『松下葉菜(最後の夜)』
今話は葉菜さんが主役です。
葉瑠菜三人と浩史だけしか知らないちょっとした秘密があった。葉菜が自分から料理をしだした理由と彼女の内面に関してだった。
高校3年生の時に一人きりになった榛菜は自炊する気力さえも無くして、浩史と婚約するまでの1年半以上もの期間、全く料理をしていなかった。主にカップラーメンと市販のサンドイッチだけで済ましていた。
だが、結婚が決まった後で榛菜が久し振りに作った弁当を美味しそうに食べる浩史を見た時に一変した。その時の記憶と精神を引きずった葉菜は料理を作る事にとりつかれていた。
そして、4人以外には葉菜の感情が一番乏しいと思われてしまうが、実は彼女が一番感情的だった。葉菜が出来る限りしゃべらないのは、その事を自分自身で自覚していたからで、本当なら瑠菜以上に話せた。
だから最後の夜くらいは今までの分もしゃべろうとしたが、いざ話そうとすると無口になってしまった。瑠菜の感情が流れ込んだ事も影響していた。今までは思考だけが繋がっていたが、最後になって感情まで繋がってしまった事は三人に影響を与えていた。
瑠菜が浩史の背中にしがみついた時は辛うじて感情を殺して、みんなをキッチンに入れないように出来た。今も二人の感情がかすかに流れ込んでいる。三人の中で一番感情をコントロールする事が巧みな菜々でさえ動揺してしまう状態では、葉菜が感情を抑えきれなくてもおかしくなかった。
だから、葉菜はリビングで陽菜の髪の毛を黙々とブラッシングしてあげながら、今思っている事をどう言葉にして伝えればいいのか途方に暮れていた。辛うじて一言だけ言えた。
「髪の毛」
「え? 何?」
葉菜は数秒の間を費やして、やっと次の言葉を言えた。
「いい」
「そう? 私も葉菜ちゃんにブラッシングしてもらうのが一番気持ちいい」
葉菜は再び黙ってしまった。
陽菜は髪を腰まで伸ばしていた。葉菜はその髪の毛をブラッシングしている時が一番幸せだった。わざわざ小遣いを貯めて最高級の純豚毛を使った高価なブラシを購入したほどだった。陽菜の母親のDNAで出来ている自分の髪の毛より柔らかく、これほど伸ばしていても枝毛が少ない。多分、浩史の遺伝のおかげだろう。
「好きだもの、陽菜ネェの髪」
「そう言えば、葉菜は陽菜の髪をいじっている時は何となく幸せそうだよな」
一樹が珍しく葉菜の心情を突いた発言をした。いつもより感情的になっている為に、葉菜は容赦ない攻撃を一樹に浴びせた。
「カズニィの変態」
「な、なんでだ? どこをどうすれば変態になるんだ?」
「この妹コンプレックス」
「おーい、葉菜。お兄さんには何の事か分からないのだが?」
「髪フェチ」
ここで、陽菜がプっと噴き出した。
『葉菜ちゃん、逆、逆! カズニィの事じゃないよ、それ』
だが、一樹は気付いていなかった。その証拠に彼は逆襲に出られなかった。
「だから、俺に分かる言葉で言ってくれ」
「美咲さんが可哀想」
「え、そうなのか? また何か変な事を言ったのか?」
一樹がうろたえた声を上げた。彼にとって、女心が分からないという事は自分の致命的な欠点と思い込まされていた。
だからいくら勉強が出来て、日本有数の大学のK大(葉瑠菜にとっては実験材料にされた思い出しか無い)にトップクラスで入学しても、恋人の美咲の名前を出された時は後ろめたい気持ちになってしまう。
特にあの結婚に至る話を聞いた後では、男女間の機微は葉瑠菜三人に敵わないと思い込んでいた。ましてや相手は一樹にとっては三人の中で一番気持ちが分からない葉菜だった。
「教えへん」
ついに一樹は降参をした。
「なんか、良く分からないけど、すまん。俺が悪かった」
一樹は途方に暮れた顔になってしまった。
「ほら、カズニィも謝っているから、その辺で許して上げたら?」
「陽菜ネェが許して上げるんなら、もうええ」
一樹にとっては何がなんだか分からないが、ここは下手に出た方が良さそうと判断した。
