的に嫌悪されるような職業の相手である場合。こういった場合も、ユウカはなるべく交際相手のことを隠そうとするのではないだろうか。もっとも、ユウカがどこでそういった人物と知り合えたのかといえば、はなはだ疑問であるわけだが。
他にはどういった例が考えられるだろうか……。俺がまた考え込もうとした時、携帯が鳴った。ミツルからの着信だった。俺は慌てて通話ボタンを押した。その瞬間俺はまたもや恐ろしい考えに取りつかれた。
「もしもし、マサキ? さっきは電話に出れなくてごめん。お風呂に入ってて」
「……ああ、そうか。いや、気にしないでいいよ」
「それで、何の用なの」
俺はミツルに今日仕入れた情報と、先ほど思い付いた仮説を披露した。清水のミツルへの想いについては省略しておいた。
「……なるほどね、カモフラージュか。それは思いつかなかった。……けど、もしそれが真相だとしたら、マサキにとってはつらい話だね」
「ああ、本当にその通りだよ」
「問題はどうしてユウカちゃんは本当の交際相手を隠そうとしたか、か……。マサキはそれについても考えてあるの」
「なあ、ミツル……。まさかお前が犯人じゃないよな」
電話の向こうでひゅっと短く息を呑む音が聞こえた。
「……どういうこと」ミツルの声は硬く角張っていた。
「いや、ふと思いついたんだ。別に本気で云ってるわけじゃない。あまり深く考えないでくれ」俺はそう前置きして、「ただ、ユウカが交際を隠そうとした人物の中にはお前も含まれるんじゃないかって思ったんだ」
「…………」呼吸音が断続的に聞こえる。
「お前とユウカが、そのう、付き合っていたとしたら、ユウカはお前との関係を隠そうとするんじゃないかな。ミツル、まずだいいちにお前は学校の中じゃ有名人だ。今日、清水と会ってお前の中学時代について少し話したんだ。お前、あの頃から人気者だっただろ。もしお前が誰かと付き合い始めたなんて知られたら、学校中が大騒ぎになるんじゃないかな、冗談じゃなく。それに、もう一つ、これも清水から連想したんだけど……」
「もういい」ミツルは早口で云った。「もういいよ、マサキ。マサキが長年一緒にいた幼馴染に対してどんな風に考えているかが解ったよ」
「おい、ちょっと待ってくれ。さっき云っただろう、本気で云ってるわけじゃないって」
しかし、どんなに弁解しても空々しく聞こえるだけだということは解っていた。
「よりにもよって、ユウカちゃんと付き合っていただって。ふざけんなよ。こっちの気も知らないで、勝手なことを……」
「おい、ミツル」
「マサキにはもうほとほと愛想が尽きたよ。長年の縁もこれまでかもしれないね」
そう云ってミツルは電話を切った。俺は茫然としたまま、ベッドに倒れこんだ。とんでもないものを失ってしまったという喪失感が俺の胸に重くのしかかってきた。
熱々のコーヒーを一杯口に含むと俺の意識は完全に覚醒した。マグカップから湯気とともに立ち上る香ばしい匂いが嗅覚を刺激する。今朝の目覚めは最悪だった。昨夜、寝つきが悪かったからだ。
俺は昨晩から尽きてやまないため息をもう一度ついた。後悔で胸が一杯だった。よりにもよってミツルを疑うなんて、どうしてあんな馬鹿なことをしたのだろう。ミツルにも云ったように、もちろん本気で疑っているわけではなかった。可能性としては一パーセントもないだろうとさえ思っていた。しかし一方で、その一パーセントにも満たない可能性を一笑にふせない自分がいたのも確かだった。あの時、俺は心のどこかではミツルのことを本気で疑っていたのだ。そしてミツルはそのことを悟った。
ミツルとは長い付き合いだ。もう七年になる。あいつにとって俺が考えていることはお見通しなのだろう。そしてだからこそ、俺にもようやく気付いたことがある。あいつは犯人ではないということだ。
昨夜の電話で、ミツルは本気で怒っていた。あれは殺人犯だと疑われた時の動揺を隠すための嘘の憤りではなかった。あの怒りには、俺の発言で心底傷つけられたことによる、ある種の痛さのようなものが伴っていた。
