四葉のクローバー
昼休みに俺はミツルを昼食に誘った。場所はこの前(俺がこいつに恋愛相談をした時)と同じ中庭のベンチだった。あれから四か月が過ぎていた。昼食を食べ終わった後、ミツルが口を開いた。
「今日、ユウカちゃんの葬式があるけど、マサキは行く?」
「いや、葬式は行かないよ。俺ってさ、思っていたよりも臆病みたいなんだ。たぶん葬式にまで行ってユウカの出棺の光景なんて見ちまったら、堪えられそうにないな」
何に堪えるのかは云わなかった。ミツルは痛ましいものを見る目をした。俺はミツルの憐憫を断ち切るように、
「お前が昨日云いたかったことが何となく解ったよ」と早口で云った。
「……そう」ミツルはあまり驚いていないようだった。
「ユウカがどういう秘密を抱えていたのかは、はっきりとしない。ただ、ユウカがあの神社に行ったこととその秘密とは、何か関係があると思うんだ」俺は言葉を濁して云った。昨晩思い付いた自分の考えをはっきりと口にするのが未だに恐ろしかったからだ。
「……やっぱりマサキもそう思ったんだね」ミツルは沈んだ声で云った。「……マサキは最初、ユウカちゃんがあの神社に行ったのはマサキがユウカちゃんとの約束を破ったことに怒ったからじゃないかと考えた。でも、よくよく考えたら、それもおかしいんだよ」
「…………」
「まず、あの神社は雑木林の奥の方にあって場所もわかりにくい。だから、ひと気が無くて薄暗い。秋のこの時期、あの時間帯だとなおさら不気味な雰囲気だったと思う。いくらマサキが約束を忘れていたのを怒って意地になったからといって、女の子が一人であそこに行くなんてどう考えても変だよ。それに、あの日である理由もない。マサキが彼女と約束したのは八月のことなんでしょ。どうして九月の、始業式開けて間もない、運動会や文化祭もすぐ控えているぐらいの時期にわざわざ行くの? ユウカちゃん自身もその時まで忘れていた? だったらマサキが約束を覚えていなかったことを怒ったという推測は成り立たない。だって自分も忘れていてお互い様なんだもの。
さらに云えばね、あの日は夕方から雨が降るって天気予報で流れていた。たとえ買ったばかりで新品の傘を持っていたとしても、特に用事がないのなら普通寄り道なんてしないよ、特に女の子はね。もし予報よりも早く雨が降ったら大変だもの。髪は濡れるし制服は透けるし、良いことなんて一つもない。それから、あのあたりは雑木林の奥だってことを忘れないで。誰が好き好んでぬかるんだ土の上を歩いてローファーやソックスを泥だらけにするというの」
ミツルは一息に語りつくすと、ふうと息をついた。俺はミツルがここまで考えていたことに驚いた。
「つまり、ユウカがあの場所に行ったのには他にちゃんとした理由があるっていうことだな?」俺は念を押すように尋ねた。
「うん。それも、切実な、ね。マサキはユウカちゃんが最後にどんな様子だったか訊いてきたよね」
「……ああ。それでお前の答えによると、ユウカはあの日、気が急いているようだったというんだよな」
「そう。その時の雰囲気と、さっきまでの話の流れを組み合わせれば、云いたいことはもう解るでしょ」
「……ユウカはあの場所で誰かと待ち合わせをしていた。そして、その相手は……ユウカの浮気相手の可能性が高い」
「だよね。やっぱり、そう考えるよね」
「……その証拠があのクローバーの髪飾りだと思うんだ」
ミツルは静かにうなずいた。
「あの髪飾りは昼休みの時には確かに付いていた。それなのに、鞄に仕舞われていたってことは、その後で誰かが外したんだ。もちろん、ユウカ以外にありえない。じゃあ、なんでユウカはそんなことをしたのか……。浮気相手の前で俺からの贈り物を身につけておきたくはなかったからじゃないのか……」俺は自分で云っていて胸が痛むのを感じた。
「おそらくそうだと思う。妻帯者が愛人の前では結婚指輪を外すのと同じようなものだね」
「……生々しい云いかただなあ」俺は顔を歪めた。
「気に障ったら謝るけど、それよりももっと重要なことがあるのに、マサキ、気付いてるでしょ」ミツルは真剣な表情で云った。
「ああ。問題は、その浮気相手の男はユウカの死に関係しているのかどうかだ……」
俺はもはやユウカの死が単なる事故だとは考えられなくなっていた。最初のうちはユウカはあの場所に一人で行ったに違いないという思い込みがあったから、これが事件だなんて思いもしなかったが、こうしてユウカがあの場所に行った理由が――確実とは云えないまでも――解ってくると、この死が不穏なもののように思えてくる。
しばらく、考えてから俺は云った。
「ミツル、俺は決意したよ。この事件を調べてみようと思う」
はたしてこれまでの推測が正しかったのかどうか、このままでは何も解らないままだ。 本当のところ、俺は何も考えたくなかった。今すぐにでも頭を抱えたい気分だ。もしこの推測がすべて事実だったと想像してみると、どうにも恐ろしく、考えることを拒否せずにはいられなかった。……しかし、考えずにもいられなかった。俺はユウカのあの笑顔を思い出した。もう二度と見ることは叶わない優しい微笑み。あれは虚像だったのだろうか。つくりものだったのだろうか。そしてその笑みが永遠に失われたのは誰かの故意によるものだったのだろうか。……知りたいと思った。知ってどうしようというわけじゃない。その誰かを断罪したいというわけでもない(実際、その人物が本当にユウカの死、そのものに関係しているかどうかは解らない)。俺はただ知らなければならないような気がした。このまま悶々と思い悩んで彼女の幻影に囚われているよりは真相を知るべきだと思った。
俺はミツルにそう伝えた。
「そっか。それなら自分も手伝うよ。だって幼馴染の親友なんだもの。困ったときに助けてあげるのは当たり前だ」
ミツルは微笑んだ。その笑顔にユウカの姿が重なった。
