桜の人①
「あの方だよ」
と、父は言った。
私は十五歳。父が仕える殿様ーー織田信長様に付き従い、岐阜城下に屋敷を建てて暮らし始め二年程が経ち、もとから美濃国といえば商人の国というほどに物が溢れていたから、当然それを楽しみに姉妹で市を巡り、ようやくここでの暮らしに慣れてきた頃だった。
普段は忙しくしている父が、穏やかな春の空を見上げて、
「少し歩いてみようか」
と、私を誘ったのだ。
大きな戦があったり、殿様の命令で諸国を訪ねたりと屋敷に帰るのもままならない父でらあるけれども、私たち娘の事は気に掛けてくれる優しい父だ。
私たちは四人姉妹で、姉様はもう他家に嫁がれておいでで、妹たちはまだ小さいから、父は時々こうして私を誘って下さる。
どこへ、と行く当てもなく、何かこれと言って話しをするのでもなく、ただ歩いて終わる事が多いのだが、この日は咲き始めた桜でも見ようかと城下を歩く事になった。
「あの方だよ」
ふいに父が言う。
促されるままに穏やかな父の視線の先を私も見つめる。城下にはとにかく人が多くてどの人のことを指しているのかわからない。すると、
「あの方だよ。ほら、あの大きな桜の木に手を伸ばしているーーそう、あの方だ」
父が言う「あの方」は、居た。
歳は私と然程変わらないであろう、少年とも青年とも取れる殿方だった。桜の木に手を伸ばして枝ごと手折っているその表情はとても嬉しそうで、とても切なそうで、何だかとても不思議な気持ちになった。
「あの方ですか?」
「そうだ。あの方だ」
「あの方がどうなさったの?」
「覚えておくといい」
「どなたなのです?」
「亡き織田信勝様の忘れ形見にして嫡男にあたるお方だ」
織田信勝ーーという人を私は見た事がない。その頃はまだ父は織田家に仕えてはいなかったし、私は生まれたばかりだったという。信長様の同母弟である信勝様は家臣たちの勢いに押され、織田家の家督をかけて二度信長様に謀反を起こし、殺されたのだそうだ。
その信勝様の嫡男がつまり、あの方。
「生きていらっしゃるのですか」
と、私は父に尋ねた。
謀反を起こし事を仕損じる。戦で負ける。そういった時には、嫡男をはじめ男の子供は仇討ちなどしないように殺してしまうのが世の習いだから。
「生きて、しかも織田家中で保護されておる。きっと素晴らしい武将になると皆が評するお方だ」
「謀反人の子が、ですか?」
「そうだとも。何せ殿様がーー信長様が一番寵愛していらっしゃるのだからな」
「まあ!」
声をあげてすぐに思わず口に手を当てる。城下を行き交う人にジロジロと見られてしまった。
自分を殺そうとした弟の子を寵愛するなんて殿様はとても変わった方。
「でもーー」
わかるような気がした。だって桜の枝を手折っていたあの表情は裏のない素敵な笑みだったもの。
それを伝えると父は微笑み、
「戻ろうか」
と踵を返した。