「陽菜、悪かった」
「はい、はい。もういいよ」
陽菜は思わず顔が緩んでしまった。カズニィもこの2年間で多少は進歩したようだった。女の子の理不尽な怒りに対して、冷静に反論しても逆効果という事くらいは理解したようだった。周りで事の成り行きを楽しんでいた家族も同じ気持ちだったのだろう。顔がにやけていた。菜々が思い出したように声を掛けた。
「葉菜、陽菜ネェにプレゼント渡さんでええんか?」
「そうやな。持って来る」
葉菜は菜々があえて声を出した理由を無言で訊いた。答えも無言で届いた。
『陽菜ネェのわくわくする顔を見たいやろ? それに今のうちに渡さんと、つらくなるで』
葉菜は菜々に感謝の気持ちとお礼を送りながら、疑問が湧いた。
『菜々は雄クンに何か贈ったんやろか?』
答えは直ぐに来た。菜々の思考は半分すねた感情を伴っていた。
『もう! これはあかんな。ちょっと強く思っただけで駄々漏れなんはさすがに恥ずかしいで』
『堪忍やで』
『違う、違う。葉菜に言うたんと違うで』
『菜々もやっぱり人の子なんだね。それで、何贈ったの』
「ほっぺにキスしたったで」
全員が一斉に菜々を見た。浩史たちの顔は驚いていた。いきなり菜々が変な事を言い出したからだ。
だが、菜々が一番驚いていた。浩史が冷静になろうとして、失敗している間に陽菜が先に訊いた。
「さあ、菜々ちゃん。お姉さんに白状しなさい。相手は?」
「アー、アー、ワレワレハウチュウジンダ。700マンネンノカコカラヤッテキタ。クロイセキチュウヲサガシテイル。シラナイカ、ゲンジュウミン?」
「駄目よ、壊れたふりをしても。雄一君ね?」
菜々は観念した顔でうなずいた。
「いや、そのな、泣きそうな顔を見てたら、つい。でも健二君が僕も僕もって言うたから、健二君にもしたで」
菜々はそう言葉にしながら、瑠菜に文句を送った。
『瑠菜の影響やで。あれは強烈やった』
『ごめんね、菜々』
『ま、許したろ』
だが、陽菜の追及は容赦がなかった。
「それで?」
「いや、だから、それで終わりや。ちゃんとしたキスは綾ちゃんにしてもらい、ってフォローしたで。すぐ横でアーって顔してたけどな」
「い、いや、お父さんは別に構わないぞ。ほっぺだけだったら」
浩史がやっと声を出した。陽菜は無視して更に畳み掛けた。
「それで?」
「ごめん、綾ちゃんのほっぺにもした。でもな、別にやましい気持ちや無かったんやで。でも、ぷにぷにしてた」
「だから、お父さんはほっぺなら別に」
「もう、父さんは黙っていて」
陽菜が浩史をさえぎって、更に追及しようとした時に葉菜が紙袋を持って来て、陽菜に渡した。陽菜はあっさりと菜々への追及を放り出して、笑顔でお礼を言った。
「ありがとう、葉菜ちゃん。見ていい?」
「三冊有るけど、一番上のだけなら。残りは後で一人の時に見て」
陽菜は言われた通りに一番上の本を取り出した。手作りの絵本だった。題名は『陽菜ネェと愉快な仲間たち』となっていた。陽菜は無言になって、表紙をめくった。
見開きで家族の似顔絵が描かれていた。その絵は子供たちには内緒で絵本を描いていた母親とそっくりな作風だった。そして、描かれている内容は家族の日常を優しい目で見た、ほのぼのとしたものだった。絵本に素人の陽菜が見ても心温まる絵本だった。
「これは大仙公園に初めて行った時の話よね。懐かしいわね」
しみじみと陽菜が言った。
「うん、そう。その三冊全部、陽菜ネェに上げるから、好きにして」
「ありがとう」
世にも奇妙な運命に立ち向かった家族は、この2年間の思い出を深夜まで語り合った。話しても、話しても話のネタが尽きなかった。
いや、黙ってしまう事が怖かったのだ。話し終えてしまうと、寝なくてはいけない。寝て起きると最後の日になってしまうから。
陽菜はこの時ほど、時間が止まればいいのにと真剣に願った事は無かった。
奇しくも葉瑠菜三人も同じ事を送り合っていた。
如何でしたでしょうか?
残り3話です。