……どうしてだろう、誰かが笑うたびに彼女のことを思い出してしまう。
放課後。ミツルは鞄を持って俺の席に近づき、
「さあ、さっそく話を聞きに行こう。行動は何だって早いほうがいい」
「話を聞きに行くってどこに?」
「決まってるでしょ、教員室だよ。ユウカちゃんの死について調べるなら、彼女が亡くなった時のことを詳しく知る必要があるでしょ。教師ならきっと事故――もしかしたら事件かもしれないけど――その詳しい様子を警察から聞かされていると思うよ」
そんなこと俺はまるで思いもつかなかった。ミツルに頼りっぱなしになっている自分に嫌気が差した。
ミツルに連れられ廊下に出、そのまま教員室へと向かった。途中、俺はミツルに尋ねた。
「なあ、今思ったんだが、警察には話さなくていいのか」
「話してもいいけど、たぶんまともに取り合ってもらえないと思うよ。警察はこの程度の情報じゃ動かない。警察に云うなら、もっと調べてもっとたくさんの情報や証拠を集めてからだね」
「ふーむ。なるほどな。……あとさ、お前、今日陸上部じゃなかったっけ。さぼるのか」
「…………」ミツルはさっと目をそらした。「まあ、三十分かそこらの遅刻なんてざらにあるから大丈夫だよ……」
教員室の十数人の教師たちの中には国語科の山中の姿もあった。ちょうどいい。山中は学年主任だから事件について詳しく知らされているだろう。山中は机の上に置いたラジオで天気予報を聞いているようだった。だいぶ音を絞っている。俺たちが近づくと山中は不機嫌そうな様子で鼻を鳴らしてからこっちを見た。俺は舌打ちしたい気分になった。いつだってこの教師はこうだ。生徒が近づいたり話しかけたりすると顔をしかめる。
「どうしたんだ。水瀬と、えーと……」
「風間です」俺は云った。
「そうか、風間か。それで、こんな時間に何の用だ。部活がないなら早く帰って明日の予習でもしていなさい」
そう云って山中は体を机の方に向けた。こんな時間って、まだ最終授業が終わったばかりじゃないか。話をまともに聞く気がないのは丸わかりだった。ミツルが口を開いた。
「先生。高松さんの亡くなった時の状況について詳しく教えてください」
山中は体をぴくりと反応させ、振り返らずに机で何か書き物をしながら答えた。
「それなら放送で話しただろ。高松は裏門の近くの神社の石段で足を滑らして亡くなった。事故死だ。お前らにも注意をした」
「それ以上のことが知りたいんです」
山中は今度こそ振り向き、うさん臭そうなものを見る目でミツルをじろりと眺めた。
「それ以上のことってなんだ。他に何がある。高松は不幸な事故で亡くなった。ただそれだけだ」
今度は俺が話しかけた。
「例えば、彼女が亡くなった時間帯とか、現場の様子とか、付近での不審者の目撃情報だとか。そういったことです」
「不審人物だあ? 平田、お前は何を言っているんだ? 事故死だと言っただろ、事故死。何を勘違いしてんのかは知らんが、お前らに話すようなことは何もない。探偵小説の読み過ぎだ」
「俺は単なる事故死だとは思っていないんです」
「はあ?」
「教えてください。お願いします」
俺はミツルと頭を下げた。
「何をわけのわからんことを……。だいいち、お前らは高松の友人なのか?」
「俺は、ユウカと付き合っていました。隣のミツルは友人でした」
「そう云えば、高松が誰これと付き合っていると女子生徒がきゃっきゃと噂していたのを聞いたことがあるが……」山中はふんとまた鼻を鳴らした。「青春ごっこも大概にしろ。お前らのくだらないお遊びに先生を巻き込むんじゃない。水瀬、お前もだ。普段、優等生のお前が何をやっているんだ。お前はもう少しりっぱな奴だと思っていたが、先生の買被りだったようだな。こんなやつに付き合っていると碌なやつにならんぞ」
あんたに云われたくない。それにお遊びなんかでもない。俺はそう怒鳴りたかったが堪えた。ミツルのほうをちらりと見ると、ミツルも軽く頷いた。
「もういいです。ありがとうございました」
俺たちは揃って踵を返した。山中はまた何かを云おうとしたみたいだが、結局拍子抜けしたみたいにふんと鼻を鳴らして口をつぐんだ。
山中の机から離れるとき、ミツルが小さくつぶやいた。
「『〈りっぱ〉か! これこそ僕の嫌いな言葉なんだよ』」
俺もそっとつぶやき返した。「『インチキだよ。聞くたんびにヘドがでそうになる』」
そして、二人で忍び笑いをした。
それでも、結局は収穫はなしか……。いくらか気落ちして教員室を出ようとしたところで、ドア付近に立っていた男が急に声を掛けてきた。
「君たち、高松さんのことを調べてるのかい?」
数学科の藤田だった。
「先生……」
「話は聞いていたよ。協力したいんだ。時間があるならちょっと付き合ってくれないかな」
藤田は空いている教室に俺たちを連れてきて、適当な席に腰を掛けた。俺たちもそれに倣う。
「えーと、先生はどうして……」
「教員室に入ろうとしたら、ちょうど君たちが山中先生と話していてね。僕、意外と耳いいんだ。話は最初から聞いていたよ。山中先生の隣の席が僕の席なんだけど、あの雰囲気だとどうにも近寄りがたくてね。何というか、あの辺で盗み聞きみたいにずっと立っていたんだよ」
「それで、どうして俺たちに声を掛けたんですか。協力したいって云っていましたけど」
「君たち、高松さんの事故のことについて調べているんだろう。それで、その状況について詳しく知りたいって話していたね。つまり、僕からその情報を提供しようと思うんだ」
「それは、ありがたいんですけど……どうして?」
「教師が生徒に協力しようとするのは当たり前のことだ。そんなに訝ることはない」
「はあ……」
「まあ、実を言うとね、僕も亡くなった高松優香さんとは個人的な親交があったんだ」
俺とミツルは顔を見合わせた。