恋人に続き、俺はミツルという大事な親友までも失ってしまった。しかし、このまま立ち止まるわけにはいかなかった。俺には使命感のような感情が芽生えていた。何としてでもユウカの死の真相を突き止めなければいけない……。親友の協力を失った俺は、それでも一人で捜査を進めることを固く決意した。昨日の放課後ミツルが俺に話してくれたように、俺は俺のできることをただするだけだ。
授業の間も休み時間の間も俺はずっと事件について考えていた。今まで手に入れたなけなしの情報の中から、見落としている手がかりはないか懸命に頭を絞った。俺のこうした様子をミツルは自分の席から冷めた眼で見ているようだった。今日はまだ一度も話しかけては来なかった。俺も今のところ自分から話しかける気にはなれなかった。何て謝ればいいのか解らなかったし、今更云ってもどうにもならない気がしたからだ。昨夜、俺たちの友情には修復不可能なひびが入ってしまったように感じられた。それでもいちおうは謝罪のメールを送信してある。また、この事件について自分なりに納得できる結果を得られたら、ミツルに許してもらうまで徹底的に謝るつもりだった。要するに、俺は変なところで意固地になっていたのである。
昼休み、昼食をさっさと食べ終わった俺はユウカがいたクラスを訪ねることにした。ミツルは俺以外の友人と仲良く机を囲んで談笑しながら弁当をつついていた。俺が教室から出ようとすると、軽く一瞥し、またすぐに友人へと視線を戻した。
目当ての人物である三枝は数人の女子と楽しそうにおしゃべりをしていた。俺は三枝に声を掛けた。
「三枝、すまん。ちょっといいか」
三枝はきょとんとして、
「あれっ、風間君……。どうしたの」
「ユウカのことでちょっと訊きたいことがある」
三枝はさっと顔を曇らせて、
「……解った。ここじゃ話しにくいと思うから、少し、廊下に出ようか」
「すまん。ありがとう。昼食の邪魔をして悪かった」
「ううん。いいよ」三枝はそう云うと、一緒に昼食を食べていた女子生徒たちに、「ごめん。そういうわけで、ちょっと抜けるね」
すると女子生徒の一人が、
「あれ、あれ。もしかして、彼氏と仲良くお楽しみってわけ? なあんだ。それならわたしたちにも全然遠慮しないでいいのに。もうそのまま戻ってこないで二人だけの時間をじっくりと……」
「わっ、馬鹿」別の女子生徒が慌てて云った。「この人、あのユウカの彼氏よ」
茶化すような口調だった女子生徒は急にしゅんとしぼんだように、
「ああ、えっと、その……」
三枝は苦笑して、
「まあ、そういうわけだから。……うん」
俺も気まずい空気を断ち切るように素早く廊下へ出た。
「それで、何の用かな。ユウちゃんのことで訊きたいことがあるって云っていたけど」
「ああ。ユウカのこれまでの様子について知りたいんだ」
「これまでの? それは別に構わないけど……、けど、どうして? ユウちゃんのプライベートなことなら、恋人である風間君のほうが詳しいんじゃないの?」
俺はゆるゆると首を振った。
「いや、そうでもないんだ。ユウカが死んでようやく気付いたよ。俺はユウカについて何にも知らなかった」
「ふうん。まっ、案外そんなものかもね」三枝はあっけらかんとした口調で呟いた。「何でもかんでも恋人に話してるってわけはないか。女の子には女の子特有の秘密ってのがあるものね」
「俺が知らないユウカについて、お前が知ってることを全部話してくれないか」
「……と云ってもね、何から話していいやら」
「俺が聞きたいことを質問するから、お前はそれに答えてさえくれればいいよ。そうだな、まず、ユウカには俺以外にも誰か親しくしているような男はいたか?」
三枝は目を丸くした。
「いきなり、そんなこと訊くんだ。まあ、いいけどさ。ううん、そうだなあ……。私が知る限り、そう云った人はいなかったように思うけど……。何て云うか、ユウちゃんってそこまで交友関係が広いわけでもないのよね。今思えば、結構人見知りな部分があったのかもしれないな。……うん、やっぱり、風間君以外に誰か特定の男子と特に仲が良かったなんてことはなかったように思うけど」
「そうか……」
