薄れる記憶と新たな思い出
タクトと双葉は寄り道こそしたものの、ユートピアを目指す旅を続けていた。タクトは栗毛馬に、双葉は鼠色の怪しげな馬にそれぞれ乗っていた。双葉は最初こそ苦労したものの、今や普通に馬を乗りこなしていた。
「オイ、双葉」
「・・・・」
「オイ」
「はい」
双葉はビクッと姿勢を正すと、タクトの方を見た。彼は呆れたように溜息を吐いた。
「馬上で寝るなよ。気持ちは分かるが、ここからは少し地形が変わる」
タクトが指差した先には、草丈の短い草原が広がっていた。否、草原という表現は正しくないかも知れない。敢えて言うならそれは湿地だった。
「このムーア地形を越えれば、ユートピアに着くらしい。あくまで聞いた話ではな」
「へえ~」
双葉はどうでも良さそうに、再び微睡の世界に入ろうとしていた。それをタクトがげんこつで目覚めさせる。
「あだ」
双葉は手で頭を押さえ、それでもまだ寝ようとしていた。
「どうしたんだよ?」
「実は、昨日から変なんだ。いや、もしかしたらこの世界に来てからずっとかも知れない。前の世界のことが思い出せないんだ。言っただろ。俺は男だって、それは覚えているんだけど、どんな学校に通っていたとか、家族の名前とか、思い出を毎日少しずつ忘れているんだ」
「思い出か・・・・」
タクトの頭にエリスの姿が浮かんだ。今は覚えているが、いつか自分も彼女のことを忘れてしまうのだろうか。それはとても恐ろしく、考えたくないことだ。
「大丈夫か?」
「ああ、うん、平気・・・・」
タクトは心配そうに双葉を見ていたが、そんな彼の心に大きな魔が差した。
(このまま双葉が前の世界を全て忘れたらどうなるだろう)
タクトはその先を考えた。
(この世界の記憶が全部になれば、俺との思い出だけが残る。そうだ忘れれば良い。毎日少しずつ忘れて迷えば良い。そして俺を頼りにするんだ。俺がいなけりゃ生きていけないぐらいになれば良いんだ。そして男だったことも一緒に忘れちまえ)
タクトは心の中で呟きながら、罪悪感に苛まれた。自分はエリスの代わりを求めているだけだった。突然、幻想のように現れた彼女にそっくりな双葉に、エリスの面影を重ねている。それは双葉への侮辱であり、エリスへの侮辱でもある。しかし気持ちを抑えられない。自分のことを冷静に見ることができない。
仮に、自分がここで双葉を強引に手籠めにしてしまったらどうだろうか。彼女の肌も声も生命も、全て自分の物にできやしないだろうか。
「そうだ・・・・」
タクトは思った。双葉は自分の物だったのだと。決して他の連中には触れさせはしない。笑った顔も、泣いた顔も、寝顔も、全て自分の物だった。
「タクト・・・・?」
さっきまでぼんやりしていた双葉も、タクトの異常な様子に気付き、思わず彼の元に駆け寄る。そして背中を撫でた。まるで何かのどに詰まらせた物を吐き出させようとしているみたいだった。
双葉が近付くたびにタクトはより苦しんだ。体の底から来る劣情を抑えられない。彼女の乱れる姿が脳内を染めて行く。もし双葉が本当に男のアイデンティティーを持っているというのなら、ここで強引なことをしても、男だから仕方ないと、笑って許してくれるだろうか。いや、それはない。人の尊厳を傷付けておいてそれはない。
「双葉・・・・。先行ってろよ。すぐに追い付くから」
それが精一杯だった。今の自分は何をしでかすか分からない。だから双葉を先に行かせた。
双葉は近くを通った別の旅人から道を聞かれていた。当然、地理に疎い双葉が答えられるはずはない。しかし彼女は、旅人の男に微笑みかけていた。その時、タクトの心の中の何かが壊れた。
(俺の許可なしに笑ってんなよ。その表情は俺だけの物だろうが。あのアホ面の男も早く散れよ。知らないっつってんだろうが)
旅人がいなくなった後、タクトは双葉の前に馬を止めた。そしてその暗く濁った眼差しを彼女に向けた。
「何だよ・・・・」
「悪い。今からお前に酷いことする」