「僕はこの学校に来る前は彼女の家で家庭教師をしていたんだ。彼女が中学生の頃だった。彼女はとても頭が良い娘でね、性格は少し内気なところがあったんだけど、むしろそれがあの娘の魅力にもなっていて、慎ましげに笑った顔はかわいらしかったし、僕は少し歳の離れた妹のように彼女のことを思っていたよ。
四年前、彼女が中学三年にあがる頃、僕はこの学校に転任が決まってね、彼女には後任の家庭教師を紹介して、ここで数学の教鞭を執ることになった。それから一年は特に彼女と連絡を取り合っていたわけじゃなかったから、去年、彼女が志望校を変更してこの学校に来たことを知った時は驚いたよ。彼女は中学の時よりいくぶんか社交的になってね、積極的に体育祭実行委員になったりもしていた。運動が得意でないのに、少し意外に思ったよ。彼女は高校に入って自分を変えようとしたのかもしれないね。僕はそんな彼女の変化をうれしく思ったんだ。僕は彼女を今でも妹のように思っていたから。そんなわけで、僕は彼女のことをただの一生徒とは思えなくて、彼女の友達だったという君たちに協力しようと思ったんだ」
初耳だった。俺はその話に驚くばかりで、藤田の顔をじっと見つめていた。そして、同時に合点もいった。俺は昨夜通夜の席で藤田の姿を見たのを思い出した。
「なるほど。解りました」ミツルが云った。
「ところで、僕は君たちに協力しようと思う理由はさっき言ったけれど、どうして君たちは彼女の事故を調べようと思ったんだ? 僕が君たちをこうして連れ出したのは何よりもそのことを尋ねたかったからなんだ」
俺たちは藤田に今までのことを全部話した。彼女と恋人になった経緯、彼女との思い出、彼女が亡くなり母親に挨拶に行ってそこで聞いた話の衝撃的な内容、そこから彼女は何か秘密を持っているのではないかと疑い始めたということ、協力してくれたミツルが話した事故の疑問点……。
「先生はどう思います?」
藤田はかぶりを振って、
「さあ、君たちが抱いた疑問について残念だけど僕は何も解らないな。だけど君たちが事件を調べようとした理由もこれでわかった。特に風間君にとっては切実なんだね」
藤田は俺を憐みのこもった視線で見つめた。俺はそのことにどうしてだか無性に腹立ちを覚えた。
「先生は何も心当たりはないのですか?」
「ああ、さっぱりだよ。僕はあの神社に行ったことはないから、詳しいことは知らないけど、恋愛祈願の神様らしいから、ただお祈りをしに行っただけなんだと思ってた」
「そうですか。事故について、警察から聞いた話を教えてほしいんですけど。例えば亡くなった時間とか」
「そうだなあ、あまり覚えてはいないけど確か、午後四時から八時ごろ、いや、五時から六時だったかな。最初は四時から八時ごろとだいぶ長かったけど――雨のせいでだいぶ体温が下がっているとかで、正確な時刻は特定できなかったらしい――、近くに彼女の折り畳み傘が開かれた状態で見つかっていて、五時から六時半ごろに時間帯が絞られたんだ。あの日は五時ごろから雨が降り始めたからね。彼女は多分その雨が降った時間帯にあの神社に立ち寄って、濡れて滑りやすくなっていた石段で転倒したんだろうって」
授業が終わるのは三時十分だ。ホームルームがあったとしても、三時半には終わっただろう。仮に五時にユウカが死んだのだとして、一時間半もの間、彼女は何をしていたのだろう。
「他に何かありませんか?」ミツルが云った。「その時間帯に不審者が目撃されなかったかどうか、とか」
「いや、不審者の情報とかは特に聞いていないかな。だいいち、もしそんな目撃情報があったら警察だって黙っていないよ。もっと厳しい捜査を進めると思う」
なるほど。確かにその通りだろう。
「先生は、ユウカのクラスの授業は持っているんですか」俺は云った。
「持っているよ。……あの日もね、授業があった」
俺は身を乗り出した。
「何限の授業ですか」
「五限だよ。だから彼女が死ぬ直前の姿を実は見ていることになるね」
昼休みが終わって次の授業だ。うちの高校では授業は六限まである。
「教えてください。ユウカは、どういう様子でしたか」
「うん……。どういう様子と云ってもね、あくまで授業だからそれほど彼女のことばかりを見ていたわけでもないし、それに、あんなことになるとも思ってなかったから……」
「どんな細かいことでもいいんですけど……」
藤田は考え込む素振りを見せたが、結局は首を横に振った。
「駄目だ。やっぱりよく解らない。授業を受けている姿はいたって普通のように見えたけど・……。君が云うように、その後浮気相手に会いに行くような態度だったかどうかは解らないな」
浮気相手という言葉を口にするとき、藤田はかすかに云いよどんだ。藤田の返答に俺は肩を落とした。今度はミツルが質問した。
「先生は授業以外にはユウカちゃんとの交流は他になかったんですか」
藤田は眉をひそめた。
「……そうだね、僕の方は彼女のことを多少は他の生徒から聞いていて、それなりに気にはしていたけど、それ以外に特に付き合いといったものはなかったな。やっぱり教師と生徒が個人的に親密になるのはあまり褒められたことではないからね、僕もその辺りには気を配っていたんだ。だから授業以外では、ほとんど交流はないと云ってもいいかな。彼女もあまり僕に積極的に話しかけるようではなかった。高校に入って自分を変えようとした彼女は中学の頃の自分を知る僕にあまり関わろうと思わなかったのかもしれない。そう考えると、うん、ちょっと……つらいけどね」
「先生は彼女が亡くなった時、何をしていましたか?」
ミツルは容赦なく質問を続けた。
藤田はしばし唖然としたが、すぐに冷静になって、
「僕を疑っているのかな」
「いえ、決してそういうわけでは。ただ、あの娘の死の真相をするために一つでも多くのことを知っておくほうがいいと思いまして」