「まあ、とはいえ、学校の外のことについては私は何にも知らないんだけどね。私はユウちゃんのいちばんの親友だと自負しているけど、そんなに頻繁に遊びに行ったりしているわけじゃあないんだ。そりゃあもちろん月に一度か二度は、一緒にショッピングとかに行ったりするけどさ、同じくらいの頻度で誘いを断られてもしてるよ。夏休みの後半とか特にそうだったなあ。風間君とデートするんだって、申し訳なさそうに、でも嬉しそうに断るからさあ、私も何とも云えないわけよ」
「……ああ、まあ、そうだな」
俺は言葉を濁すしかなかった。夏休みの後半は、俺は弓道部の大会が忙しくて、ユウカとどこかに出かける機会なんて全くなかった。ユウカと最後にデートらしいことをしたのは、あの縁日の日だろう。ユウカが俺以外の誰かと付き合っていることの確信が強まった。
「……解った」俺は云った。「じゃあ、あの事故のあった日についても教えてほしい」
「あの日のことね……」三枝はまた暗い表情になった。
「ああ。あの日のユウカの行動について、どんな細かいことでもいいから教えてほしいんだ。あの日、ユウカについて何か気になったこととかはなかったか?」
「うーん、変わったことねえ。特になかったように思うなあ」
「誰か特定の男子生徒と親しげにしゃべっていたなんてことも?」
「だから、なかったって」三枝は眉をひそめた。「そんなにユウちゃんの行動が気になるなら、一から十まで教えてあげるわよ。私、あの日はほとんどユウちゃんと一緒にいたから」
「……助かる」
「まあ、と云っても、朝に関しては風間君のほうが詳しいでしょ。あなたたち、いつも一緒に登校してくるじゃない」
俺は頷いた。俺とユウカは特に何もなければ、いつもの別れ道のところで毎朝待ち合わせをして、そのまま一緒に学校へ向かっていた。しかし、あの日の朝に関して、特別気になるようなことはなかったように思う。
「学校に着いてからのことを教えてほしいんだ。学校に着いて、俺と別れて教室に入ったところから」
「その時間については私はよく知らないわね。私、学校にはいつも始業時刻ギリギリに着くの。ユウちゃんみたいな優等生は私なんかよりも先に着いているから、それまでの間に他の男子と親しげにしゃべっていたなんてことはあるかもしれないけど……。うーん、でもどうかなあ」
「その後のことは?」
「その後っていったって。後は授業と休み時間とでしょ。あのね、私とユウちゃんはお手洗いにだって一緒に行っていたの。ユウちゃんが私の目を盗んで、どこの馬の骨とも知らない男子と仲良くしけこむなんてできっこないわ」
「うーん、そうか」
「うん、そう。あの日ユウちゃんといちばん親しげに話していたのは、昼休みにわざわざ一緒に帰れないって伝えに来た、風間君くらいかなあ」
「昼休み以降のユウカのことを俺は何にも知らないんだ」
「あの後も別に特に何てこともなかったけど。五限の授業を受けて、休み時間、それでまた六限を受けて。六限は自習で、私はユウちゃんとずっと話していたけど。それで、ホームルームで、そのままさようならって。風間君が気にしているようなことは、だから、なかったね。男子生徒と口を聞くことさえしなかった」
「……俺は、ユウカがあの神社に行った理由について気になっているんだ。それについてはユウカから何か聞いていないか?」
「ああ、円山神社ね。うん、それは私も不思議に思っていたのよね。ユウちゃん、初めから行くつもりだったのかな。私が昼休みの終わりかけにユウちゃんに今日一緒に帰らないかって云ったら、ユウちゃん、今日はちょっと用事があるかもしれないから、どうかなって、あいまいに答えたの。私は、ふーんって。それで、ホームルームが終わったすぐ後にまた尋ねたら、ごめんなさい、やっぱり今日は一緒に帰れないと云って、急いで外に出て行ったわ。用事って、あの神社のことだったのかな。でも、神社になんて何の用があったんだろう」
「…………」
その瞬間、電流が走り抜けたような衝撃とともに天啓の閃きが舞い降りた。俺はユウカがあの神社で会おうとしたのが誰なのかが、ようやく解った。今まで眠っていた俺の第六感が急に覚醒したようだった。