「刑事みたいなことをいうね、君。まあいいや。手がかりも何にもない今はとりあえず疑っておこうってことか。うん、そうだな。まずは順番に話したほうがいいだろうな。五限の授業が終わった後、僕は職員室で生徒から預かったワークの採点をしていた」
「ワーク?」
「ああ。僕は毎授業の終わりに問題集から数題を出して、次の授業でそれを解いたノートを提出してもらうことになっている。だからあの日も前回出した課題を回収したんだよ。提出してもらった課題はなるべくその日のうちにチェックして、その日のうちに返すようにしているんだよ。まあ、だから六限の間は授業がなかったから、ずっとその作業をしていたな」
「…………」
「ええと、それで六限が終わったあと、高松さんのクラスの担任の先生にそのワークを預けて、ホームルームの時間に返してもらった」
「ええ。解っています。けど、先生。そんなことはどうでもいいんです。先生に訊いているのは、ユウカが死んだ時間帯(五時から六時ごろ)に先生が何をしていたかということなんです」
いい加減しびれを切らしたようにミツルは苛立ちを抑えつつ云った。藤田はまるで気にした様子もなく、
「ああ、そうかい。ごめん、ごめん。それで、ええと、その後のことだね。僕は三時半から四時半ちょっと過ぎまで、下校途中の生徒を見張りに外に出てたんだ」
うちの学校ではこうして時々教師が帰り道を見張っているので、うかつに買い食いや寄り道ができない。おそらくは教師にとっても面倒くさい役割なので、新任の藤田に割り振られたのだろう。
「その後は、また教員室に戻って、今度は明日の授業の準備をしていた。山口先生も一緒にいたから、その時間はアリバイがあるよ。午後七時まで作業をして、帰った。残念ながら彼女の姿は見ていないな。これで満足かい?」
「ええ」
ミツルはうなずいた。藤田は立ち上がり、
「今日はもう遅い。また何かあったら訊いてくれ。答えられることだったら答えてあげる。ああ、そうそう。風間君って体育委員だったよね。運動会、今月末だけど、またよろしくね」
そう云って、廊下に出てしまった。
藤田が出て行った後、ミツルも鞄を持って立ち上がった。
「今度はどこに行くんだ?」
「部活。そろそろ行かないと大目玉喰らっちゃう」
時刻はすでに四時を回っていた。秋だから外はすでに薄暗い。
「ああ、そうか。……ごめん。付きあわせちゃって」「いや、いいよ。だいいち、教員室にマサキを誘ったのはこっちのほうなんだから」その言葉に、俺はうなだれた。「そうだ。それなんだよ」「えっ。なにが?」
「協力してほしいって云ったのは俺のほうなのにさ、こうやって話を聞きに行こうって積極的に動いたのはお前じゃないか。俺はさ、本当に、一人だと何にもできないんだな。そんな自分が、もう、うんざりするよ」
ミツルは、はあっと大きくため息をついた。
「本当にマサキは昔から変わってないね。どうしてそう何でも一人で背負いこもうとするの。良い、あのね、自分一人じゃ何もできないなんて当たり前でしょ。むしろ、何でもできるって思われたら、こっちがたまらないよ。そんなつまんないことでうじうじ云ってないでさ、自分が今できる範囲のことを精いっぱいやればいいじゃない。協力するって、つまりはそう云うことでしょ。お互いがお互いに自分のできる限りのことを一生懸命にする」
俺はまじまじとミツルの顔を見つめた。
「……なに」
「珍しいな。お前が励ましてくれるなんてさ」
ミツルはこれまた珍しく唇を尖らせて拗ねたような顔をした。
「励まして損した」
俺は笑って、
「いや、お前の気持ちは嬉しいよ。ああ、ありがとう」
「……そう。それなら、いいけど」
「……そうだな、俺は俺のできることをするよ。うん、とりあえずはこの後、ユウカが亡くなった神社に行ってみることにする。……実はまだ行ったことがないんだ」
「オーケイ。何か解ったら教えて」
「ああ」
俺は急いでその神社に向かった。早く行かないと日が沈んでしまう。真っ暗になれば細かな手がかりを見落としてしまうかもしれない。すでに陽はだいぶ傾き、西の空をあざやかな朱色に染め上げていた。
裏門を出て小さな路地をいくつか抜けると、突然、目の前にうっそうと繁る林が姿を現す。学校からちょうど十五分くらいのところだ。それまでは静かで平凡な住宅街だった場所にあるその雑木林は、しかし、意外なほどに周囲に馴染んでいた。林には一本、小道が奥のほうへ伸びている。道といっても、舗装されていない土の地面で、むき出しの根っこが縦横無尽にその上を走っていた。小道の入り口には「縁結びの御利益あり。円山神社はこちら」と書かれたどこか俗っぽさを漂わせる看板が立っていた。
その指示に従い、真っ直ぐ小道を進む。小道はいくらか傾斜していた。少し、息が切れた。境内につくと、思わず息を吐いた。話に聞いていた通り、境内にはまるでひと気がなかった。閑散としていて、ここ数日はユウカの事件のせいで警察も立ち入ったはずなのに、そんな気配は微塵も感じられず、社殿に至っては長い間誰も触れてこなかったかのように寂れている。境内の脇にあるおみくじの入った箱の「一枚百円」と書かれた張り紙だけが妙に新しく、どういうわけかそれだけが一層の侘しさを放っていた。
境内の広さはそこまででもない。俺が今抜け出た小道は、境内の脇のほうに通じている。つまり、小道を抜け出るとちょうど左側にくすんだ木造の社殿の正面が見える。右側には、隙間、隙間から雑草の生える石畳が続いている。人二人がすれ違うくらいの横幅しかない石畳は途中でふっと消えたように見えなくなる。消えたと思われるところには石段が下へと続いているのだ。ユウカが命を落とした、あの石段が。
俺はその石段にゆっくりと近づいた。そして石段の最上段に立つ。下のほうへ視線を向けた。石段はだいぶ急な角度のようだった。事件があった時はちょうど雨が降っていたという。足を滑らせて石段から転落したとしてもおかしくはない。長さもそこそこある。石段はこのまま降りると、小さなアスファルトの道路に出る。あの小さな道路はどこからどこに通じているのだろうか、俺はふと考えたが、よく解らなかった。それに、この辺りの地形がどうなっているのかも解らない。雑木林の傾斜はそれほどのものではなかった。それなのに、それなりの長さの石段がここにあるということは、俺が最初に歩いた小道のほうはもともと高い位置にあったということだろうか。しかし俺は頭を軽く振って、すぐに考えるのをやめた。そんなことは、重要ではないからだ。
俺は慎重に石段を降りていった。いちばん下に着くと、多くの花束が供えられていた。俺はそこで自分が失態を犯したことに気付いた。供えるための花を忘れたのだ。
恋人が死んだ場所に供える花を忘れるとは何たる薄情者かと、自分で自分に苛立った。
仕方ない。次に来た時こそきちんと供え物を持っていこう。
気を取り直し、俺は事件について考えるのに集中することにした。発見場所にはユウカの傘が落ちていたらしいが、どの辺りだろうか。それほど、遠くではないだろう。もしかしたら石段の途中かもしれない。きょろきょろと周りを見回すと、道路の向こうから意外な人物が歩いてくるのを見つけた。相手も俺の姿に気付いたようで、驚いたように立ち止まった。そしてすぐに歩調を早めて、近づいてくる。
「清水。久しぶりだな。びっくりしたよ」
俺はガングロ金髪の後輩、清水あやめに声を掛けた。清水は小ぶりの花束を手に持っていた。
「先輩……。どうしてここに? 葬式には参加しないんですか」
「……まあな。葬式にまで立ち会うと、どうにも悲しくてさ。いちおう、通夜には参加したからな」
清水はふーんとだけ云った。
「清水こそ、どうしてここに。……いや、訊かなくても解るな。花を手向けに来たのか」
「ええ、そう。あたし、ほら、こんな顔だから、葬式には参加できないでしょ」
清水は真っ黒な自分の顔を指で指しながら、ぎこちない笑みを浮かべた。
「先輩も花を供えに来たんですか」
「……違う、いや、そうだ。ここに来たのはユウカが死んだ場所というのを一度見てみたかったからだよ。供えるための花は……忘れた」
俺は全てを伝えはしなかった。この場所に来た本当の目的、つまり、俺がユウカの死に疑問を持っているということは、たとえ清水であっても、むやみに話さないほうがいいと思った。
清水は足音も立てずにすっと俺の横を通り抜け、石段の下にしゃがみこんだ。いたわるように静かに花束を置いた。そして、両手を合わせて黙祷した。俺もそれに倣った。普段の、そして今の、清水の見た目からは想像できないような、粛然とした雰囲気に俺は気圧された。黙祷が終わると、清水は目を開けて俺のほうに振り向いた。眩いばかりの夕陽が麦わらのような清水の髪にきらりと反射した。
「この花」清水は石段の上の花瓶に差された花を見て云った「今日供えられたばかりのものですね」
「そうなのか」
「見れば解ります。花瓶に入ってるといっても水を変えなきゃ、花なんてすぐに駄目になってしまいますから。この花瓶の水はとても綺麗ですからね。それとも、毎日水を変えているのかもしれない」
白い綺麗な花だった。ユウカの家の玄関に飾ってあったのと同じ花だ。もしかして、いや、おそらく、この花を供えているのはあの母親なのだろう。清水の云う通り、毎日わざわざここに来て、花瓶の水を変えているのかもしれない。ユウカが好きだったというこの花が枯れないように。
そう思うと、俺は何ともやり切れない思いになった。
「…………」清水もまた無言のまま、遠くを見るような目をしていた。厚いメイクに覆われたその顔からはどんな感情も読み取ることはできなかった。
「……それにしてもさ」俺は云った。「お前がそんなにユウカと仲良くなっていたとは思わなかったよ。その、さ。何て云うか、お前はもっと情の薄い奴だと誤解してた。……すまん」
「………」清水は首を横に振った。「別に。いいですよ。あたし、自分でも冷たいほうだって思いますもの」
「……けど、ユウカにはこうして花を供えに来てくれたじゃないか」
「ここに来たのは、友情とかいう、先輩が期待するような、そんな大層なものが理由じゃありませんよ。そうだなあ。うん。どっちかっていうと、罪滅ぼしみたいなものですかね」
清水の表情からは相変わらず何も読み取れなかった。しかし、真っ黒な顔の中でも一際黒く、そして輝きを放つ、その双眸には悲しみの色が滲んでいた。
「……罪滅ぼしってどういうことだ」
俺は自分の声が掠れたようになっているのを自覚した。
清水はその質問には答えず、
「ここでずっと突っ立ったままっていうのも、あれですから。どっか座りません?」
俺は清水と石段を昇って円山神社の境内にまで戻った。石段にそのまま腰かけようと提案したのだが、清水はスカートが汚れるから嫌だと、柄にもなく女の子っぽいことを云って、反対した。俺は社殿の右脇に古びたベンチがあったことを思い出し、仕方なく清水をそこまで連れて行った。
石段を昇ると、さっきからずっと橙色の光線を放っていた西日はまるで届かなくなっていた。雑木林のところどころで紅葉しかけている枝葉が、石段の上空をすっかり覆っているのだ。それは境内も同じだった。木漏れ日さえもほとんどないほどに、鮮やかな夕陽は、赤、黄、緑が混ざった鮮やかな葉っぱの大群によって隈なく遮られていた。さながら自然の天井のようだ。しかしそうした美しい光景は一方で境内を薄暗くし、そのひと気のなさを強調している。
俺と清水は青いペンキの剥げたベンチに並んで座った。ベンチのそばにある街灯の放つ鈍い光だけが俺たちを照らしていた。
「なあ、罪滅ぼしってどういうことなんだ」俺は質問を繰り返した。
清水はぽつりとつぶやくように答えた。
「……別に。先輩に話すようなことじゃあ、ありませんよ」
「いいから、教えてくれ。もう一度、いや、何度でも訊くぞ。ユウカへの罪滅ぼしってどういうことなんだ。お前はユウカに何かしたのか」
清水は俺の思いのほか真剣な様子にたじろいだようだが、それでも頑なに、
「だから、先輩に話すようなことじゃありませんから。というか、先輩にだけは絶対に話したくない」
「それは、俺はユウカの恋人、だったからか」
恋人という言葉の響きがひどく空虚に聞こえた。
「……さあ。答えられません」
俺はとうとう核心をついた問いを発した。
「お前が、ユウカを殺したのか」
清水は怪訝そうな顔を俺に向けた。
「殺した? 何云ってんの?」
「違うのか」
「だから、何云ってんの? ユウカ先輩が死んだのは事故でしょ」
口調からは嘘をついているようには感じられなかった。俺は困惑した。清水はますます訝しげに、
「もしかして風間先輩は、ユウカ先輩が誰かに殺されたとでも思っているんですか」
「……ああ」
俺は弱々しく頷いた。そして、ユウカの死を疑いだすに至った経緯を清水に伝えた。清水の顔はみるみる強張っていった。ユウカの死が殺人(この言葉を口にした時、何とも云えない重苦しい空気になった)だとしたら、その犯人はおそらくユウカの浮気相手だろうと話すと、清水はなぜか、ほっとしたような顔をした。
「それで、あたしがユウカ先輩への罪滅ぼしって云ったから、先輩はあたしのことを疑ったわけか」
「ああ。そういうことだよ。けどさ、結局のところ罪滅ぼしって何だったんだ。何のことを云っていたんだ」
「先輩にはあまり云いたくないんだけどな……」清水は言葉を濁した。「まあ、要するにあたしはユウカ先輩のことを少し利用していたってことですよ」
「利用していた?」
「ええ。自分が有利になるようにね。……先輩にはこれ以上のことはどうしても話せません。さらに云っておけば、ユウカ先輩が死んだこととも全く関係がありませんから」
清水はギュッと口を結んだ。
「……解った。納得はできないけど、話したくないならそれでいいよ。ただ、他のことについては質問させてほしい。そうだな……。清水、ユウカが死んだ時、お前が何をしていたか教えてくれ」
「……まだあたしのことを疑っているんですか」
「いいから答えてくれ」
「ちぇっ。本当に疑っていやがる。まあ、仕方ないか……。ユウカ先輩が死んだ時なんていっても、あたし、先輩がどのくらいの時間に無くなったか知らないから、放課後から順に話しますよ。……ええと、そうだなあ。確か放課後は友達とそのままカラオケに行きましたよ。駅前のあの安いところです。フリータイムでドリンク飲み放題で六百円のところですよ。確か夜八時くらいまでずっと騒いでいました」
「……お前、カラオケに一緒に行くような友人がいたのか」
「本気で殴りますよ。……そりゃあ、いますよ、友達くらい」
「カラオケで何歌うの?」
そう尋ねると清水は俺が全く聞いたことのないバンドの名前をいくつか挙げた。何でもそれらが最近清水の周りでアツいバンドらしい。清水が俺の興味のないジャンルの音楽について熱っぽく語っている間、俺は少し考え込んでいた。清水の話が事実ならば、こいつにはアリバイが成立することになる。となるとさっきの罪滅ぼし云々も本当に事件とは関係ないことなのかもしれない。
「……先輩。聞いている?」清水が不満げに云った。
「いや、まるで聞いていない。ちょっと考え事をしていた」
「ちぇっ」
「……しかし、それにしてもさ。お前とこういう風に話すのは実は初めてかもしれないな」
「……まあ、そうですね」
実際、俺と清水の関係はそれほどのものではなかった。ミツルを間に挟んでの付き合いだった。こんな風に長くしゃべったり、清水の交友関係や趣味の話を聞いたりしたことは今までになかった。
「なあ。お前、今でもミツルが好きなのか」
「……ええ」清水はうつむきがちに答えた。俺は「……そうか」としか云えなかった。
「ちゃんと解っていますよ。ミツル先輩があたしに振り向いてくれることなんてないって。それでもやっぱりふとした拍子にミツル先輩のことを目で追っちゃったり、考えてたりするんだなあ。……自分ではどうしようもないんですよね、これ」
清水は苦笑いのような表情をしていた。俺は初めて清水の本心を覗き見た気がした。
「……そうか」
俺はやはりそんなことしか云えなかった。「……どうして、いつ、ミツルのことが好きになったんだ?」
「……先輩はあたしが中学の時、どんなんだったか知ってますよね。あたしはあの頃、何て云うか、反骨精神の塊だったんですよ」
「反抗期って奴だな」
「まあ、そうなんですけどね。ただ、あの頃のあたしはそういう言葉で一括りにされることさえ嫌だった。全てが嘘っぱちに見えていたんです。友情とか、恋愛とか、青春とか、明るい未来とか。そういったもんは全部作り物で、フィクションの中にしか存在しないものなんだって決めつけていた。あんなきらきらしたものが現実にあるわけないって、どうしてか、はなっから決めつけていました」
「気持ちは解る気がするよ。俺も一時期そんな風に考えていたことがある」
「いえ、解りっこありませんよ。あの頃のあたしのことは。誰にだって解るはずがない。……とにかく、あたしはそんなわけで、目に映るもの全てに反発していた。その一方で、自分が心から惹かれるものには目いっぱいにのめりこんでいきました。さっきの音楽とか、このメイクとか」
「えっ。お前、その化粧と髪の毛、好きでやっていたのか」
「当たり前じゃない」清水は唇をとがらせて云った。「好きでもなければ、手間かけてこんなことしませんよ」
「てっきり、その例の反骨精神でやっているのかと思っていた」
「違うってば。ほら、やっぱり何にも解ってない」
「…………」解ってたまるかと俺は心の中で毒づいた。
「まあ、そんな風にあたしは色々とひねくれていたんですよ。現実の世界を否定しながら、自分の世界を作っている。いや、というより、自分の世界を確かなものだと思い込みたくて、周りを闇雲に否定していたって感じかな。自分の意見が通らなくてふてくされた子供みたいに」清水はそこでくすくすと笑い始めた。「うん、そうだ。ふてくされてるって表現がいちばんぴったりはまる。つまりね、あたしは中学の頃、そういう状態だったんですよ」
「……それがどうしてミツルのことが好きになったんだ?」
「ミツル先輩を意識するきっかけになったのは、中学二年の秋でした。そう、ちょうど、今よりちょっと遅いくらいの時期。……ミツル先輩のことは前から聞いていた。陸上部の三年生にすごい人がいるって。背が高くて、足も速くて、頭も良くて、容姿もかっこよくて。クラスの女の子たちがあこがれの存在だって話していたのが何度か耳に入っていたんですよ。どんな奴なんだろうとは思ったけど、その時はそれ以上の興味はわかなかった」
「まあ、俺と違って、ミツルはあの頃から人気者だったからな」
「でも、ある日の放課後、生徒指導室に呼び出されたせいですっかり帰りが遅くなっていたあたしが校門を出たとき、ちょうど外周を走っているミツル先輩の姿を見かけたんですよ。その時のことは今でもよおく覚えてます。ミツル先輩の走る姿は、本当に、心に強く突き刺さりました。もう肌寒い季節にも関わらず、先輩は汗を垂らしながら、懸命に走っていました。ミツル先輩は、そう、きらきらしていた。先輩は足が速いからその姿はすぐに見えなくなりましたけど、その後ろ姿は直視できないほど輝いているように感じました。……陳腐な云いかただけど、本当にそうとしか云えないんですよ。きれいなフォームで走り去っていくミツル先輩の後姿には、あたしがそれまで否定していたものが全てあるような気がしたんです。その後、その見かけた人がミツル先輩だってことを聞いて、あたしは気が付けばミツル先輩の追っかけみたいになっていました」
「……その云いかただとまるで恋愛感情というよりは、ファンっていう感じがするけど」
「たぶん、最初のうちはそうだったんだと思います。けど自分でも抑えきれないほどの強い憧れが、いつしか恋愛感情に発展するってのは実際に起こることなんですよ。それで、どうにもならなくなったあたしは、とうとう勇気を出してミツル先輩に告白しました。ミツル先輩はすごく驚いてましたよ」
「まあ、そりゃ、そうだろうな」
「……で、結果は知ってのとおり、玉砕。それでも先輩への想いを諦めきれなかったあたしは、こうしてミツル先輩と同じ高校に進んだわけです」
「…………」
「まあ、ミツル先輩にとってあたしなんかが眼中にないことは、そりゃあもちろん解っていますよ。付き合うなんて、非現実的。先輩にその気がないのも承知してます。でも、それでもやっぱり諦めきれないんですよねえ。先輩にとってあたしがどういった存在であろうと、少なくともあたしにとって、ミツル先輩はあたしのことを変えてくれた、大切な人なんですよ」
「……まあ、確かにお前、高校に入って、丸くなったよ。今でも中学時代が原因の噂があれこれ流れているけどさ、こうして話を聞いていると、それがよく解る。ユウカがさ、お前と実際に話してみて驚いたって云っていたよ。初めて会ったときは噂のこともあって、ピリピリした険悪な雰囲気になっちゃったけど、色々と話したら、清水のことを誤解してたんだって反省してたよ。振り返ってみれば、あの時は、初めて会ったときは、あんな些細なことで怒った自分のほうが悪かったって、そんな風にも云っていた」
「ええ。あたしも聞きました。ユウカ先輩は何度も謝ってくれました」
「……後さ、お前は、自分がミツルの眼中にもないなんて自虐してるけどさ、実はミツルのほうもお前のことをけっこう気にしてたりするんだぜ」
「えっ……」清水は可愛らしい声をあげた。
「あいつがさ、サリンジャーの小説、特に『ライ麦畑で捕まえて』が好きなの、知ってるだろ。今思えばさ、あいつがあの本を読むようになったのはお前が告白してからなんだよ。たぶん、あいつなりにお前のことを理解しようとしたんだと思う。当時のお前の反骨精神とかさ、そういうのを」
「そうですか……」そう呟く清水の口調はどこか弾んでいて、その真っ黒な横顔にもわずかに笑みが浮かんでいるように見えた。
「……それにしても、さ。けちをつけるつもりはさらさらないけどさ、お前がミツルのことをそんな風に思っているとは意外だったよ。そうか、ミツルは輝いている、か。俺はそんな風に思ったことは一度もなかったよ」
「先輩の場合は」清水はさっきまでとは打って変わって平坦な口調で云った。「たぶん、ミツル先輩とあまりにも長く一緒にいすぎたんですよ。そのせいであの人の眩しさとか輝きみたいなものに慣れてしまったんだと思います。もっとちゃんとミツル先輩のことを注意して見たほうがいいと思いますよ」
「……ああ、そうするよ」
日はすっかり沈んでいた。まだ五時だというのに辺りは真っ暗だ。街灯も灯っている。清水と別れた後、俺は神社から学校までのルートをまた辿っていた。神社から家への直接の行き方が解らなかったからだ。清水から聞いた話は印象深かったが、ユウカの死に関係する情報ではない。収穫はまるでないみたいだと落胆しながら夜道(と云っても時刻はまだ五時を回ったばかりだが)をとぼとぼ五分ほど歩いていると、コンビニが目に入った。喉が渇いていたので中に入る。「いらっしゃいませー」という店員のやる気のない掛け声が俺を迎えた。店内はちょうど客の入りの少ない時間帯だった。俺以外には娯楽雑誌を立ち読みするサラリーマンが一人だけ。俺は冷蔵庫から炭酸飲料を一つ取って、レジへ向かった。店員がまたやる気のない声で値段を告げる。俺は鞄から財布を取り出し代金を支払おうとした。すると、急に店員が生き生きした声で、
「あれっ。もしかして、マサキか?」
店員は俺の顔をまじまじと見つめていた。俺も店員の顔を見つめ返す。レジカウンターをはさんだ奇妙なにらめっこが数秒続いた。
「もしかして、ケンスケか?」俺は云った。店員は満足そうに何度も頷きながら、明るい調子で、
「おお、やっぱりマサキか。そうだよ、俺だよ。やっべー、久しぶりだな」
ケンスケは、中学の頃の俺の同級生だ。それなりに仲は良かったが、家庭の事情でケンスケは俺とは別の高校に進んでいた。
「お前、ここでバイトしていたのか。すぐ近くの高校に通っていたのにまったく知らなかった。なんだよ、云ってくれればいいのに」
「まあ、最近始めたばかりだからな。それよりもさ、高校のほうはどうよ。お前、今でもバスケ続けてんのか」ケンスケはバイトの仕事もほっぽり出して、屈託なく話しかけてきた。
「いや、バスケはやめたんだ。今は弓道部に入っている」「ひゅーっ。まじかよ、弓道部か。へえ、お前が弓道やるとか想像つかないな」「中学の頃の俺も驚いていると思うよ。あの頃の俺はバスケ一筋だったからな」「水瀬はどうだ。あいつも同じ高校だろ」「ミツルは今でも陸上部だよ。あいつは俺と違って、一途なんだな」「ああ、あいつは一途だよ。うん、本当に」ケンスケはしみじみとしたように頷く。「そういえばさ、あの伝説の後輩、清水あやめも同じ高校に行ったことは知ってるか」伝説とは……。俺は思わず苦笑いを浮かべた。「ああ、知ってるよ」「まあ、そりゃあそうだよな。あいつ、有名人だものな」「いろんな意味でな」こいつに、さっきその清水と話をしたことを伝えたらどんな反応をするだろう。
「そういえばさ」ケンスケは上体をわずかにカウンターより前に出し、声を潜めて云った。「この間、お前の学校の生徒が事故で死んだだろ。俺、実はその子と死ぬ前にあっているんだよね」
「ええっ」今度は俺が身を乗り出す番だった。喉が渇いていることさえ忘れていた。
「いやさ、その女の子、亡くなる直前にこの店に来ていたんだよ。で、俺がその娘のレジを担当したわけ。けっこう可愛い娘だったな。あの娘があの後死んだなんて残念だよ」
「それ、間違いなく、その、事故で亡くなった娘だったのか」
「ああ、間違いないよ。事故があった次の日、わざわざ警察が訪ねてきてさ、その娘の写真を見せて、この人で間違いないですねって訊いてきたもの」
「警察が?」
「ああ。といっても、単なる聞き込みだったみたいだけどな。そんなに真剣そうでもなかったし」
「それで、その亡くなった娘がどんな様子だったか教えてくれないか」
ケンスケは、その聞き込みに来た警察とは違って真剣な俺に戸惑いの表情を見せた。
「どんな様子だったかなんて云われてもな。別にふつうだったと思うぜ」
「彼女は何を買ったんだ?」
「折り畳み傘だよ。赤色の折り畳み傘。今はコンビニでも五百円くらいの安い折り畳み傘が打っているもんなんだよ。ほら、あれだよ」
ケンスケが指さす出入り口付近の棚には確かにビニールの封に入れられた小さな折り畳み傘が陳列されていた。レインコートなんかもその棚にある。ビニール傘は傘立てに入って、棚のすぐ隣で売られていた。
「まあ、あの日は雨が降るって予報があったからな。たぶん、傘を忘れていて焦っていたんだと思う」
「けど、わざわざ女の子がコンビニの傘なんて買うか? しかも折り畳みを」
「いやいや。これが案外買うものなんだって。ちょうど家で折り畳み傘が壊れたばっかとかで、とりあえずちゃんとしたものを買うまでの代用にするつもりだったんじゃないか。お前だってコンビニでビニール傘を買うときの理由ってそんなもんだろ」
なるほど。確かにそうかもしれない。
「なあ、それっていつぐらいの時間だった?」
「いつって……。そうだなあ、うーん。ああ、そうだ。思い出した。午後の三時四十分より少し前だよ」
ミツルはユウカと十五時三十分に廊下ですれ違っている。学校から円山神社まで十五分ほど。円山神社からこのコンビニまで五分ほどだったから、学校からだと十分くらいでこのコンビニに着くことになる。俺とユウカとの歩幅の違いを考えたとしても大した誤差ではないだろう。となると、ユウカはほぼ寄り道せずにここまで来たことになる。
真剣に考えこむ俺を見てケンスケは、おいおいと不審そうな顔をした。
「なに。どうした。もしかして、お前、亡くなった娘と知り合い?」
「ああ、まあな。そんなところだ」
「ふうん」
本当は知り合いどころではなかったが、ケンスケに話すのはやめておいた。そこで俺はあることに気付いた。
「あれ、ちょっと待てよ。その娘は放課後すぐにこのコンビニに来たことになると思うんだけど、何でお前、その時間帯にすでにバイトに入ってんだ。お前の高校、その日、休みだったのか」
ケンスケは途端に顔を伏せた。
「ああ、実はさ、俺、高校やめたんだよね」
「えっ。そんな。どうして」
「高校じゃ俺のやりたいことが見つからなかったからだよ」
「……じゃあ、今は何をしてるんだ?」
「俺、役者になりたいんだ。だから今は親に土下座して頼み込んで俳優の養成学校に通わせてもらってる。それなりに有名な劇団にも所属して、役者になるための修行もしてる。まあ、もちろん条件もあってさ、学費とかはバイトをして全部とはいかなくても、いくらかは自分で稼ぐこと、五年以内に芽が出なかったら役者になる夢をきっぱりと諦めてさっさと就職することってのがその条件」
「…………」あまりにも意外すぎて咄嗟には声が出なかった。「結構、条件厳しいのな」
「まあな」とケンスケは健康的な白い歯を見せて笑った。「でも、わがまま云ってるって自覚はあるから仕方ないとは思う。むしろ、条件付きでもわがままを許してくれた親には感謝してるよ」
俺はその瞬間ケンスケのことが眩しく見えた。今なら清水の気持ちが少し解るような気がした。わけのわからない劣等感のような感情に包まれながら俺はコンビニを出た。よれよれのスーツを着たサラリーマンは雑誌コーナーで未だに立ち読みを続けていた。